- Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101132181
感想・レビュー・書評
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◯名作。大変面白かった。
◯現代人であれば必ず読むべき一冊。将来の自分をあらゆる意味で見通す。
◯現代における個人の孤独を鋭く描写している。鋭角過ぎて突き刺さるほどである。
◯文章表現・演出も巧みである。言葉の選び方が場面を活かしている。
◯昔から認知症はあったはずである。しかし、核家族化が進む中で、認知症の存在は忘れられ、血縁である家族ですら、認知症を忌避することとなった。
◯また、個人を尊重する世界の中では、他者のことはまさしく他人事なのである。それは家族であっても。現代の孤独の構造を先鋭化して我々に突きつけるのが認知症であり、その故に文明病なのである。
◯この小説が描かれたのは高度経済成長の最中であり、今以上に福祉制度が発達しておらず、それを補完する形で家族制度が維持されているという悲しい幻想の中で、極めて個人・個が浮き彫りとなってしまった実態との乖離が人々を悩ませている。
◯現代においては、介護保険制度が成立、運用され、老人への福祉制度は充実したかに見えても、今度は子育て世帯が孤立を深め、虐待へと繋がってしまう。あわせて少子化がどんどん進んでいく。現代人の孤独の構造は全く変わっていない。むしろ、制度が充実するほどに、矛盾してより深い傷となっているのではないか。現代の孤独が、現代の社会問題すべての原因とも考えられる。
◯この小説に出てくる人間たちは、実に現実的で、それ故に我々の共感を呼ぶが、全員自分の事しか考えていない。結末で孫が言ったことは悲しい。それに涙した母は、最後に義父と家族になったのかもしれない。
◯登場人物たちのそれぞれに共感する。しかし、その共感には違和感を覚えていいのかもしれない。我々の孤独に対してどのように対応していくのか、今もって結論は出ていないのだから。 -
乾いた筆致で有吉さんが「老い」や「死」、「家族」を淡々と描く。特段の美化も遠慮もなく、今の時代であればおおよそ差別的意味合いを以てして使ってはならないとされている単語が跳ねる。
夫の両親と敷地内同居しながら、法律事務所で職業婦人として働く女性昭子。
専業主婦が当たり前であった時代、仕事と家事、受験生である息子のサポート、加えて義理父母の老いや死に全速力でぶつかり切り拓く昭子の姿は当時新鮮だったことだろう。
老いの現実、死に伴う儀式の空虚さ等々、飾ることなく淡々と粛々と。疲れ果てながら舅の老いに向き合う自分の不寛容さや、不甲斐なさが細やかに綴られ、また自らの親でありながら介護に逃げ腰の夫に不満を感じながら時間が経過する。
よく言われることだが、同じ苦労でも成長していく育児と異なり、ゴールや前進が定まらない介護。目標も充足も見いだせず時が経過するのは辛い。
世間体に右往左往し、医療と福祉のはざまのどうにもしようのない事態に困難を極める様に読み手の心も塞ぐ。
年を取ってこうはなりたくないと、老いて生産性がなくなるどころか、周囲を困らせる舅の行動の連続に介護する昭子と夫が自分の将来の老いに絶望する。
私も子どもたちを食べさせること、育むことに無我夢中だった今までの時間。
子どもたちが巣立った今、気づくとコントロールできない老いが足元にあった。
自分が年を取るなどと想像だにできなかった若い頃から一足飛びに時間が経過する。
高齢化と少子化に待ったなしの現代。有吉さんの1974年の作品は今を予言していたかのようだ。
嗚呼、ピンピンコロリが私の夢。子どもたちには迷惑をかけたくないなあ。 -
これが、40年以上も前に書かれた本だなんて。
名作は年月が経っても色褪せないように、時代を感じさせても古臭さを一切感じさせない1冊でした。
「愛」と同じく「老い」というのは、時代を越えて語り継がれる普遍的なテーマですよね。
中でも焦点が当てられているのは、「認知症」について。
300万人以上の認知症高齢者がいる現在、65歳以上の10人に1人は認知症だと言われています。その割合は年齢が上がるにつれ増えていき、85歳以上の4人に1人は認知症なのです。寿命が長くなればなるほど、避けては通れないのが認知症に関すること。
それを40年以上も前に取り上げ、社会に大きな影響を与えた著者の功績は大きいですよね。
とはいえ、私は最初この本に対していいイメージを抱いていませんでした。
認知症というとネガティブなイメージを抱く人が多いですが、この本こそが認知症のマイナス面ばかり取り上げ世間に広げた本、という誤った認識を持っていたのです。
衝撃的な書き出しから始まりますが、この本は真摯に老いる人、介護をする人、そしてそれらを取り巻く社会について向き合い描き出した1冊だったのです。
介護保険が始まり15年ちかく経ち、介護の社会化も随分進みました。それでも希望する人がすべて施設入所できるわけではなく、むしろ私たちは限られた財源の中、地域で包括的にケアしていく道を歩んでいくようになります。
仕事柄認知症の方と接する機会が多いですが、人はその人が生きたように老いていくのだと感じます。私もいつかは、老いてかわいいお婆ちゃんになりたい。
本書で登場するような働く嫁と介護の問題、施設入所を希望してもできない現状、徘徊への対応など課題は今もなお残されていて、超高齢社会を生きる私たちにとって、「老い」は避けて通れないものであるからにして、早いうちからしっかり向き合っていきたいものですね。全ての人に1度は読んで欲しい1冊でした。 -
有吉佐和子本をいろいろ読んでいても、痴呆症がテーマということを聞いてなかなか手が出せなかった本。意を決して読んでみたら、さすが有吉さん、暗さ一辺倒の本ではありませんでした。
私が有吉さんの本が好きな理由としては、ちょっと前の時代のイキイキと働く女性の姿に共感できるから、というところがあるんだけど、まさかこの本でも主人公が働いているとは思わなかった。40年近く前に書かれたこの本の中で、主人公の昭子は働きながら家事をこなしています。昭子は「うちの家計に余裕があるのは私が働いているから」と自負していてデパートで高級な冷凍食品を買ったりするけれど、夫の信利は「あいつは好きで働いているだけ」と、昭子の働きを評価しません。また昭子は「家事と仕事の両方をこなすためには、文明の利器はフル活用しなきゃ」と当時まだめずらしい冷凍庫付き冷蔵庫や洗濯乾燥機を駆使して毎日を乗り切っています。・・・これってなんだか、つい良い食材を買っちゃったり、ルンバを買ったりしてる働く現代女性と同じじゃないすか!すごく親近感が湧いてくる描写でした。でも小説の中盤で彼女の仕事がタイピストだと知り、ああ、今はない仕事なんだなーーーと感慨深いものがあったり。
そうこうしているうちに、舅はどんどんボケていくのですが、信利はまったくヒトゴトモードで手伝いなんて何もしてくれません。もう、信利には腹立たしいの一言であります。そして、赤ちゃんがえりした舅に「あー面倒くさい。早く死ね!」と、つい思ってしまうのですが、物語の意外な終わり方を見届けた後では、ああ、痴呆の介護ってそんな単純な問題ではないよね・・・と短絡的思考の我が身を反省いたしました。ごめんなさい。
大変な状況を乗り切った昭子には、賞賛の言葉がかけられるべき。なのに、当時は全然そんなことなくて、そんな扱いが当たり前だったんだよね。切ない。せめて私から、「大変だったね!40年後のいま、介護をめぐる行政サービスはそれほど変わっていないけれど、夫たちの協力する姿勢は少しは改善しています。そして高齢化社会は予想通り加速し、世の週刊誌は毎週毎週介護特集ですよ」と慰めの言葉をかけてあげたいです。
そして、痴呆症を陰の存在から、みんなの共通する話題へと引き上げてくれた有吉さんは、ほんとにすごい人なんだなーと思う次第です。 -
タイトルと、認知症を題材にした話ということ、映画化されている、という情報のみ知っていた。
昭和47年に書かれたものだと知って驚いた。昔の小説なのに読みにくさはなかった。
昭子が私の祖父母世代、敏が私の親世代だと気付いた。茂造は明治生まれだから私の曾祖父母世代か。
昭子は、さんざんいびられたのに、仕事も続けながら舅の介護をやり遂げた。当時にしては珍しい、職業婦人で、電気洗濯機、さらには電気乾燥機まで持っていたというのには驚き。(私の祖父母世代は、桶と洗濯板で洗っていたと聞いていたし、乾燥機なんて当時存在していたのか⁉️東京はそんなに進んでいたのか⁉️)当時にしてはかなり先駆的な家庭だったのでは。
昭子は、「私が仕事を辞めて介護に専念すればいいと思ってるんでしょ?」と夫にイライラし、信利は自分の親なのに「将来の自分を見ているようで辛くなる」と言い、オロオロするばかりで何もできないところは、現代もあまり変わっていないと思えた。
息子や娘の顔は忘れても、嫁と孫の名前は覚えている茂造のことを敏が、「誰が自分の世話をしてくれるか、役に立つ人か、本能で覚えているんじゃないか」と言ったのはすごい考察だ。
茂造の妻は、夫が耄碌していることを隠していたのかな。夫を立て、周りから変な人だと思われないように、息子夫婦に迷惑をかけないように、毎日世話をしていたのかな。
昭子は、嫁いびりされていたのを思い出すと怒りが湧き、「昭子さんのことが好きなんじゃないの」と言われてゾッとしていたが、だんだん息子の世話をするような気持ちに変わっていき、ついには「私の手でできるだけ長く生かしてやろう」という境地に至る、心情の変化が描写されている。よく頑張った!!
当時の福祉サービスについても垣間見ることができた。老人会館というのが今のデイサービスのようなもので、老人ホームもあったが、人格欠損した人、身寄りのない人が入る所で、福祉職員でさえも、「あそこへ入れるのはかわいそう。家で見るのが一番。」という考えが一般的だったのかな。
昭子は、家に福祉職員が来て話をしたのに、老人ホームはいっぱいで、何も建設的な意見が聞けることなく落胆した。だからみんな仕方なく最期まで家で見たんだな…すごいの一言に尽きる。
茂造は、娘から、「お父さんの人生って何だったんだろうね。妻にも優しくできず、息子にも孫にも興味なく、嫁いびりして、自分の胃腸のことばかり気にして、最後には耄碌して」というようなことを言われている。そんな茂造が、最後には赤ちゃんのようにニコッと笑うようになって、小鳥と花とオルゴールを愛でる天使のようになって、こんな日が来るなんてねぇと昭子や敏が言い合っている。本当に、幸せなおじいさんだと思った。
門谷さんのお嫁さんも言っていたが、「あんなに憎かった人のお世話をすることによって、今は神様にご奉仕しているような気持ちになる。今頑張れば自分も安らかな老後を迎えられるような気がする。」と。終わりの見えない辛い介護の中、みんなそういう気持ちで耐えてきたんだろうな。
この本に出会えて良かった。
森繁久彌さんの映画も観てみたいと思う。 -
気難し屋の義父にさんざん泣かされ、別居して暮らしていたが義母が亡くなり義父のアルツハイマーが発覚。
半年は仕事を続けながら世話もできたがどんどん悪化して施設に入れようか福祉に相談するが規約で受け入れる先が困難だと分かる。しかも家族が面倒を見るのが当たり前とも言われ、途方に暮れる。
この小説の救いは家族以外の人が手を差し伸べてくれること、一人息子も協力してくれて介護も地獄のような苦々しいものになっていないので、途中で気落ちすることなく読み進めることができた。
なる様にしかならないのはわかるがどこで諦めがつくのか、心境も綴ってあるので備えとして読むのもいいかもしれない。
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何と壮絶な介護記録。
これが昭和47年に出版されたということは、50年近く前の話。。。当時これを読んだ人は、さぞかし衝撃を受けただろうな。。。。
私自身、介護に詳しいわけではないけど、この本で書かれている問題って今も結局変わってないような気がする。
介護対象者が家族に出たら家の誰かが(特に嫁が)犠牲にならざるを得ない、施設に預けるのは世間体が許さない、女は仕事をしないで家族の世話をするもの、という、もしかしたら当時は当たり前だった考え方。
それに対して、自分自身の考えや周りから得た知識を元にして、家族の理解も得られない状態にも関わらず、ちゃんと丁寧に茂造に向き合って最後まで誠意を持って対応した昭子に、敬意を表する。私なら絶対ここまで出来ない。
息子敏の『こんなふうになるまで生きないでね』の言葉も本心だろう。私自身も自分にそう思う。
読み応え満点。
すごい。 -
老人介護を巡る問題。中島京子の「長いお別れ」と「恍惚の人」の2冊を相次いで読みました。40年という時間の隔たりがあるが、前者の長いお別れが家族の大変さを描きながらも、どことなく「明るさ」が感じられるのに対し、恍惚の人にはそういった「明るさ」があまり感じられないことが印象的でした。この差は何でしょうか。介護保険制度がスタートしたのはいまから20年前、両方の小説のほぼ真ん中にあたるころです。この20年間で介護保険も紆余曲折を経ながらも、健康保険や年金と同じく、社会に根付いてきており、それを社会も受け止め始め、それが読み手の意識の根底にも無意識のうちに根付きつつあるということかもしれないと思います。2冊の小説を読み比べてみると、介護の社会化は進んできているかもしれないと思っています。
心理行動症状にフォーカスしてしまい、当事者の生き辛さがないがしろにされている。
このラベリングによる弊害は今も払拭できていないのです。
正しい当事者理解に繋がればと思います。