- Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101296715
感想・レビュー・書評
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john gastroの純文学コーナー「J/B」で購入。
本質ではないけど、映画館で会った女の子の突き抜けた痛さが心苦しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
古代の歴史書には「いつも通り」の物事は記録されない。記録されるのは何か異例のことが起こったりしたとき。
この本の中には、ちゃんと意識したことないけど日常の中に確かに存在してるもの(そしてそれらは歴史書を綴るときにはまず書かれない)が意識的にたくさん描かれていた。
「部屋の天井の蛍光灯のうち、外側に据え付けられている大きな円の方」「直径二十センチほどの、滑り止めのための環状の模様のへこみ」「帰り際に客がトレーをそこに自分で重ねて片付けるための置き場」などなど。
実をいうとこのことに気付いたのが2篇目の後半を読んでいる時で、それ以降にそういう表現に出逢ったらメモろうと思ったのだけど、マジでめちゃくちゃ出てきて書き切れなかった。
それは物の名前以外にも、何でもない動作とか、感情とか、「わざわざ小説に書くほどではないけど間違いなく存在すること」が十分な分量で書かれていて、そのためか読んでいて気持ちが良かった。 -
とても心地よい言葉の海にひたれました。難解な内容だったのに幸せな気分です。三月の五日間の方が好き。私の短い今までの人生に訪れた「特別な時間」に想いを馳せたい。
ピースの又吉さんがオススメしていたので読んでみたのだけど、又吉さんにとって本は「起承転結エンターテインメント」より「本を媒介として自分の内面と向き合う」ものなのかなと、この本を読んで勝手に想像したりしてしまって、それも含めて楽しい読書時間だった。また読みたい。 -
買ったまま積んでいたのだが機会にあったので読んでみた。大江の選評にあるとおりここには「良質の悲しみ」がある。人称が自然に変わっていったり同一人物が同時に別の場所に別な形をとって存在したりといった手法が、効果的に使われ、著者の情景描写の妙もあってこれを優れた小説にしている。漫画やある種の映画では到達しえない小説ならではの良質な体験を日本の現代作家において読めるということはすばらしいことだと思った。これからもどんどん作品を発表してくれたらと思う。
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久々に再読。淡々と仕草や心情を描く語り口ながらも、時折おっと思わせる比喩がいいアクセント。
二つの中篇に漂うのは虚無感で、若い男女の現実逃避とその後に直視する現実のギャップがそう感じさせる。現実とはすなわち「三月の五日間」ではホームレスの姿であるし、「わたしの場所の複数」ではゴキブリであった。ラブホテルや湿気たっぷりの部屋という決して美しくもない場所での現実逃避の後、忌み嫌うような汚ならしい現実が突きつけられる姿は不快ともなんとも言い難い読後感であり、この読後感もまた主人公達の気分を追従しているようであった。 -
高橋源一郎の文芸批評を読んで興味をもった本書。
「三月の5日間」では今流行りらしいインスタントセックスを描きながら、それがどうもちっとも「インスタント」らしからぬ感じで、「わたしたちに許された特別な時間」という語感が示すとおりの、妙に人なつっこい憧憬を感じさせる。
あらゆる現在の文芸作品でセックスは消費され、まさしく「僕」の性器のようにすりきれてしまった。と思っていたけど、ここにあるセックスの質感はそういった「消費」される類のものではない。それはでも「僕」にしても「私」にしても、いつもそのようにセックスしているわけではなく、やっぱりライブハウスのパフォーマンスを見た後であり、その後の妙な昂揚感とともに外の世界ではイラク戦争もはじまっているし、にもかかわらずラブホにこもりきりでセックスしまくるという、二度と来ない「二〇〇三年三月」の5日間だからこそ起こり得たことで、「二度と来ない『二〇〇三年三月』の5日間」は同時に、読者にとっての「特別な時間」でもある。それはなんだか、強烈に「つながってる」感があるじゃないか。
「特別な時間」をつづけるために、「僕」と「私」はひすたらに、すりきれたってセックスしつづける必要があったし、それが彼らにとっての黙契でもあった。
「わたしの場所の複数」ではラストで自分が今読んできたものの土台が揺らぐ、「わたし」の存在できる「場所」は確かに、こんな風に「複数」考えられるのだった。
小道具ひとつにしてもすべてつながっているのか。ゴキブリは空き缶を倒したらしく、その缶は夫がフリーペーパーを読みながら飲んだもので、「わたし」はゴキブリの出現とともに、そのフリーペーパーを丸めてゴキブリを迎撃せんとする。わーお。
身体感覚にとても繊細に感応しているのだろう、興味深い。
語り手である「わたし」は結局は家から一歩も出ないわけだし、というかほとんどがベッドの上で仰向けになったり横向きになったり寝転んでいるだけなのだが、たまに頭と足の上下を入れ替えてみたり、右脚を曲げて脚を組むようにしてみたり……そういった微妙な動きが、しかしちっとも退屈ではない。
あとコールセンターで働くarmyofmeさんの愚痴は、サイコーだね、「あるあるあるある……」といった感じで。けどこの愚痴をたとえば「わたし」が語ったとしたら(状況的にはあってもよさそうだけど)、途端につまらなかったろうなと思う。armyofmeさんという知り合いらしいが誰かという特定がつかない人物がブログで書いているのを、怠惰に寝転がった「わたし」が読んでいるというほうが、「わたし」が語ってみせるより滅茶苦茶リアルな質感がある。考えてみると、これはとてもヘンな話で不思議だけど。
著者の本をもっと読んでみたいな、という気持ちになった。 -
読み終わったんだけど、登録するの忘れてて、何ていうか3月の五日間ってこの本でももちろん空気の流れ方とか独特で素晴らしいんだけど、やっぱチェルフィッチュの舞台を見てしまうとどうしようも忘れられなくなっちゃうんだよねってやつ、今からやりますー。
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ここにいるようでいない、切り取って貼ってはがれて、それらがひとつの空間をつくりだしていて、ずっとそこにいるのははじめから無理だと、だからこそ特別なのだと、通り過ぎるように読みました。
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早く新作が読みたい。久々の大収穫。
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京都からの出張の帰りに読んだから余計にかもしれないけど、なんだか切なくなった。小説も戯曲も(当然演劇も)イラク戦争のことを題材にしてるんだけど、僕はこれは恋愛小説に近いと思った。
誰だってこういう恋愛も選択肢にあっていいはずなんだけど、たぶん大多数のひとが切り捨てていて、その切り捨てられた選択肢のことをなんとなく想った。