- Amazon.co.jp ・本 (125ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103345114
感想・レビュー・書評
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「あなた」のすべてを「わたし」は見ている。
不倫相手の妻が亡くなった。
彼の三歳になる娘と、同居をはじめた。
妊娠するのは気乗りがしないので、すでに産んである子供は好都合だった。
無口でおとなしい手のかからない娘との暮らし。
不倫相手は妻を亡くしてから、自分のことを抱けなくなった。そうして彼は、また愛人を作る。
そして自分も古本屋の男を愛人にする。
そんな父や継母を姿を、おとなしい「わたし」はずっと見ていた。いつも爪を噛みながら。
「あなた」のわるい目が、コンタクトレンズ越しに見ている世界。それを、「わたし」の、目とギザギザの爪で正しいものに変えてもいいですか?
怖い!淡々と進むストーリーに、終始語られる「わたし」目線の話。
人間味の無い父と継母も不気味で、後味の悪さも抜群な読後感が私には好みだった。
あの後も継母と暮らしていることが一番怖いかな。
「しょう子さんが忘れていること」
脳梗塞を患い、リハビリ専門の病院に入院しているしょう子さん。
同じ患者の川端くんは、若く優しく皆の人気者。
夜になると彼はしょう子さんのベッドへやってくる。
川端くんの話を嬉しそうに語る、孫娘は独身の37歳。しょう子さんは37歳の頃、すでに子供を得ていたし、37歳の時には最後のセックスを済ませていた。
夜、消灯後にまどろみながら、知らず知らずにセックスについて考えている自分が不快になるしょう子さん。今夜もまた川端くんがやってくる。
彼はしょう子さんの力の入った目尻にくちびるをつける。なぜ、朝にはこのことを忘れるのだろうと思う。しょう子さんの妄想なのか否か。
セックスについて考える自分に嫌悪感を抱きながら、若く溌剌とし、誰にでも優しく接する川端くんに嫉妬しているのか・・?
自分の中に葬ったはずの色情が見せた妄想か・・?
年を重ねても、誰かに身を委ねたいと思うことは自然なことだと私は思いたい。
「ちびっこ広場」
霊に呪われたと泣く息子。
そんなものは嘘だと証明するために、真夜中の広場に行こうと息子の手をとる母。
一番わかりやすい話だった。
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小説という表現方式は、たぶん、どこまで行っても「誰か」の眼で見た「世界」が、「誰か」によって書かれるほかには書きようがないと思います。その「誰か」が「私」であれば、自分の内面だらか見えちゃう心の奥底を告白したり、なんでも見えてしまう「神様」だったら、あの人のことも、この人のことも全部説明出来ちゃったり、たとえば漱石は「ネコ」の眼で「人間」を見させることで「人間」を描いて、まあ、笑わせたわけで、読むときも、なんとなくそのルールを信頼して読んだりするわけです。
この作品は、その「誰か」の設定が工夫されているところがミソなのですが、驚いたことに、その「誰か」は作品中に実在する幼い少女であるにもかかわらず、見えるはずのない他者の経験まで「書き」つけることが出来てしまうという、ぼくのような老人から見れば、ただのルール破りの存在なのですが、なぜか「芥川賞」だったりするわけです。
老人にはルール破りとしか思えない方法によって生まれるのが、好意的にお読みになっている方がおっしゃっている「ホラー」な感じであり、「不気味さ」なわけですが、老人にはマニュキアの爪の皮でコンタクトレンズを穿るという結末に対する作家の思いこみこそがホラーで、この作品を評価した選考委員の評価基準が不気味でした(笑)。
いやはや、何をしてもムードが描ければいい時代がやってきているようですが、そこのところが実に不気味ですね。 -
父親との不倫相手を、娘の視点で書いた小説。そのため、「あなた」という二人称で書かれていた。娘の視点にあどけなさはなく、妙に大人びていたのが印象的だった。気持ち悪い描写もあったが、引き込まれた。芥川賞受賞の表題作のほか、2作品収録。
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「爪と目」不穏なシーンが突然に強烈に不穏になるので怖くて薄目になってしまった。目はやめて目は。
「しょう子さんが忘れていること」村上春樹の「眠り」を思い出した。「眠り」の語り手は傲慢の罪を裁かれているような気配があったけれど、しょう子さんはひどい目にあうような悪いことは何もしていない気がする。加齢で脳の配線が繋ぎ変わってしまう恐怖の話なのかもしれない。でもしょう子さんは悪くないと思うんだ...
「ちびっこ広場」収録作の中でいちばん好き。怖い話はこれくらい短いのがいい... その後どうなったのか続きを話す会がしたい。 -
第149回芥川賞受賞作。
「あなた」は目が悪かったので父とは眼科で出会った。やがて「わたし」とも出会う。その前からずっと、「わたし」は「あなた」のすべてを見ている。史上もっとも饒舌な三歳児の「わたし」。選考会を震撼させた、純文学恐怖作、ホラー。
表題作『爪と目』と、『しょう子さんが忘れていること』『ちびっこ広場』の三篇が収録されています。
友人から借りて読了。正直言いますと私には合わないなと。
『爪と目』はあらすじを読んで興味をそそられていただけにちょっとがっかり。
「わたし」が語部で義母を「あなた」と呼び、父を「父」と呼ぶが、まずそこを理解するのにちょっと時間がかかり、変な言い回しに意識がそがれることしばしば。
けれどなぜか引き込まれる不思議。気づくともう読み終わっている。
頭の片隅に思い浮かんだのは森見さんの『きつねのはなし』で、同じような暗さがあるなと。幽霊のようなホラーではなく、後味が悪い気持ち悪さ。
「わたし」も「あなた」も「父」も「母」もみんな人形のよう。
さらさらっと流して読んでしまっていたのか、最後の意味は分からず・・・。
もう一度読み直せば分かるのかしら。
『しょう子さんが忘れていること』はさっぱり意味が分からんです。
ん?ん?なに心臓?え? 結局どういうことだったのでしょう。
『ちびっこ広場』は意外と面白かったです。
最後のオチは確信をもってこうだったんだろうとは言えませんが、あれ?それは幽霊の女の子がお母さんに、、あれ?こういうのは結構好きです。 -
わけのわからない作品に幾度当たっても懲りずに芥川賞を読み続けるのは、やはり結構な確率でこういう、舐め回したいほど何回も何回も読み続けたい文章に出会えるからだ。純文学ホラー、といえばそうなのだろう。ぴったりなキャッチフレーズでありつつ、純文学はどことなく全部ホラー的な要素があるのではないかと思う。
違和感、不快感、恐れ、衝撃、このすべてを本当に美しい筆質で書き上げ、理解を超越している部分を理解しようと何度も再度読ませるこの作品は、シュールレアリズム絵画的な美しさがあると私は思う。
表題作の爪と目
「あなた」という表現を使うことによって、いとも簡単に過去や現在を超えて、長く続く二人の関係を浮き彫りにする。少なくとも、隠喩する。この小説の成功は、この手法を見つけたときから確立していたのだろう。
天才的な独裁者であれば、見ないようにすれば痛みも傷つきからも逃れられる。でもそうでない以上、どんなに鈍感でも、どんなに見ないことから逃げていようと、痛みは追いついてくるのだ。浮遊する「わたし」は、そのことを知っているけれども、それでも見ないふりをし続けていたということでは、「あなた」と同じ。
「あなた」の悪意のない無関心と、本質的な愛情のない愛顧の描き方がとてもリアルながら、文学的。
しょう子さんが忘れていること
老女とセックスの欲望のお話。身体という荷物を脱ぎ去り捨てたいのに、その身体がつきまとう。でも、心臓の鼓動を感じ、また自分の心臓の鼓動を受け止める人をいつまでも求め続けるのは、本来受け入れてしまえばとても素敵な話なのに。
ちびっこ広場
人は現在の自分を完全に認めきれていない時に、何度も言葉で自分の満足と幸せを再確認する。一見、完璧な母親像を描いた本作だけれども、語り手である彼女は本当に信頼できる語り手なにかを読者は疑わなければならない。呪い、という言葉もなんとも象徴的だ。末尾の彼女は、そして子供は、呪いから無事でいられるのだろうか。
共通して描かれているテーマは、見ないようにしていること。共通して使われている手法は、信頼できない、あるいは揺らぎ続ける語り手。
三篇の短編を通じてのテーマ性もキュレーションも素晴らしい。 -
起こったことをそのまま記録する記録係でありたいと思うとどこかのインタビューで語っていた通り、淡々と「わたし」から見た継母「あなた」の日常や「わたし」からだとわかりようもない視点の「あなた」のことが綴られていく。「パトロネ」でかなり藤野可織さんを好きになり、今作も「パトロネ」の怖さにはまった私を裏切らなかった。最後の一文が素晴らしい。それで気づかされるんだけど、「あなた」と「わたし」の実母は本妻、愛人というお互い面識はないライバル同士のような関係で、性格も好みも正反対で、もちろん「わたし」に対する熱の入れようや興味の持ち方も違うんだけど、言葉に対する姿勢だけはほとんどおなじ。本は物語ではなく実母にとってはインテリアでしかなく、「あなた」にとってはたまたま実母が折り曲げたままにしておいたページの都合の良い文章を引っ張り出してきて「わたし」に利用する単なる道具でしかない。置き去りにされた本文がまるで「わたし」のようだと感じた。
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選評で川上弘美さんが仰っていたように非常に「ていねい」な小説でした。
一見、得意な文体で書かれているように見えますが、読み終えてみると平明な美しさを湛えた文章だと気づかされます。二人称は実のところ三人称に置き換えても成立するように書かれていて、この二人称は「わたし」と、作中人物と読者という二人の「あなた」が同化し、迫り合うという企図でしょう。見事でした。
ただ、また借用ですが、タイトルの『爪と目』が作品の暗喩になりきれていないという宮本輝さんの指摘はもっともだと思いました。後半のメタファーを成立させるためのくだりはやや蛇足で、そこ以外はとても楽しく読めました。 -
「爪と目」考えさせられた。想像力を持たない大人の思考回路や行動ってこうなんだ、と逐一読まされた感じ。語り手の「わたし」を通して。内容よりも、こんなに想像力が欠けていても生活できる、またこういう大人が珍しくないであろう今が、怖い。自戒も含めて。
「ちびっこ広場」ラストの母と息子のやりとりに、これまた考えさせられた。私だったら、添い寝してあげて終わりにするけどな。そこは、母親が入り込んじゃいけないと思う。それに、真夜中の公園なんて、見えなくても絶対に何かいるでしょう。怖いよ。
他ももう少し読んでみよう。よい作家さんだと思いました。 -
また美人芥川賞作家かよ! とか思いながら読んだら、逆に、これは取るわ……と打ちのめされました。ものすごーく面白かったです。しかもぜんぶ。爪と目ももちろん、「しょう子さんが忘れていること」、「ちびっこ広場」、どれも「やられた……」と。
意見としては、古本屋に目をいじられる場面と、「わたし」が「あなた」の目をいじる場面と二回あるのだけれど、ラストシーンの強烈さが古本屋のせいで少し失われているのではとか思うものの、それはまあちょっとしたツッコミであり、文句なし。(偉そうだけど)
母親を殺したんじゃないか。母殺しの話じゃないかというのがいい。
しょう子さんの、あの正体不明の、夜に抱きついてくる存在も、その正体は薄々感づくものの、まさかそうじゃないんじゃないか? というのがいい。
そしてちびっこ広場。これもとてもよい。
クラスの子と大樹。結婚パーティーの面々とお母さん。その図式のなかに存在する「広場の幽霊」。それを二人で観に行くこと。す、素晴らしい……。とくにいいのは、その少女の幽霊がなんで少女なのかも、何なのかもまったくわからないということ。
藤野氏の小説は一番の中心がわからない不気味さをうまく書くのがすごい。だからホラー作家っぽくなるのだろう。
ベランダで死んだ母。自殺なのか、娘が殺したのか。なんで死んだのか。
毎夜抱かれるきょう子さん。抱いているのはいったい何なのか。なぜなのか。どうなるのか。
広場の幽霊。観に行って二人はどうするのか。
一番の中心が消えていて、それでいてそのまわりがぼやけていたりハッキリしていたり、実に丁寧にできているなという印象。
あー面白かった。 -
149回(2013年上半期) 芥川賞受賞作
わたしの爪とあなたの目の痛々しさ
どちらも自傷
爪は他傷にも及ぶ
あなたとわたしの間には
笑いや愛情などのあたたかなもの
は育まれない
死んだ母のブログがとてもリアル
そういう人っているいるって思う
ある意味無個性
でももっと無個性なあなたが
その無個性を模倣してそれっぽい
生活を築き上げていく
わたしも与えられたお菓子やジュースを
もくもくと消費していく
現代社会の闇というか
現代社会を生きる普通の人たちの不気味さを描いた
作品なのかなと思った
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「あんたもちょっと目をつぶってみればいいんだ。かんたんなことさ。どんなひどいことも、すぐに消え失せるから。見えなければないのといっしょだからね、少なくとも自分にとっては」
ときには図太い神経を持つことも必要だと感じた。子どもは感受性が高いために、大人の細かな態度の変化や心情に気づいてしまう。3歳児視点で進むのが恐怖をより掻き立てている。 -
第149回芥川賞受賞『爪と目』。ざらついた気持ち、うまく言いあらわせないような違和感を、語り手の継母のハードコンタクトレンズの感触と、爪を噛むのが癖になっている語り手の幼い頃のギザギザした爪で表して、2人で過ごした日々を回想する。気分のいいお話ではないけどとても引き込まれました。『しょう子さんが忘れていること』脳梗塞のリハビリで病院に入院中のしょう子さんの元へ夜毎訪れる男は妄想、あるいは幻覚、あるいは怪奇現象…?性的な衝動に嫌悪感を抱きつつ翻弄される老齢の女性。なんだかじわじわと怖かったです。『ちびっ子広場』4時44分に「ちびっ子広場」に居たものは少女の霊に呪われる…子供たちが作り上げた怪談話を信じてしまって呪われると怯える息子を守ろうとする母。子供たちの罪悪感無しの遊びがこんなふうに一人の少年の心を追い詰める。怖いのは幽霊より子供たちのそういう無邪気さなのかも。
みんな読みやすくて面白かったです。わかりやすいながら含蓄があり深みが感じられるというのでしょうか。これからも藤野可織さんの作品を読んでみたいです。 -
いわゆるエンターテインメントばかり読んでる自分のような読者にすれば、ああ、こういうのが「文学」(あえてカッコつき)なのだろうか...と思わせる作品でした。なんだかさっぱり意味は分からなかったし、面白かった、という読後感はまったくないです。ただ、三篇とも、著者の日常において著者が何にどういう風に目線を向け、どんな風に何かを感じ取ったりしているのか、というのを、ああ、著者はこういうところ(もの)をそういう風に見る人なんだろうな、と自分との(感性?の)違いを、折々文中に気づかされる箇所があって、まあ、そういう読み方もひとつの楽しみ方かな、と。そういった気づきが、なんだかさっぱり分からなかった三篇の小説に対しての記憶、おそらく少しの間は残り続ける余韻、みたいなものになり、それがこれら三篇の作品の「文学」らしさなのかなあ...と思っています。読んで損はなかったとは思います。芥川賞作品、読んだよって言えるし。超ひさびさだけど。
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2015/08/21
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ちょっと怖い作品。
こうゆう出来事が本当にあったらいやだなと思う。
どこか漫画的なエッセンスを感じました。 -
芥川賞受賞作の作品は、この状況をこんな風に描写するのは大変難しいのでしょうね。
誰が一番「気持ち悪いか」で、評価や感想が分かれそうですが…
まあ三歳児も不倫女も父親もみんな気持ち悪いです。
不倫女もとい継母が、三歳児の本当の母親の生活様式をたどって行くところが何とも言えないいやらしさというか、必死さというか、病んでるというか。
好きか嫌いだけで言えば最近の芥川賞作品なら「abさんご」の方が好きだし、「共食い」の方が面白いと個人的には感じました。
あと、一緒に収録されている他の作品の方が馴染めました。
私の読解力が足らんのでしょうかねぇ…。
しかし芥川賞はいつからこういう筋より「文体勝負」みたいになったんですか?こういう風に書かないと駄目なんでしょうか…。 -
はじめは二人称という書き方のおかげで、かなり混乱。「あなた」と「わたし」を理解するまで時間がかかった。一方、描写がとても分かりやすくて、入り込みやすい。三歳の私が、義母をあなたとして見て、生活のすべてを大人になってから綴ったような書き方。実際はどうなのかは不明。
凄く難しいけど、納得いくまで読み込みたくなるような作品。 -
リアルな関係の欠如した「バーチャル」世界。その手応えのなさを嘆いているのは、私だけなのかと思っていた。
1998年。「98」と呼ばれた国産のOSが、Windows98に瞬時に席巻され尽くした。情報漏洩に過敏な今日の企業社会からは信じられないことだが、ワードやエクセルで作りかけの資料をメールに添付したり、USBメモリーに保存して、多くのビジネスマンが自宅のPCで「持ち帰り仕事」をしていた。だから、家のPCもOSはマイクロソフトであることが鉄則であった。世界中を隷属させたマイクロソフト社はそののち8回もOSの衣替えを繰り返し、重い年貢を巻き上げ巨大化した。しかし、iPhoneとiPadの勃興により少なくともパーソナルユースの領域はれ独立した新たな連邦を形成しつつあるかに見える。話がそれつつある。本題に戻ろう。
『爪と目』を読み解く鍵の一つは、男女や親子の人間関係までもが「疑似バーチャル化」してしまったことへの違和感と苛立ちであると思う。本来は生なましく、心の通い合いが伴うはずの人間関係が、ネット上での匿名のやり取りや通販のような、完全予定調和の安気な関わりに終始している今日の社会への「そうじゃないだろう」という違和感である。
ブクログと毎日新聞の書評を併せて読んだ。だが、それらの中に本書の本当の含意を正しく斟酌しているものはひとつもなかった。多くは「芥川賞作品だから読んだが、くだらない、わからない、ありえない」といった、2、3行の暴言に近い書き込みばかりであった。自分の読解力の欠如は棚に上げ、一方的で乱暴な雑言を書き殴る。これらは、殴ったら殴り返されることがない世界でだけ通用する身勝手な憂さ晴らしにすぎない。まともな読者は、きっとこういう言い放しのメディアからはすでにに離れてしまっているのだろう。
新聞の書評も、「解ってない」と思えた。
曰く、主人公の「生母の死因は何か。古本屋はなぜ義母のコンタクトレンズを舐め取ったか。主人公の復讐じみたいたずらはなぜあの形を取ったのか。理由は最後まで明かされていない」
という。
だがそれは、直接言及していないだけで解りすぎるほど分かり切っているではないか。
父との夫婦関係が完全に冷め切っていた生母。だが、ひょうひょうと平静にネット通販で好みの品々を買い揃え、その自己満足をブログにつづる。その母に文字通りよい子に躾られた3歳の「私」は、大人の期待を裏切るような感情の発露のない気持ち悪いほどのよい子だ。義母は、肉体関係さえない夫と、なさぬ仲の幼子を「夫」と「子」として極めて平静に関係を保つ。愛人の古本屋とは肉体関係だけの割り切った関係で、相手が僅かに情緒に訴えてきた瞬間にもうその関係が嫌になる。本来リアルであるはずの人間関係が全て「疑似バーチャル」の一方的で安気で危機の迫る可能性のまるでない世界なのだ。
物語の書き手が提示した「問い」の「解」はだからきわめて明解だ。
生母の死因は謎ではない。彼女が残した愛読書に残された小さな折り込み、そこに記された箴言を義母が読んだとき、それは彼女自身の精神の奥底に潜む真実を明確に語っているのだ。見逃してしまいそうな三角の小さな折り込みこそ、彼女のリアルな心情の吐露の証なのだ。だから死因は謎なのではありえない。
『爪と目』の目は、目そのものではなくて目と現実との間に緩衝材として介在するハードコンタクトレンズを象徴しているのに違いない。だから、身体の関係だけと割り切ってあっさり捨てられそうになる古本屋の男は、精一杯の抵抗としてその疑似バーチャルの象徴たるコンタクトレンズを乱暴に舐め取るのだ。
「聞き分けのよい大人しい子」という型枠に押しとどめられている3歳の「私」が、その枠からはみ出そうとする情動の発露が「爪噛み」であることが解れば、『爪』もまたもう一つの象徴であることは自明だ。物語の最終盤、悪い習慣を断ち切ろうとそのぎざぎざになった爪にきれいなマニュキアを義母が塗ってくれる。だから、コンタクトレンズと同様にリアルとの間の緩衝材として、まさしく現実を疑似バーチャルとして誤魔化そうとするのがこの「爪」であるのだ。だから、「主人公の復讐じみたいたずら」と書評者が書いた、剥がした半透明のマニュアルをコンタクトレンズの代わりに義母の目に入れる悪戯の意味は、謎でも何でもない。それは、疑似バーチャルに対してリアルの側が鋭く突きつけた復讐にほかならないのだ。
マイクロソフトの支配が私たちの生活の最深部まで浸透した前世期末、すでに大人になってしまっていた世代にはノスタルジーも含めバーチャル世界への違和感と、なにか異議申し立てしたくなる思いがある。そんなIT乗り遅れ世代の異議申し立て気分さえ内包してしまう、この物語の若い書き手の透徹した時代認識と世界観には、脱帽せざるを得ない。 -
非常に刺激的で、久しぶりに初めて読む作家でいい読書ができた。文章は堅苦しい言葉を使ってるわけでもなく平坦な感じだけれども、区切り方の影響や言葉をだすタイミングか、なんだか独特の雰囲気がある。匂いがするかんじもある。これだけで結構いいなあと思うのだけれども、物語もまたいい。描写がしっかりとしていて、その中でこの人物がどういう人間なのかはっきりと、手に取るように、想像することができる。節々にアクセントがあって、それが最後に回収される。上手いと同時にこわい。帯にはホラーと書いてありますが、よく言うホラーではないかもしれない。近いのが柳美里的なホラー、人間の怖さ。しかしそれがまた見事な描写で忠実に書かれているのです。いや、とても好きになっちゃった。これからの作品もたくさん読みたい。
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怖かった。私もコンタクトレンズ使用者なので、目の乾くツラさ・異物が入った時の痛さは身に沁みてます。第149回芥川賞受賞作品。こういう文体でこういう内容を書かないと芥川賞は取れないんだろうなぁと思える典型的な作品だった。三歳児の「わたし」が父親の浮気相手を「あなた」と語る奇異感、若い継母が浮気しつつ前妻の好んだインテリアをなぞる異様さ。壊れかけの継子、ラストの仕打ち。印象的かもしれないけど気味悪かった。あと父親がここまで放任する背景が希薄。
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この二人称小説は、『プライベート・ライアン』的な構造矛盾を抱えているような気もするけど(「信頼できない語り手」ってことなのか?)、『キャリー』的なラストのカタルシスは個人的にはよいと思う。純文学好きの評判は芳しくないだろうけど全体を通してみても、割りと好きな作品。
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芥川賞らしいと、いえばらしい。
斬新な語り口だし、全体に漂う気味の悪さや、グロテスクな加減もすごく
うまい!
<しょうこさんが忘れていること>という2話目もすごく気持ちが悪い。
いえ、ほめています。念のため。
共感したり、興奮したり、涙を流したりはしないけど、
他の作品も読んでみたい。 -
夢中になって読めた。二人称という設定が奏功していたように思う。
常に、幼児である「わたし」の視点を通して、「あなた」について語られる。
全てがわたしの視点を通して述べられているため、セリフでも、心情でもない何気ない行動や景観の描写にまで人の気持ち(つまりは、わたしの気持ち)が浸透しているようで、その分、面白味が増す。
例えば、わたしが預かり知らぬはずの、あなたと古本屋の場面でも、常に「あなたは〜」というわたしの語りの体で述べられているため、一つ一つの描写にわたしの気持ちが絡みつき、二重化、三重化する。
セリフや心情でない描写が退屈で、早々に読み飛ばしてしまうはずの私が夢中になって読めた理由もその辺りにあると思う。 -
不思議な世界観でした。
どの人物にも焦点があわなかった。
むしろ当てることを拒むような
そんな世界観。
「わたし」の口調だけど、
わたしじゃない。
「あなた」と呼んでも
あなたではない。
まして父親はいていないようなもの。
帯には
「戦慄の純文学恐怖作」
とあった。
恐怖は感じないけれど、
後味は悪い。
描ききれていない気持ち悪さではなく、
何も残らない気持ち悪さだ。
それが良いと言われれば評価に繋がるし
紙一重で批判にもなるような気がする。
わたしは本を読むと、
その物語世界から刺激され
何かについて考える。
その何かが
なかった。
誰にも焦点が当てられず
何にも心が揺さぶられなかった。
何にもない
という感想。
それもまたこの夏の夜には
私にとっての恐怖作だといえるのかもしれない。
他の方のレビューの評価は低いですが、戦慄の純文学ホラーだけあって、理解し難い暗黒好きには響くものがありまし...
他の方のレビューの評価は低いですが、戦慄の純文学ホラーだけあって、理解し難い暗黒好きには響くものがありました(笑)
表紙のイラストも魅力的ですよね。
しかし、「爪と目」ラストはきっと「目がぁ~目がぁ~」とムスカ口調となることでしょう(@_@;)
いつも楽しいコメントありがとうございます!
もうこれは読まないとですね!
その際は...
もうこれは読まないとですね!
その際は「爪と目」に差し掛かったらおにぎりは自重します( ̄^ ̄ゞビシッ
私は、米粒前方発射に、珈琲を鼻腔内発射致しました・・・
お互い大変でしたね(笑)
NORAさんのレビューも楽しみにしていま...
私は、米粒前方発射に、珈琲を鼻腔内発射致しました・・・
お互い大変でしたね(笑)
NORAさんのレビューも楽しみにしています( 〃▽〃)