- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103784074
作品紹介・あらすじ
死刑囚と死者の沈黙が生者たちを駆り立てる。僧侶たちに仏の声は聞こえたか。彰之に生命の声は聞こえたか。そして、合田雄一郎は立ちすくむ。-人はなぜ問い、なぜ信じるのか。福澤一族百年の物語、終幕へ。
感想・レビュー・書評
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「晴子情歌」「新リア王」に連なる福澤一族の物語、3部作の最終章は彰之と秋道(シュウドウ)父子の物語であり、合田雄一郎の魂の彷徨の物語でもある。
彰之の息子・秋道は画家となり、前作から10年後、同居する女性と隣人を玄翁で殴打し殺害、女性が産み落とした嬰児も見殺しにした。
その3年後、彰之が初代代表を務めていた東京の修行施設「永劫寺サンガ」で、一人の僧侶が修行中に道路に飛び出しトラックに撥ねられ亡くなるという事故が起きた。
秋道の事件で彼を逮捕・送致した合田雄一郎は、刑事告訴された永劫寺の調査を命じられ、今また、福澤彰之と対面することになる。
殺人事件、謎の事故と一見ミステリーのような体を見せながら、9.11のテロ、オウム真理教による事件、宗教法人の姿、司法の権力などの時代背景も盛り込み、重く、熱く、物語は予期せぬ方向へと進んでいく。
言葉を尽くして美術、思想、宗教の深みをこれでもかと追究し、オウム真理教の宗教性に正面から斬り込む展開に、「事件はどうなったの?」と迷子になりながらも振り落とされないようにしがみついて行く。
合田雄一郎は出て来るけど、今までとは全く違う様相。雄一郎はといえば、永劫寺の管理責任の有無を問う調査にあたり、しっかり「正法眼蔵」を予習し、僧侶たちとガチで問答をしたあげく、検察官に「言語の意味作用」とか「表象する主体」と意味不明(←検事の言)の報告書を上げて、「いっそ警察なんか辞めたらどうです?」となじられ、挙句、税金の無駄使い呼ばわりされる始末。
亡き妻、死刑囚、事故死した僧侶の死に何故を問い続ける雄一郎と、死刑囚の息子を最後まで理解しようと思考し続け手紙を送り続ける彰之。それぞれの場所に、否、もしかすると生きて今この世にあるということにすら馴染めていないような二人はどこか似ていて、愛おしい。そんな不器用な生き方しかできない雄一郎が大好きだ~!
晴子、栄、彰之、秋道親子三代の壮大な物語。足掛け2月かかって終了しました。ふう詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
何とか読み終えた…その一言に尽きる。上巻だけかと思ったら、下巻も宗教的な話が続き、そもそも宗教に興味のない人、オウムの騒動を知らない人が読んだら、全く意味が分からないものだと思う。結局、物語の発端となった事件の解決もないまま、ただ華やかな時代を築いた宗教法人の解体、その中に生きる人の闇のみが印象に残った。せっかくの合田雄一郎シリーズ、がっかり…
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前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。
そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。
リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。
そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。
本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。
メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。
でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。
僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。
夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。
合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか? -
(上巻より)
ほぼ難しくてわからなかった。
あまりに続く宗教論議に、
なんの事件だったか、殺されたのは誰だったのか、
わからなくなるぐらい。
はたして、
殺人事件にからませる必要はあったのだろうか。
この本を読んだすべての人の忍耐力に幸あれ。 -
上巻に記載
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わかるとか、わからないとかを求められていない。
とにかく引き込まれて最後には涙が溢れた。
やはり、装丁が素晴らしい。
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途中リタイア
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この時代に、これほど長大な思弁小説をあえて書く高村薫は、日本の小説家の中で最も勇気あるひとりかもしれない。それも、自身が生み出した警察小説のヒーロー、合田雄一郎を、謎を解き明かし世界に秩序をとりもどす主体ではなく、世界の不確実さに立ちすくみ、生き惑う者として投げ出すことまでしてみせるのだから。
『晴子情歌』『新リア王』に続く本作では、一見、小説としてより馴染み深い形式をとって、修行僧の死をめぐるミステリーを提出してみせる。しかし、オウム真理教事件から9.11直後までの時間を背景に、このようにある世界を見、行為する私とは何か、その意思の自由と責任とは――という問題をめぐる果てしのない問答の末に読者が合田とともに見出すものは、そうした問いに対して延々と言葉をもてあそぶ、いやそんな手間さえかけずに処理してしまうニヒリズムに、既成宗教ですら深く浸されている時代である。その中にあって、今は僧からひとりの人間に戻ろうとしている福澤彰之はこのように言う。
「解くことができない限りにおいて、どんなふうにでも開かれうる可能性を孕んで、なにがしかのかたちが生まれてゆく動力そのものであるかのような問いです。解くものではなく、問いであることが唯一、私が生きていることの証であるような問いです。・・・問いを立てる個体としての私は・・・世界を把握し続ける動因として、世界に向けて未決定に開かれた個体として有る、と」。
自我の大海の中で問うことだけを頼りに泳ぎ続けるその姿はなんと孤独なことだろうか。それは、主流の「小説」概念に対する反小説のようなこの作品を提出してみせた作家の姿にも重なるのである。