- Amazon.co.jp ・本 (393ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104214013
作品紹介・あらすじ
日本という「悪い場所」、現代という「閉じられた円環」、そこに分裂症的な生を営む私達はいかなる美術を創造してきたのか?この国に「前衛」は存在しえたのか?気鋭批評家による衝撃的な反=日本現代美術史。戦後美術史の「内部」に深々と侵入し、その起源としての「くらさ」を直視すること。主要な批評・作品を大胆に解読し、戦後美術と日本精神を再定義する記念碑的な美術批評=日本批評。
感想・レビュー・書評
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■2022年1月26日(水)20:30 〜 22:15
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日本では、「日本現代美術史」という歴史的認識の営みがつねに無効にされてしまう。こうした日本を著者は「悪い場所」と規定し、何がそのような事態を招いているのかを論じている。
本書中に一箇所、「アメリカの影」という言葉が使われていたように記憶するが、江藤淳が文学の領域でおこなった問いかけを、現代美術史においてあらためて問いなおす試みとして読むことができるように思った。ただしその問いかけのゆきつく先は、江藤とは大きく異なる。田中康夫の小説を絶賛し、靖国神社という伝統のシンボルに回帰していった江藤と比較するならば、「悪い場所」でくり返される、いつまでも変わらない光景として「日本現代美術史」を描き出そうとする本書は、はるかに底意地の悪い意図に貫かれている。
著者は本書の問題設定を説明する際に、水村美苗の『私小説 from left to right』を手がかりにしている。この小説の意義は、単に二言語併用者による新しい文学の形式を作り出したことには尽きないと著者はいう。明治以降に西洋という「外部」と接触した日本は、西洋文学という「原典」を「翻訳」することで自国に「文学」という営みを立ち上げた。「日本近代文学」という営みは、そうしたみずからの出自を忘却することによってはじめて成立する。水村の小説は、みずからのよって立つ「場所」の不自然さを暴くという意味で、「文学の起源」に迫った試みだったということができる。
著者はこうした観点を美術史に持ち込み、「日本現代美術」という営みそのものが、たえずみずからを忘却することによってはじめて成立しているということを明らかにしてゆく。たとえば村上隆の作品は、現代日本のオタク的な意匠を美術の文脈に取り込んでいるが、それは現代日本を「反映」したものではない。むしろそうした仕方で「現代美術」を成り立たせている日本という「悪い場所」を、破廉恥なまでに暴露する試みである。
著者はさらに「美共闘」、「もの派」、赤瀬川原平と「読売アンパン」、「九州派」、岡本太郎などに目印を入れながら日本現代美術史をさかのぼることで、「日本現代美術」という営みが流産しつづけてきた歴史(あるいはむしろ「非-歴史」と呼ぶべきか)をたどっている。 -
現代アートの系譜を理解するには良い一冊。著者は現代アートのキーマンの一人です。
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43夜
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第一章 閉じられた「円環の彼方」は?
第二章 九〇年代日本の「前衛」
第三章 スキゾフレニックな日本の私 Ⅰ
第四章 スキゾフレニックな日本の私 Ⅱ
第五章 日本・現代・美術
第六章 バリケードのなかのポストモダン
第七章 「もの派」と「もののあはれ」
第八章 裸のテロリストたち
第九章 芸術である、だけど犯罪である
第十章 日本の熱
第十一章 アンフォルメル以前
第十二章 芸術は爆発だ
第十三章 暗い絵
註
主要参照文献
口絵作品データ
あとがき
索引
(目次より) -
日本という「悪い場所」
現代という「閉じられた円環」
そこに分裂症的な生を営む私達は
いかなる美術を創造してきたのか?
この国に「前衛」は存在しえたのか?
気鋭批評家による衝撃的な反=日本現代美術史
新潮社(1998/1/25初版発行 1999/3/5第四版発行)
閉じられた「円環の彼方」は?
90年代日本の「前衛」
スキゾフレニックな日本の私?
スキゾフレニックな日本の私?
日本・現代・美術
バリケードの中のポストモダン
「もの派」と「もののあはれ」
裸のテロリストたち
芸術である、だけど犯罪である
日本の熱
アンフォルメル以前
芸術は爆発だ
暗い絵 -
これ抜きに現代美術への流れを語ることはできないんじゃないだろか。
レポートにもお役立ち。