未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

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  • / ISBN・EAN: 9784106037054

感想・レビュー・書評

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  • 先日、「米軍が恐れた「卑怯な日本軍」」という書籍を読んで、玉砕までをも含む旧日本軍の戦術と、それに対応した米軍の戦闘マニュアルについての感想をあげたところ、本書を薦めていただいたので、読ませていただきました。
    本書は、日本軍の戦術の規範が、なぜ極端な精神主義に偏り、玉砕に突き進むようになったかを、第一次世界大戦以降の日本、そして日本軍人の描写を通じて解説しています。
    日露戦争で、肉弾による突撃を主とする戦法は、既に機関銃、重砲を備えたロシア軍の前では、既に時代遅れのものであり、きわめて大きな犠牲を払うこととなった。
    日露戦争の犠牲を踏まえ、長期間にわたった第一次世界大戦の動向を学んだ日本軍は、すでに第一次世界大戦以後の戦いが、大量破壊兵器同士の戦いになり、そしてその戦いを勝ち抜くには、大量の物資を必要とする物量作戦であることを、十分認識していた。
    だからこそ、日本軍は青島の独逸軍と戦った際に、いたずらに突撃を繰り返すのではなく、十分な砲撃を踏まえた、一気の突撃により、驚くほど短時間でドイツ軍を撃破することができたのだった。
    その、物量作戦を指揮した軍人が書き起こした「統帥綱領」や「戦闘綱領」は、その物量作戦を知ったうえで、運用すべき戦場のルールであったのにもかかわらず、第二次世界大戦に突き進む我が国では、いつのまにかルールに書かれたこと至上主義となり、モノより精神、武器の足りないところは鍛錬で補い、良く敵を殲滅するという方針だけが形成されていく。
    玉砕戦術しか指揮できない参謀本部、旧陸軍の高級将校たちは、やはり無能ではなかった。しかし、当初、このルールを策定した実戦経験を踏まえた先輩軍人たちの知恵を活かすことができず、ただ、ルール至上主義で破滅に向かって進まざるを得ない状況になっていたのかもしれない。

    作者は、あとがきをこう締めくくる。「この国のいったんの滅亡がわれわれに与える歴史の教訓とはなんでしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだ時の痛さや悲しさを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。そんな当り前のこともことも改めて噛み締めておこう。そういうことかと思います。」

    ただ、根拠のない安全をよりどころに、人間が制御できていない原子力発電に手を出して、万一のことには思い至らず、無視し、一時の利益のみに群がり、しゃぶり尽くす。そんな現代の日本人は、多くの犠牲を払って日本人が獲得した知恵を活かしているとはいえないのではないだろうか。
    そして、ルールルールとそれだけを拠りどころにし、そして言葉巧みに利用して自らの正当性を主張する、どこかの政治家は、その法が作られた意図を理解しているのだろうか。
    なるほど、この書籍は現代日本に読み替えても、なかなか示唆に富んだものだといえるだろう。

  • ・P214:和辻哲郎の苛立ちと長谷川如是閑の達観
    しかし、座談会に臨む和辻の基調はやはり怒りです。何に怒っているのか。戦時下の日本の実情にです。

    対英米戦という世界的大戦争が始まって、国内では「挙国一致」の類のスローガンだけは盛んに叫ばれている。けれども実のところは政治も社会も経済も文化も細かく割れているばかりだ。国家社会のあらゆる局面で縄張り争いが甚だしくなっているのではないか。団結し、強いリーダーシップに従い、一丸となり、総力を挙げて事に当たろうという姿勢がちっとも見えてこない。明確な展望もない。そその辺に我慢がならない様なのです。

    如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に強烈に従うことは、いついかなる時でも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならない時でも、日本の伝統にはないのだと主張します。

    幕末維新は尊王派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。色々な意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩に慣れない。常にギクシャクしながら進む。その結果、自ずとなる様になる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。

    無理に力ずくでまとめようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでバラバラになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、結構勝手なことをしている。そのくらいで丁度良いのだ。和辻は間違っている。如是閑の意見はそんなところでしょう。

    ・P216:「しらす」と「うしはく」
    「うしはく」は強権政治をピッタリと表す言葉でしょう。押して掃く。力ずくで従わせる。苛烈なリーダーシップで統率する。和辻哲郎が、大戦争に直面しながら統率が利かず一枚岩になれないこの国は何なのかと憤るとき、そこには「うしはく」への憧憬がちらついているでしょう。

    「しらす」は知らすである。上に立つものが己を鏡として、下の者たちのありのままを映し出す。よく映し出すことがよく知ることである。下の全部が見えて映せるのは上にある鏡だけ。知ることは上に立つものの特権である。上に立つ者は知ったことを改めて下に知らす。それが日本の政治だ。「しらす」の政治だ。

    ・P223:「持たざる国」のファシズム
    明治憲法の仕組みは、天皇が大権を保持し、しかも天皇の統治行為は「しらす」でなくてはならず、下々は分権というわけですから、これでは論理上、誰もリーダーシップをとれないという結論になってしまいます。

    しかし、実際はそうではありませんでした。明治時代は元老政治だと歴史の教科書にも書いてある通りです。つまり明治維新の元勲、元老たちが居るというのがあくまで前提条件になっていて、維新の経過から見ても、彼らがリーダーシップを取るというのが政治の基本でした。その上で明治政府も明治憲法もできてくる。

    ところが維新の元勲とか元老は、内閣や議会や裁判所、三権の何処かに属するポジションではありません。憲法上の規定もない。それなのに力がある。要するに黒幕みたいな者ですが、しかし元老たちは幕の後ろに隠れずに、日本の顔として表に出ていました。表舞台にいるのです。とはいえ法的には何者でもない。跡継ぎの決め方も、何人居ればいいかも、何も決まり事がない。ということは、跡目がどこかで絶えて、いずれは居なくなってしまうかもしれない。そういう人たちがリーダーシップをとってはじめて機能しえたのが明治のシステムだったのです。

    このように、明治の政治システムはいわば超法規的な、異常なものでした。憲法の仕組みとその背景にある「しらす」の思想だけ見ると、誰も力を持てない形で出来ているけれども、実際は、誰も力を持てないシステムを作り出した維新の元勲、元老たちの手で回せる様になっている。でも、彼らの寿命が尽きたら、憲法だけ残ってあとは知らない、という事になる。事実、そうなってしまったのが大正から昭和なのでしょう。

    このような流れを強調すれば、たとえば丸山眞男流の、日本の政治の無責任は古代以来の超歴史的なものだという見解には疑義が生じます。あるいは司馬遼太郎のように、明治まではよかったが日露戦争の後の日本の政治家や軍人はヴィジョンもなく指導力もない者ばかり、と考えることもできなくはありませんが、しかし実は一番悪いのは明治のシステム設計だったとも言えるのです。明治が一番悪く、そのツケを後世が高く支払わされた。そう考えてもいい。その高いツケが、「皇道派」と「統制派」双方の総力戦思想の行き詰まりにも、如実に見て取れるのではないでしょうか。
    〜中略〜
    結局、ファシズム的に統合しようとしたらファッショはダメだとかいうことで、みんなに攻撃されるというのが第二次世界大戦中の日本の現実だったわけです。それに対して、言論統制や思想統制くらいは法的にもやりやすかったから、反対派を黙らせることはできた。この様な統制・弾圧の歴史的事実を持ってして、東条独裁だった、日本はファシズムだったという通念が、戦後の日本に根付いていったように思われます。

    しかし、ファシズムが資本主義体制における一元的な全体主義の一つの形態だとすれば、強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したと言えるわけでしょうが、実態はそうでもなかった。むしろ戦時機の日本はファシズム化に失敗したというべきでしょう。日本ファシズムとは結局のところ、実は未完のファシズム謂であるとも考えられるのではないでしょうか。

  • 日本が戦勝国として関わった第一次世界大戦を起点に「なぜ日本が勝てるはずもない戦争に飲めりこみ滅びたのか」を読み解く。

    未完のファシズムという意味は、明治日本は天皇中心の国家を築こうと試みたにもかかわらず、天皇以外にはリーダーシップをとれる仕組みがなかったこと。

    確かに日本のヒトラーと言われる東條英機も独裁者だったか?というとNO。この「本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に熱烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力をあげなくてはならないときでも、日本の伝統にはない」「幕末維新は尊皇派も佐幕派も開国派もいたからこそかえってうまく運んだ。いろんな意見をもつ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。逆にぎくしゃくしながらすすむ。・・・のが日本の伝統だ」

    今のコロナ禍の日本にも通ずるところがあるな!


    勇猛果敢な突撃で大国ロシアを打ち破り世界を驚かせた日本は、第一次世界大戦での欧州の戦闘から時代は砲兵・工兵の時代と見抜く。そこから「持たざる国」日本がどのように世界で生き残るかの模索が始まる。

    持たざる国を持てるに国変えようとした石原莞爾ら統制派、タンネンベルクの戦いや桶狭間のように寡兵でもって大軍を打ち破る短期決戦を目指す皇道派。しかし結局いずれもできない泥沼の日中戦争・対米戦争へと走り出してしまう。

    最後に残ったのが「精神で勝つ」ほとんど宗教的狂気に感じられる中条末純の「戦陣訓」。

    この物凄く不合理な飛躍を丁寧に読み解いているのだが…それでもやっぱりここの狂気への跳躍は理解できない。

    しかし…理解できないが…。アッツ島での玉砕、米軍従軍記者が恐れた日本の滅びの美学には、同意できないと100%言い切れないところが怖い。自分の心のどこかの片隅に、えも言われぬ誇らしさのようなものがあり、恐ろしい。絶対に繰り返してはならない悲劇なのに。命令に従わざるを得ず母や妻、子供のことを考えながら死にたくなくても死なざるを得なかった祖父のような人たちがいっぱいいたはずなのに!

  • 日本のファシズムはファシズムではなかった、という。

  • Kindle版 これは本で読んだほうが良かったかな。Kindleでも読めたけど。勝谷誠彦さんの紹介で手にとった。当時の雰囲気がどういうふうに出来ていったか、状況なども踏まえて「持たざる国」の未完のファシズム。皇国の兵の精神のなりたちなんか見ると切なくなる。とても勉強になった。

  • 「天皇陛下万歳!」が明治や大正以上に昭和で叫ばれなくてはいけなくなったのは一体なぜなのか?
    時代が下がれば下がるほど、近代化が進展すればするほど、神がかってしまうとは、いったいどういう理屈に基づくのか・・・

    重要なキッカケになったのは101年前に勃発した第一次世界大戦だったと、著者は言う・・・
    去年は勃発100年だったので、いろいろ書物が出てたけども、日本史の勉強ではあまり重要視されない第一次大戦・・・
    欧州が戦場であり、日本は大戦景気に沸き、経済が絶好調で、参戦国とはいえ、青島でドイツ軍と戦ったぐらいで、実質は遠くから見守る観客であった・・・
    国民の多くは大戦景気に踊るだけで、第一次世界大戦が列強各国に与えた衝撃をスルーしてしまった・・・
    第一次世界大戦こそ、戦争の規模や質が圧倒的に変わった戦争だったのに・・・
    以後の戦争は自由主義だろうが軍国主義だろうが国家主義だろうが共産主義だろうが国家総動員体制同士の戦いであり、圧倒的な物量や経済規模が勝敗を決めるものとなる・・・
    物量戦で、科学戦で、消耗戦で、補給戦であり・・・
    どんな勇猛果敢な兵隊も大砲の巨弾の下に跡形もなく吹き飛んでしまう・・・
    国家の生産力こそが即ち軍隊の戦闘力・・・
    これを学習せずにスルーしてしまった・・・

    日本軍は日露戦争後、一気に神がかった精神主義の軍隊になっていたのか?
    著者によると、そうでもなかったらしい・・・
    それこそ第一次大戦の青島戦役では神尾光臣という将軍(中将)が・・・
    日露戦争時の砲兵が支援しつつ、勇猛果敢な歩兵が突撃していくという前時代的なやり方ではなく・・・
    砲兵の火力でほぼカタをつけ、歩兵は後始末をつけにいくだけ、という欧州戦線に引けをとらない近代戦のお手本の戦いをしてみせた、と・・・
    合理的な将軍の下、物量や規模で勝つ、という現代戦を実は日本軍(の一部だけど)もしていたんですね・・・
    そして、さらに実は実は!陸軍には・・・
    肉弾の時代はもう終わった・・・
    日本陸軍の攻撃精神も過去の遺物になった・・・
    科学力と生産力の追求あるのみ、という第一次大戦の総括が存在していた!
    そ、れ、な、の、に!
    神がかった精神主義が日本軍の主潮になってしまったのか???
    それは・・・
    上記のように合理的に考えれば考えるほど・・・
    「持たざる国」である日本が、今後の大戦争で「持てる国」の列強諸国に勝ち目はないという結論しか導き出せない・・・
    一気に持てる国になるなんて無理だし・・・
    フツーに考えれば、どう考えても勝てない・・・
    でも、軍人としては、無理です、勝てませんでは自分たちの存在意義がなくなってしまう・・・
    列強と開戦しても大丈夫ですという計画を立てておかないといけない・・・
    このギャップから生じる軋みこそが、第一次大戦後から日本陸軍を悩まし続け・・・
    現実主義から精神主義へと反転させる契機になっていった、と・・・
    こここそ著者の主張・・・
    無理なもんは無理、として違う道を探って欲しかったけど・・・
    当時の軍人たちは、合理的に考え抜いた結果、現実主義を捨て、精神主義に答えを求めていった・・・
    結果を知っている身からすると、なんだかなぁ、としか言えない・・・

    で、その日本軍を主導していった・・・
    いや、正確に言うと主導しようとして、失敗していった軍人たちの思想を辿っていく・・・

    まず、皇道派で作戦の鬼と呼ばれた小畑敏四郎・・・
    後の補給なき戦闘やバンザイ突撃、玉砕の遠因である「統帥網要」と「戦闘網要」の改定を荒木貞夫や鈴木率道らと共に主導した人物・・・
    並外れた精神力、戦意をもって速戦即決で奇手奇策を用いれば物量で勝る敵でも包囲殲滅できる!
    そうすれば勝てるのだから、そしてもし万が一、速戦即決できなければ打つ手なしになるのだから、長期戦に備えるような兵站はいらない!
    「統帥網要」はこういうのが全面に出た精神主義的なものなんだけど、著者は現実的で、第一次大戦を観戦してきて実情を知る小畑には裏に別の思惑があったという・・・
    それは、あくまで持たざる国である日本には長期持久の総力戦は無理であり、そしてその統帥網要の考えで行くには、結局のところ戦場も限定され、自分たちより劣悪で粗雑な軍隊相手でないと無理である・・・
    具体的な想定では、極東のソ連軍で、満州の平原での戦闘に限る・・・
    建前としては統帥網要を示しつつも、想定している条件以外では実際無理がある・・・
    でも、陸軍を主導している自分たち皇道派がちゃんと相手を選び、条件に合致した形で戦争を行える、と小畑らは考えていた・・・
    しかーし!小畑ら皇道派は2・26事件で統制派に追い落とされ失脚・・・
    小畑らが改定した精神主義の統帥網要、戦闘網要だけはそのまま残り、後の玉砕などに繋がっていく・・・

    次に、持たざる国を持てる国にしようとした満州事変の首謀者、石原莞爾・・・
    日蓮主義の国柱会の創始者、田中智学に影響を受けた石原は、その宗教的、軍事的な観点からいずれ(40~50年後)、王道の国である日本と覇道の国であるアメリカが世界の行方を賭けた最終戦争を行うという独自の思想を持っていた・・・
    その最終戦争に備えるために・・・
    持たざる国の日本を持てる国にする・・・
    そのために満州や華北の資源を日本が確保する・・・
    その資源とソ連のような計画経済により成長し続け、経済規模でアメリカやソ連に並ぶ国となり、数十年後アメリカとの最終戦争に勝利するという途方もない構想で満州事変を起こし・・・
    満州国を建国し・・・
    皇道派の失脚後の陸軍を主導していった・・・
    しかーし!盧溝橋事件を機に、部下であった武藤章らの反発に合い、陸軍中央を追われ、転出先の関東軍で東条英機と対立し、予備役編入・・・
    陸軍を去る・・・
    石原が残したものは、満州国と日本軍内の下克上の風潮だった・・・

    そしてもう一人・・・
    生きて虜囚の辱を受けず、で有名な「戦陣訓」の作者の一人とされ、東条英機のブレーンとも言われた中柴末純・・・
    中柴は合理的とされる工兵出身で、軍内きっての第一次大戦の研究者であった・・・
    そんな合理的なはずの中柴が持たざる国が持てる国と戦うための精神主義的な思想を用意した・・・
    彼の戦争哲学では、皇国日本の行う戦争は、真善美の「まこと」の不断の実現のための行為であって、勝ち負けの予測を合理的に計算してやるかやらないかを決める、何らかの駆け引きに基づく戦争観とは無縁・・・
    「まごころ」の戦争とは、やるとなったら絶対にやる、勝ち負けに関係なくやる、勝敗よりも「まこと」に殉じるか殉じないかという倫理的・精神的な側面だけが問題となる戦争なのだ、としている・・・
    そして中柴はこう考えた・・・
    持たざる国でも持てる国の相手を怖じけづかせられれば勝ち目も出てくる・・・
    いくら物量では劣っていても、敵国の戦意を喪失させれば勝てないこともない・・・
    そのために日本人がドンドン積極的に死んでみせれば良いのだ、と・・・
    こういう中柴の思想が玉砕やバンザイ突撃への道を突き進ませて行くことになる・・・
    マジ酷い・・・
    真面目な軍人の苦衷の末のものとはいえ・・・
    酷いという言葉では足りないくらい酷い・・・
    ここまで来ると何なのそれ?と憤りを覚えてしまう・・・
    敵国に日本人狂ってる、狂ってる日本と戦うのは犠牲を増やすだけでバカバカしいから早めに戦争を手打ちにしよう、と思わせるために兵士をドンドン死なせる、って・・・
    狂気が振り切れちゃってますね・・・

    最後に、未完のファシズムについて・・・
    未完?日本って戦時中ファシズムだったでしょ?ともちろん思うわけですが・・・
    ドイツやイタリアのように完全ではなかった・・・
    東条英機の独裁だった、というのも少し違う・・・
    元々、大日本帝国(明治)憲法の制度下では、誰も強力な権力を握れないような仕組みになっていて・・・
    総理すら権限が弱く、閣僚の調整役以上の役割はなかなか果たせない制度であった・・・
    行政府は内閣の他に枢密院があり・・・
    立法府は貴族院と衆議院の二院制でどちらが上ということもなく、どちらかが否決すれば即廃案という・・・
    議院内閣制じゃないから、政党が内閣を組織する決まりもないし・・・
    軍も行政や立法や司法から独立した組織であり、内閣も議会も軍に命令できず、逆に軍も政治に介入するのも法的にはできない・・・
    そして、誰かが強引に特定の理想を無理やり押し通そうとすると、皆で全力で排除する、という日本の伝統的な国民性・・・
    元老がいた間はそれでも上手く機能していた明治憲法体制だけども、昭和に入ってすべての元老がいなくなったあとは・・・
    誰も強力なリーダーシップを発揮することが出来ない状態になる・・・
    東条も明治憲法を尊重して、国体を護持しつつ総力戦として、「大東亜戦争」を勝ち抜こうとし、苦渋の選択として首相、陸軍大臣、参謀総長などを兼務してやっていこうとした・・・
    そしたら日本のヒトラーと周りから揶揄され、一人何役もやろうとするのは日本人としてあるまじきことだ、と戦況の悪化と共に東条つぶしが起こり、東条内閣が打倒される・・・
    東条は何て言われて攻撃されたか・・・
    なんと、ファッショ!
    東条ファッショ政権打倒が合言葉になったそうな・・・
    これらから日本のファシズムは未完のものであった、と著者はいう・・・
    この視点はとても新鮮で面白かった・・・
    ファシズムと思われている戦時中ですら、そして独裁者のイメージの東条英機ですら・・・
    強引に押し通そうとするもの、強力なリーダーシップを取ろうとするものを排除する日本の組織文化に阻まれたというのは・・・
    何とも・・・
    日本から強力なリーダーが出にくいというのは・・・
    根が深いですかな・・・

    以上・・・
    超長くなっちゃった・・・
    第一次大戦の衝撃を受けて合理的に突き詰めて考えていった結果、精神主義にならざるを得なかった思想的軍人たち・・・
    そんな彼らに掻き回されて破滅へと引き摺りこまれていった日本の悲劇・・・
    一般的に言われていることとは違う視点で話が展開されていて面白く、とても参考になりました・・・、
    これはオススメ・・・

  • 第一次大戦の教訓を正しく学び、持たざる国が持てる国に勝つ方策がないことを痛感したからこそ、一億玉砕に向かったという。おそらく正しい歴史認識だと感じる。
    戦後70年を間近に控えた今、我々の世界情勢への認識は何か変わったのだろうか?持たざる国であることは変わりない。中国と紛争が起きたら、果たしてどうなるのか?便衣兵ならぬ国籍不明漁船が多数尖閣諸島に迫ってきたら?
    日本のまずいところは、空気を読み過ぎて意見の多様性を認められないところではないかと思う。

  • 読了。
    日露戦争の後、今後の戦争では国力と物量が勝敗を決めるという合理的認識に達した日本軍、それがなぜ太平洋戦争に象徴される精神主義の塊へと変容していったかを解き明かしてくれます。

    豊富な資料、該博な知識、明晰な論理、そして卓抜した着眼点と、読み手を引きずり込むに十二分な力を有しています。合理的認識が非合理的認識へと変じていった過程の論証はきわめてスリリングであり、読書体験の醍醐味を味わえること請け合いです。特に「顕教」たる精神主義の裏に、「密教」たる悲観的/現実的認識が潜んでいたという指摘は必読かと。

    示唆に富む一冊ですが、明晰かつ独創的であるがゆえに、本書を盲信してしまう危険性には留意すべきでしょう。通史およびその標準的な解釈を把握し、さらに自分なりに消化した上、本書の論理に取り組むべきでしょう。「そうか、そういうことだったんだ!」と独り合点し、熱狂してしまうことだけは避けるべきではないかと思います(これは著者の本全てに言えることですが)。

    いずれにせよ、読んでいて興奮すること間違いなし。お勧めです。

  • アジア・太平洋戦争における日本の悲惨なまでの敗北は、第一次世界大戦、いわゆる総力戦に学ばなかったことが原因のひとつという認識であったが、本書では少なくとも第一次世界大戦から来るべき次の戦争が総力戦になることは学んでいた。(→青島要塞攻略戦など)しかし、資源や工業力を持たない日本が、持つ国と戦うには、資源や工業力が無くとも戦える(補給線や多量の鉄量を考えない)速戦速決の殲滅戦とそれを補う無限の精神力が重視された。ところが、そこには顕教(建前)と密教(本音)の二面性が存在した。密教ではいくつかの条件が満たされねばならず、その条件が満たされなかったためにあの敗北が訪れたとしている。

    小畑敏四朗ら皇道派は、劣勢な軍隊にたいしては、精神論と速戦速決の殲滅線思考(補給線や多量の鉄量を考えない)で臨み、優劣な軍隊とは戦いを避けることを条件とした。石原莞爾(統制派)は日本が満蒙経済圏を開拓し、資源と工業力を持ってからソ連、アメリカと戦うことを条件とした。東条英機(とそのブレーン)は、何が無くとも天皇の臣民たるその精神力を大いに発揚すれば、どんな相手であろうと勝つことができるとした。

    HONZ書評参照

  • 日本という工業力が弱く、資源に乏しい”持たざる国”がなぜ、太平洋戦争を行わねばならなくなったのか。この問いに対し、戦時の陸軍軍人、石原完爾、小畑敏四郎、中柴末純、酒井鎬次などを取り上げ、その思想的背景、明治憲法下の政治体制について論が進んでいく。顕教と密教という対比を使い、彼らが表向きに語ることと、その本音について挙げていく展開は、非常に興味深い。戦争責任という言葉があるが、その言葉で片付けてしまうようでは、敗戦に至る経緯の本質はとらえられないのだろうと感じた。独特の視点ではあるが、読む価値は十分にある。

著者プロフィール

1963年生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(いずれもアルテスパブリッシング、吉田秀和賞およびサントリー学芸賞)、『未完のファシズム』(新潮選書、司馬遼太郎賞)、『鬼子の歌』(講談社)、『尊皇攘夷』(新潮選書)ほかがある。

「2023年 『日本の作曲2010-2019』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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