- Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106102486
感想・レビュー・書評
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勧められたんで読んでみました。
痴呆と関わる中で触れる心の動き、情動が影響する行動の意味を読み解きつつ、今の日本、日本人が立ち帰る場所を示唆してる様に感じました。またボケが誰にでも起こり得る事象、起こる事象であることを理解しいち個人として対応することで介護する側される側が共に好い関係でいられるという事も同時に語られてた様に思えた事は介護の仕事に携わる端くれとして勉強になる本だったと言えます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
もし、今、周りの人も、物も、自分がどこにいるのかも覚えていなくて。
説明されても理解できなくて、しかもすぐ忘れて。
自分に苛立って、不安の中におかれたら。
そんな状態で、目の前にいる人が、自分の恋人だと、否定する理由がどこにもなければ。
毎日声をかけてくれるその人が、自分の母かもしれないと思ったら。
「ヒトは、与えられた環境の中で、もっとも苦痛が少ない状態で生きようとする。
苦痛の少ない状態へ自分を変えようとする適応の力が働く。」
記憶や認知能力の衰えた人の原則の一つとして、筆者があげる「最小苦痛」だ。
周りの環境を、自分が理解できる形に解釈して認識する。
それが本当かどうかは、この際問題にならない。
人は弱い。悲しい。
衰えと共に、あっけなく、それまでの関係性や記憶をを失ってしまう。
でも、心を守るために、認識をまげてでも生き抜こうとする、生命は強い。
赤ちゃんが何もできなくても、それは「当たり前だ」と受け入れられる。
年をとって衰えたら、それは「病だ」となってしまう、それはおかしいと筆者は言う。
そうだ。
でも、いざそれが周りの人の身におこったとき、自分はどうしたらいいのだろう。
結論はまだなく、自分の心の整理もつかない。
実際にその時がくるまで、きっと何もわからないだろう。
ただ、2つだけ。
意味が噛みあわなくてもいいから、明るい声で話すこと。
作り物でもいいから笑顔を見せること。
これだけは、なんとか、心に留めておきたいと思う。
「ほぼ日」の「イトイの読んだ本、買った本。」で紹介されていたことがきっかけで読んだ本。
【図書館】 -
糸井重里氏の『ほぼ日新聞』の書評で良い評価だったので読んでみた。
題名は「痴呆老人は-」なので、最初は認知症(この表現の不適切さを著者は本書で訴えているが)についての本かと思っていた。
確かに出だしは認知症だが、それがコミュニケーション論⇒人格論⇒引きこもり問題⇒日本文化論とテーマが移っていくので密度はかなり濃い。(その分各論についての十分な説明がなされていないような気がするが、紙面の関係上仕方ないと思う。)
そして各論、特に後半部分は記述内容が結構難しく、僕には(能力的にという意味で)ちょっと理解できなかったのが残念である。
ただし、前半部分である、痴呆についての洞察は素晴らしく、「痴呆ではなぜ『若返り現象』がよく発症するのか?」というところなんかは、いわゆる「目から鱗」だった。
痴呆や引きこもり等のテーマに興味がある方、かなり難しい個所もあるけれど、「ぼけ防止」のつもりで、トライして見られては如何? -
09/10/14 BOOK 1st.
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なんでぼけるのがイヤなのか 日本人は迷惑をかけるから 他の国では自分自身がなくなるから日本人にとって 対人関係はとても大切で痴呆というのは 人間関係の問題だということが わかりました
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新しい考え方が身につきます。
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認知症の患者が文化や環境でその症状が変わるという導入部分はわかりやすかった。日本人もこれからは、認知症になれば、人に迷惑をかけるから、自立性が損なわれると考える人が増えるだろう。
哲学書だったのですね。難しいはずだ...。 -
痴呆によって認知能力が低下したとしても、それが譫妄や徘徊などの周辺症状を生むのは、痴呆老人と周囲の世界の関わりに問題があるからだ、と説く。確かに、画期的な論考。介護の現場に活かされれば、介護のあり方が根本から変わるだろう。
ただ、随所に見られる床屋政談は余計だ。 -
日経新聞のコラムで木田元がススメていたので読んだ。論理に強引さがあったり、仏教に関することなど、難しい部分もあったが、読み応えがあって良い読書ができた。
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著者は臨床医として1979年から「ぼけ老人・寝たきり老人」と呼ばれる人たちを診ることになり、その人々の中では何が起こっているのかを考えるようになる。
本書はある機関紙の連載として「痴呆症」が「認知症」に変えられる前から始まっていたということと、「「認知症」が用語としてきわめて不完全であることから、必要な場合には「痴呆」を残しました。その最大の理由は、われわれは皆、程度の異なる「痴呆」であるからです」ということからこの題名となった。カバーの折り返しに「終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ、そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす」とあるのが、内容をよく要約している。
2005年春から、「痴呆症」の代わりに「認知症」という呼称が使われるようになったが、それに対する著者の意見には同意できる。「「痴呆症」という言葉に、差別的意味合いがあるからといわれます……結局、「差別」をもたらす名称とは、その社会で「異質」であり、社会の多数派から疎まれる対象に貼られた「ラベル」と理解されているようです。換言すれば、多数派が好まぬ異質な特性を連想させる表象です。とすれば、差別の本当の原因は、ラベルそのものより「異質で厭わしい特性」にあります。病気はその好個の例で……差別用語を非差別用語へ変えたところで、その特質――「異質で厭わしい」という「認識」自体が変わらないなら、単なるラベルの貼り替えにすぎません。」
人の心のあり方を仏教の唯識の考え方で説明しているが、「つながりの自己」がキーワードになると思う。日本人は「家族や周囲の人に迷惑をかけたくない」と考え、また一方では「引きとめようとする周囲の力」もある。「年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている、という感覚があればその人は「健康」でありうる」のだという。実際、著者が純粋痴呆とよぶ、知力が低下した老人が他人に迷惑な周辺症状を現すことなく、おだやかにふつうに過ごすことができる例がある。
と、ここまで書いたが、本書の全体像をうまく伝えられない。読み終わって、目が開かれたような気もするが、なにやら霧がかかったまま終わってしまったようにも思える。著者は、読者を啓蒙しようとするのでもなく、認知症の扱い方を説こうとするのでもなく、自分も認知能力の中核である記憶力が衰え始めた一人の高齢者として、人の心の中で何がおきるのかにただ迫ろうとしているせいなのかもしれない。