教養主義の没落: 変わりゆくエリート学生文化 (中公新書 1704)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121017048

感想・レビュー・書評

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  • 私はこの文中でもときどき言及されている某大学の生徒なのですが大学生活を送っていても今までより教養というワードが話者の意図した様々な意味合いで使われているので、そもそもどういう意味・由来なのかと疑問に思ってこのほんを取ってみました。
    実際にそのような内容は必要以上にもりだくさんで、どちらかというと中高年の大学紛争などの時代を生きた方向けに書かれた書籍だなと感じました。とはいえ若い人でもおおよその雰囲気を知ることは十分できる上にこのような分野で新書のように概要を知ることのできる本もあまり見当たらなかったので、そういう意味合いではありなのかなとは思います。

  • 教養そのものの在り方を見つめ直す契機となる一冊。

    「教養」とはかつて、一種のステータスであり、また同時に世を善くしようための、人格形成の一要素と認識されていた。
    しかし、1960年代の新中間層の発生に伴い、かつての教養主義は大衆的なもの、いわば大衆教養主義へと陥った。
    1970年代になると、好景気の煽りを受け、企業の大量採用が開始された。これは専門知・教養知の不必要を意味した。

    こうしてかつて教養を担った大学生は「サラリーマン予備軍」と化した。
    「サラリーマン」文化の蔓延と覇権こそ、教養主義の終わりをもたらした最大の社会構造と文化であったのだ。

    では、我々は何故教養を求めようとするのか?
    解説にて、井上俊は教養に関しての三つの要素を挙げる。

    1.適応
    2.超越
    3.自省

    つまるところ、生きることにおいて「善き生き方」を模索し続ける、その態度こそ教養ではないだろうか。

  • なんだかせつない。

  • 日本で言われていた「教養主義」の歴史的経緯や
    その背景についての本。教養主義というのが
    マルクス主義と絡んで成立していくのは意外だった。

    大正ロマンを受けて田舎くさい教養主義の没落は
    切ない。

  • 戦前は古本屋店主・岩波巌男が夏目漱石の心を出版したことから、教養主義の代表としての岩波文化が登場。講談社とのその後の歴史を分けた経緯。「小川三四郎」の1906年頃の学生文化。そして戦前の教養マルクス主義の全盛。戦後には左翼文化人として世論をリードした丸山眞男たち。石原慎太郎、大江健三郎、そして高橋和巳の僅かの生まれた時期の差が、旧制高校文化の有無への影響。そして60年安保頃の関西大学生の読書・雑誌のレベルの高さ。それが、今では東大・京大生も漫画本に変わっていった歴史の変化。80年代の京大・経済がパラ経(パラダイス経済学部)と言われたことに見られるような学部別の父親の職業・社会階層の関連性分析。教養主義が衰退し、現在の大衆主義に以降していくその歴史の分析が非常に鋭く、ちょうど狭間の世代であった自分自身の過去とも結びつけながら楽しく読みました。全共闘学生がなぜ丸山眞男を攻撃し、吉本隆明を崇拝したのか、かれらの出自の分析から、その屈折した心情を抉り、確かに「サラリーマンとして平凡な人生を歩む予感からくる恨み」のようなものが、デモに参加する学生たちの心にあったことは事実だと思います。

  • 半分くらいで萎える。なぜだ。
    『高校生のための哲学入門』を本屋で見かけたときに思い出した。最近の大学生がいかに教養を軽視しているか、そして昔の大学生がいかにして教養主義に飲まれていったかなんて構造が浮き彫りに。なんとなく底に文系の就職率低き学生だってがんばってお勉強してるんだ!みたいな、意思のようなものがチラと見えた気がした。自分が就活生だから僻んで読んでしまうのかも。いかん

  • 「教養主義」とは?大正時代から1970年代までにキャンパスの規範文化であった教養主義。

    ここでいう教養主義とは、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心として人格を形成するために読書をすることをいう。

    『善の研究』『三太郎の日記』『ウィルヘルム・マイスター』『ファウスト』『ツァラトゥストラはかく語りき』『純粋理性批判』『実践理性批判』

    自慢ではないが上記の本は1冊も読んだことがない。(『純粋理性批判』は積読状態)この本から教養主義時代の読書なるものを垣間見た気がする。高度な文学に触れると人間は無力化するという。 その文学や哲学によって人格を形成する世代。 高度経済成長期を支えたおじいちゃん世代。 かなり尊敬の念を抱く。

    しかし、教養主義は1970年代からNOを突き付けられる。 特権的身分の喪失、技術学の到来、農村の消滅などで。

    教養主義時代の学生は、毎日図書館に通いつめ、上記の本を読みあさったらしい。といっても、大学生で上記の本を読み漁るような強者は、全体の20%にも満たなかったらしいが、今の学生で教養主義時代のように本を読む割合は、2~3%だと言われている。

    現在、プチ古典ブームだったり、教養主義復活の潮流がおこっているのか。

    さて、教養主義が学生達を魅了した背景と衰退した理由が興味深い。

    まず教養主義が盛んになった背景は、西欧文化の取得。明治天皇が華族(日本の皇族・財閥家系をはじめとする貴族)を集め、積極的に西欧化するように求めたことから、徹底的に西欧文化の吸収を目指した。

    西欧文化の取得に学歴エリートが加わるが、日本人にとって西欧文化は伝統的身分文化ではないから、どのような階級からも遠い分かだった。どのような階級からも遠いところということは、障壁は階級間で平等だということであった。そのため、教養という名の西欧文化が加速度的に取り入れられていったのか。

    西欧文化に触れた知識人。学校の教壇で、ドイツ語でかかれたドイツ文学の本を持ち、哲学の難解な解釈を述べる先生がいれば、田舎の学生は西欧文化に強烈な憧れをもつ。著者がいうように、教養主義が盛んになった理由として、親が農業従事者である地方出身学生が教養主義にはしった。 対象時代には、学生の教養主義をさらに加速させたのが、岩波書店という文化装置。 当時、帝大教授の中心的な仕事は、欧米学者の学説研究と欧米事情の紹介研究であった。翻訳中心の岩波書店が共振していた。夏目漱石や森鴎外などの本もあったが、中心は西欧文化の本が中心であった。

    1960年代の大学紛争時代あたりから教養主義の衰退がみられる。

    教養主義の大きな原因は大学進学率上昇による特権的身分の消滅である。

    高等教育は該当年齢人口の15%までの進学率の段階がエリート段階で、15%を超えるとマス段階になるという説がある。

    実際に、卒業後の進路はそれまでの幹部社員や知的専門職でなく、ただのサラリーマン予備軍になりはじめていた。

    「大学紛争後の大学生はこう悟った。学歴エリート文化である特権的教養主義は知識人と大学教授の自己推薦や自己拡張にのせられるだけのこと、大衆的サラリーマンが未来であるわれわれが収益を見込んで投資する文化資本ではない、と」

    「大学紛争は大衆的サラリーマン像を鑑に、教養知の特権的欺瞞性を喧噪のなかで白日の下に晒したが、実は、その前にサラリーマン社会は、テクノクラート型ビジネスマン像を鏡に、専門知(機能的な知識人)への転換による教養知(教養人)の無用化を静かに宣言したいた。」

    教養主義は、大学紛争や技術学の到来によって解体されていった。

    現代の大学生の人間形成の手段は?

    従来の人文的教養ではなく、友人との交際を選ぶ傾向が強く、同時にかつての文学書と思想書をつうじての人文的教養概念が解体しているとする。確かにそう思う。10年前の学生時代に(理系学部であったが)、読書を通じての人格形成をする学生は見たことなく、大学に来る目的は同世代の人脈形成など、交際を通じての人格形成が大きかったように思う。

    本書の最後に

    「戦後の大衆教養主義は、こうした教養の人的媒体をいちじるしく希薄化させたのではなかろうか。教養の培われる場としての対面的人格関係は、これからの教養を考える上で大事にした視点である」

    教育で大事な要素の一つを再認識した。

  • 『ぼくらの頭脳の鍛え方』
    文庫&新書百冊(佐藤優選)170
    国家・政治・社会

  • すっかり大学からはじき出されてしまった感のある教養教育なんだけど、最近その充実が再び叫ばれつつあるし議論されている(ようである)。でも、既に現場の構成員にはそもそも(大学の)教養(教育)ってなに?という根本的なコンセンサスが欠けている気がするし、自分でも良く分からない。ということで、本書を読んでみた。そして歴史的に日本で語られてきた「教養教育」とか「教養(主義)」っていうのがどういうこか一応分かった(気がする)。本書では教養教育がどうあるべきかが提案されている分けではなく、日本における教養教育の起源と没落にいたる変遷が歴史的に紐解かれていて、教養教育のことを考える上で土台となる知識を得ることができる。旧制高校を舞台として誕生した日本の教養主義が、明治末期・大正・昭和前期・戦後、マルクス主義とかアカデミズム、全共闘運動という時代背景とともにどのように変遷し衰退していったか。読書による人間形成より、生きるテクニックの修得に忙しい現代人に昔ながらの教養教育の再現は難しいだろうけど、現実への適応だけでなく、現実を超えていく思考・態度を身に付けることも大学教育としてはやはり必要かもしれない。

  • 「教養」というものが興味があって、大学に入ってから哲学書などの小難しい本を買った経験のある人は自己の相対化のために読むべきでしょう。

  • 著者が「戦後の大衆的教養主義」と呼ぶ1970年くらいまでの雑誌や文庫・新書などによる教養文化についての内容.教養高い書物を持つことはステータスであり,憧れでもあったのだ.

  • 期待していたよりも内容が俯瞰的でなく、残念な部分もあるが、教養主義のたどった変遷については本書は新鮮で貴重な資料である。

  • 書名からは、教養主義という考えの価値が下がったと受け取れる。また、副題からは学生(の文化?の行動?)が変わったと考えられる。両面から捉えられると思う。
    この変化の基には、大学で学ぶ学生が増え、大学卒が当たり前となり、大学という教育機関の価値が低下したことを意味する。(この本が出来たのは、2003年で、私が読んでいるのはその10年後2012年。)大学・教育・教養という視点から、さらに別な形で変化してきている。
    教養を知識と見るならば、明治においては知ること=記憶していることのみを意味したが、現在での世界規模の膨大なる情報を覚えることは、不可能である。そのような面からも単純に静的な教養は役立たなくなってしまったのではないか?
    大学紛争を境にして、変化したこと、以前はみな同じことが求められた。理想であった。正しいことであった。が、以後は階層、クラス分け、さらには個性が重視され、それが今後は異分野を取り込み、進んでいくだろう。
    本書の内容から、ノルマリアン(エコール、ノルマンシュペリウール)=サルトル、や、岩波書店、こころ、夏目漱石の本の読書、華族文化やブルジョアジーなどは、教養主義を牽引したと言えそうだ。

  • むかし、教養主義という学生文化があった。その規範内容と変遷を分析した本。
    戦後、教養主義はサラリーマン文化に取って代わり1970年代に没落したという。
    昔の学生が読んでいた本や雑誌、意識などを調査した豊富なデータや資料を紹介しつつ実証的に教養主義という規範文化を考察していくんだけど、それで?と言った内容。

    結局何がいいたいのか分からない本だった。



    そもそも教養主義は農村と都会の、西欧と日本の文化格差をもとにしていた。でも、戦後の高度成長で70年代以降は農村と都市の生活スタイルにほんとんど格差がなくなってくる。貧しい寂しい農村が消滅して地方出身者より都市出身が多くなり、都市型社会へと変化した。この変化が教養主義を支えた、刻苦勉励的気質、修養主義(農村の気質)を消滅させてしまった。教養主義の代わりにサラリーマン文化が蔓延したって・・ここの件に至っては、??はぁ?
    第一、サラリーマン文化ってなんですか?



    代わりに階級社会が消滅した新中間大衆社会と呼ばれるものが出来て、政治経済文化の領域で均質化が起こり中間意識をもった膨大な大衆が生み出された。

    教養主義は本や雑誌とともに花開いたが、教師や友人などの人との関わりを通して培われた側面がある。
    対面的人格関係は、教養を考えるうえで大事な視点だし、読書だけでなく人との交流のなかで人格形成していくことが大事という著者の考えや方向性は共感できる。

    昔の学生は勉強してた。本や総合雑誌を読んでいた。教養主義という規範があった。ということを知りたい人は本書を読んだらいいけど、一般の人にはあまりお薦めできない。

  • 今改めて、教養とは何か考えてみませんか。

  • 旧制高校・大学にあった教養主義が、どのようにして形成されて、岩波書店などの書店の果たした役割などを通して、70年代にどのようにして崩壊していったかを丹念に追った本。

    教養主義というとマルクス経済学やら岩波文庫などのイメージでとらえていたが、その没落も含めて全体像が理解できてよかった。

    筆者は放送大学でかつて「学校システム論」の講義を行っており、学校システム論を理解するうえでも役に立った。

  • 自分の中に多分に教養主義というよりも修養主義への信奉が残っているのは、年代は違うが大学第一世代に属しているからなのかもしれない。親は高等教育を受けられなかった農村出身者でなんとか新中間層の最下辺に属し、子供には自分が受けられなかった高等教育を受けさせることで自分自身を満足させようとしている世代に属している。勉強をすれば(高学歴があれば)、より良い人生が送れると考えた世代であることは間違いない。

  • 関西大学文学部教授、京都大学名誉教授の竹内洋による学生文化論

    【構成】
    序章 教養主義が輝いたとき
    1章 エリート学生文化のうねり
    2章 50年代キャンパス文化と石原慎太郎
    3章 帝大文学士とノルマリアン
    4章 岩波書店という文化装置
    5章 文化戦略と覇権
    終章 アンティ・クライマックス

     かつて「教養主義」と呼ばれる思想が大学生たちを魅了した時代があった。大正時代、官公立の旧制中学・旧制高校を出た人々は、競って書を読み、高等教育機関たる大学で培われてきた「知」に対して畏敬の念をもち、それに近づかんとすることが「学生」の本分とされてきた。それはまさに大学生が「知識人」であった時代である。

     しかし、戦後新制中学・新制高校を出た人々が大学に入ってくると、その「教養主義」に対し反感を覚えるようになってくる。それは、丸山眞男に代表されるような進歩派知識人たちが、こぞって社会科学としてのマルキシズムにシンパシーを感じ、それが反体制的・反保守的な思潮として社会化していったことが背景になろう。

     そのような戦後世代が教養主義に抱く違和感の背景を探るべく、著者はさらに「教養主義」のもつ社会的背景にスポットをあてる。それは、「教養主義」の本山である帝大の文学部の特色を明らかにすることで浮かび上がる。
     文学部は戦前以来、法学部や経済学部と比べ、地方の農村出身者が多く実家の収入も少なかった。そして、就職先といえば大学の研究者か中学校の教師となるぐらいしか道はなく、卒業後の収入も多くなかった。つまり、帝大文学部においては社会的にはエリートたりえない階層の人々が刻苦勉励・苦学を通じて「教養」を獲得し、「知的エリート」たらんとする。その動機として形成されるのが「教養主義」なのである。戦後世代が抱く違和感とは、都市市民が地方農村出身者に抱く「泥臭さ」の感覚と似ているのかもしれない。

     そして、大学のアカデミックな「教養」とマルクス主義に染まる社会大衆をつなぎ、大学の「知」を世間に広めながらその高踏なイメージを世間に植え付けたのが「岩波文化」だと著者は論じる。1950年代はそのような出版文化が隆盛を見せ、大衆に「教養主義」が広まった時代であった。

     だが、1960年代末の全共闘運動をピークにして、「教養的マルクス主義」「マルクス的教養主義」は一気に下火になり、ポスト全共闘世代(しらけ世代)は、「中間大衆」として修養を通じた知的エリートとなることに魅力を感じなくなっていった。

     本書は、帝大の文学部という特殊な空間を総本山としたで形成されてきた「教養主義」=読書を通じた修養という空気を大学生の読書傾向からひもとき、社会的・文化的背景に踏み込むことで、その実態を明らかにしている。国立大学の文学部出身者には一読をおす

  • 自分は著者と同じくプチ教養主義者を自称している。
    だがマルクス主義には全く関心がないし、また残念なことに旧帝大の卒業生でもない(教養学部がある三流大学出身)。
    それでも現代の三流教養主義者としてはこういった本に関心を示さずにはいられないのだ。
    この本では旧制高校の気質としてあった教養主義(歴史・文学・哲学)が衰退した歴史をデータなどを元に分かり易く考察している。
    中でも興味深かったのは旧帝大文学部には農村部出身の学生が多かったという点。
    自分は学歴コンプレックスから教養主義に走った口だが、昔は家柄コンプレックスめいたものが確実あったのだろう。
    教養はコンプレックスから身につける・・・ような気がする。
    これは今も昔も変わらず。
    どうしても生活が豊かになると教養が軽んじられるのは必定だとは思う。
    この本は2003年に出版されたのだが、そこから更に社会は実務型の人間を求める風潮になった。
    でも社会に何の役に立たなくてもコンプレックスというファッションは止められないので、これからも僕は無駄な読書を続けると思う。
    せいぜいmixiで飾る程度で、酒飲みながら誰かと文学や哲学語らうわけでもないし、そもそも自分自身没落しているからますますシンパシーを感じるってものだ。

  • [ 内容 ]
    一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範文化であった。
    それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。
    人格形成や社会改良のための読書による教養主義は、なぜ学生たちを魅了したのだろうか。
    本書は、大正時代の旧制高校を発祥地として、その後の半世紀間、日本の大学に君臨した教養主義と教養主義者の輝ける実態と、その後の没落過程に光を当てる試みである。

    [ 目次 ]
    序章 教養主義が輝いたとき
    1章 エリート学生文化のうねり
    2章 五〇年代キャンパス文化と石原慎太郎
    3章 帝大文学士とノルマリアン
    4章 岩波書店という文化装置
    5章 文化戦略と覇権
    終章 アンティ・クライマックス

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    [ 参考となる書評 ]

  • 学生文化、マルキシズムがそこに落とす影響ということが、手に取るように見えた時代から、大衆サラリーマンを目指す凡俗への居直りへの流れを指摘する。中野孝次「苦い夏」で「美とか何とか言ったって、要するにあんたはブルジョアの洗練に憧れてるだけ」は、ドキリとする。

  • 教養の再定義を問われていると感じているのでこの本を読んでみた。
    高等教育行政では、一度一般教育というかたちでの教養教育を解体したものの、先般の学士課程答申で再度教養を考える機会を与えている。答申では多分にリベラルアーツを踏まえよ、という意図が読み取れる。
    かといって復古的・古典的な教育プログラムは当てはまらないだろうから、現代の多様な学生にアレンジしなければならない。そういった課題意識がある。

    大正期や昭和の戦前期は、中央公論等の総合雑誌が規範文化となった。当然マルキシズムが最先端の時代だ。左にかぶいているのが先進的とされていた。「マルクス主義本を読んで理解しない学生は「馬鹿」であり、読んで実践しない学生は「意気地なし」となる」pp44 それはドイツの学問・哲学、フランスの政治思想、イギリスの経済学を統合した社会科学といわれた。pp50

    旧制高校がその呼び水となったことも書かれている。
    その旧制高校に教養に傾倒すると文学部に行くことが多かった。

    ハビトゥス:人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向。行為の原則のようなもの「品」。

    125頁の図では、「教養のある」カテゴリーには、
    正統、思慮分別、学識、趣味のよさ、絢爛、繊細、
    丹念、秀逸、知識、独創性、優雅、流暢
    といった言葉がまとめられている。

    岩波アカデミズム:官学アカデミズム⇔岩波文化 
                    (相互依存/客観的共謀)

    本書を読んだ後にすかさず持った感想は、学校教育、それも高等普通教育の4年間だけで教養教育を担うは不可能と確信したことである。

  • 中身はけっこうおもしろかったけれど、最後の方でビートたけしが出てきたり、徒弟制みたいな話がでてきたりで、一貫した論としてのまとまりにはかける気がした。学生達が中央公論や岩波文庫を読まなくなったあたりから、教養主義は崩壊する。で、それは1970年あたり。本を読んだり、大学へ行ったりすることが当たり前のことになったあたりと重なる。読書で自己鍛錬とか、教養を得るといった考え方自体が崩壊している。後は人間から人間へ受け継がれる教養とはこういうものだといったイメージが薄れていったということもある。儲からなくて、おもしろいと思うまでに時間がかかることに耐えられない人間が多くなってきたのではと思った。後は、薫陶を受けるとかいうことも死んできた気が。。。

  • ブルデューのハビトゥスの概念を手がかりに、農村的エートスによって教養主義の発祥を解明している。著者は、教養主義に対するさめた視点を失うことはないものの、現実を超えようとする精神や畏怖する感性があったと述べるところに、教養主義に対する著者の郷愁がのぞいている。

    本書はあくまで教養主義の実態を歴史的・社会的に考察する本なのだが、抑制の効いた筆致で岩波茂雄や前尾繁三郎のエピソードを紹介するくだりなどは印象的で、さわやかな読後感を残す。

  • 竹内洋は、こうしたアカデミズムとジャーナリズムの関係を「正統化の相互依存」と意地悪く呼んでいる。

  • 第4章「岩波書店という文化装置」読了。岩波書店創業者である岩波茂雄さんの言葉「金儲けを目的としなかったが,金は儲かった。しかし生活は実に質素であった」が印象に残った。

  • 戦前戦後において、哲学の読書などを中心とし、自分の人格を高めるという教養主義が流行した。しかし、現時点において,そのような教養主義は没落してしまったと言えるだろう。
    そのことについて書かれたのが本書である。
    現代の大学において、「教養」とは、以前の教養とは別の物を指しているように感じられる。
    これは大学のユニバーサル化の影響である。
    そう言ってしまえばおしまいだが、事はそう単純ではない。
    その背景について教えてくれると言う点で,この本には価値がある。

  • 蓑田胸喜だけで一冊、概説書を書いてほしいと思う。

  • 「哲学・歴史・文学などの人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度」これが教養主義とされてきた。
    大正・昭和戦前の学生達が「知」を通じて人格陶冶を目指そうとする態度、大衆マス雑誌よりも純粋に文化的な高級思想誌に手が伸び、誰もが競って岩波文庫・新書を読みあさった時代は終わった。いや、大衆化した。ビートたけしが知識人を茶かし、教養の習得、いや読書週刊までもが現代をかっこよく生きるためには「邪魔に」なってきた。もはや「教養」という言葉すら聞かれなくなる時代に入っているのではないか。本書は戦前と戦後を行き来しながら、学生の読書傾向(雑誌購読)や図書館利用率、専攻学問の調査や家庭環境の調査、はてはスポーツの好き嫌いの調査まで弾きながら、戦前の学生に見られた必死の教養獲得競争を描きつつ、戦後に急速にストップした教養重視の流れを描いている。教養が邪魔くさくて、かび臭くて、自由な生き方には不必要なものになりつつある時代にこそ読んでおいて良かった気がする。かくいう私も教養主義にあこがれつつも力の及ばない自分に嫌気がさして、どこか教養をさげすむような態度をとったこともあったなあ。

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著者プロフィール

1942年、東京都生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。京都大学大学院教育学研究科教授などを経て、現在、関西大学東京センター長。関西大学名誉教授・京都大学名誉教授。教育社会学・歴史社会学専攻。著書に『日本のメリトクラシー』(東京大学出版会、第39回日経経済図書文化賞)、『革新幻想の戦後史』(第13回読売・吉野作造賞)『清水幾太郎の覇権と忘却』(ともに、中公文庫)、『社会学の名著30』(ちくま新書)、『教養主義の没落』『丸山眞男の時代』(ともに、中公新書)、『大衆の幻像』(中公公論新社)、『立志・苦学・出世』(講談社学術文庫)など。

「2018年 『教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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