- Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122024885
感想・レビュー・書評
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あんまり感心しない
いままで文章読本のたぐひは谷崎・丸谷・井上・小谷野と読んできて、しかし三島はなんとなく敬遠してゐた。井上が『自家製 文章読本』で三島の文章読本を批判してゐたし、そもそも三島は『葉隠』を偏愛するなど、どこかひねくれた文学観を所有してゐた(これは小谷野の『日本恋愛思想史』でも指摘されてゐる)。それが念頭にあって喰はず嫌ひしてゐたのだ。
しかし三島由紀夫の『文章読本』を読んでゐる。きっかけは野口悠紀雄の『「超」文章法』を読んで感心し、末尾の《非常に有益なアドバイスが得られる》文章読本リストに挙げられてゐたのを見たからだ。
冒頭から三島は、実用文ではなく藝術文こそ至高だと主張してゐる。そして小説の文章として、森鷗外「寒山拾得」と泉鏡花「日本橋」の文章を対比する。たしかに私は鏡花の文章には、はっとした。
だが井上が指摘したとほり、三島は《私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。》と書きながら、実用文や大衆小説・娯楽小説などには歯牙にもかけない。また、齋藤美奈子が『文章読本さん江』で指摘したとほり、三島が様々な藝術文の見本を陳列するのは《訪問先で家族のアルバムやコレクションを披露されるのと同じである》。三島が《短篇小説の模範的なものを東西から一作ずつとりました。》として、川端康成「夏の靴」とメリメ「トレードの真珠」を引用する。しかし《読み比べて、短篇小説がいかなるものであるかをよく味わって下さい。》とあるばかりで、結局この二作を読んでも《短篇小説がいかなるものであるか》はわからずじまひである。
そして最後にふたたび《文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。》と書いた。文章の伝達についてはまるきり無視してゐる。
まづこの点で文章読本といふより藝術文読本だし、文章の中身よりも見てくれ・美しさにばかりこだはってゐる。これは三島の性格である。
また、冒頭の日本文化論も私には少し疑問に思へた。西洋と日本とを比較して、これは西洋にあるが日本にないだの、あるいは昔と今を比較して、昔はかうだったが今は堕落しただのとやってゐる。
たとへば、日本人と比較して外国人は《印刷効果の視覚的な効果》を考へたことがないと書いてゐる(「第二章 文章のさまざま」)。しかし、これも井上が指摘したとほりで、外国人も《印刷効果の視覚的な効果》を考へてゐるのは明らかである。
三島は《印刷効果の視覚的な効果》が日本と外国とで異る理由を、象形文字といふ一点においてのみ求めてゐる。では、たとへば象形文字ではない英語圏の人は「視覚的な効果」を考へてゐないのか。いや、ちがふ。たとへば英語でも、文章によってはしつこいぐらゐ同じ単語の繰返しをきらふ(行方昭夫『英語の発想がよくわかる表現50』「5 類語辞典はどう使う?」岩波ジュニア新書)。あるいは強調したい英単語はすべて大文字で書くこともある(たとへばyes→YES)。これらは「視覚的な効果」ではないのか?
だいいち三島の文章読本には《先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。》といふやうな人づてで聞いた話が多く、実證的ではない。だから間違ひや怪しいものが多い。
だがこの文章読本でよかったのは、説明する時に用ゐる比喩である。わかりやすくて、すぐに理解できる。達意のレトリックだ。文章よりも、もっぱら三島レトリックの見本帳として読むほうが何倍も効果がありさうだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
観賞用の果実というものがあるーー
最高の出だしで始まる文章読本
その後の説明は難しいし、出てくる小説も難しいけれど、改めて川端康成を読んでみようと思った -
何時・何故この本を購入したのか分からない。苦労しながら読む。途中の例文引用は、自分にとっては作品を読んだ事の無い本からの一部分でしかなく、著者と同じ共感または理解を得られなくて、結局途中から引用箇所は飛ばし読みとなった。
この本により、三島は若い頃からの文学青年であったということを知る。非常に多くの本を読んでいるからこそ書ける、「本を書く事とはなんぞや」という彼の総括である。
この本のエッセンスを一言で言い表している箇所は、以下の通りである。
私はブルジョア的嗜好と言われるかもしれませんが、文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。(中略)しかし一言をもって言い難いこの文章上の気品とか格調とかいうことは、闇のなかに目がなれるにしたがって物がはっきり見えてくるように、かならずや後代の人の眼に見えるものとなることでありましょう。 -
本日は三島由紀夫といふ人がハラキリをした日ださうです。1970(昭和45)年11月25日。何と41年経過したわけであります。
何でも若松孝二監督が三島事件を映画化したとか(公開は来年)。ううむ...まあ、今でも三島信者は多いといふことでせうか。
彼が『文章読本』を書いた目的は第一章に明確に語られてゐます。
アルベール・チボーデが小説の読者を「普通読者(レクトゥール)」と「リズール(精読者)」に分類したことを紹介し、この『文章読本』で、読者をレクトゥールからリズールに導きたいと意欲を述べてゐます。
即ち彼は、文章上達法としての読本ではなく、文学作品の良き鑑賞者を養成せんがための読本を目指したと申せませう。さう考へれば腹も立ちますまい。
実際、第二章以降は小説・戯曲・評論・翻訳などの分野ごとに、三島流文章論を展開し「これこそが文章のお手本であります」とばかりにたたみかけます。
その文章から漂つて来るのが、「良い文章といふのは誰にでも書けるものではなく、ごく一部の限られた達人にのみ可能であり、君たち凡人が気取つて名文をものした心算になつてゐてもそれは恥づかしいだけさ。分相応といふものを知りなさい」と、心の底から大衆を馬鹿にした筆致ですね。でもここまで徹底すれば爽やかでさへあります。
ところで、本書で一番三島由紀夫らしい茶目ッ気が表れてゐるのは、巻末の「質疑応答」ではないでせうか。
著者が「三島由紀夫」であるといふ理由で今でも版を重ねてゐると思はれます。しかし最後は肩の力が抜けた「からっ風野郎」になつてゐて少し嬉しいのであります...
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-473.html -
自分と正反対の飾り気の少ない文を第一に誉めそやしてますなー。
ここにある悪文の定義はそれこそ三島的な文章。
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まぁまぁ・・・