- Amazon.co.jp ・本 (167ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122056992
作品紹介・あらすじ
食べることには憂愁が伴う。猫が青草を噛んで、もどすときのように-父がつくったぶえんずし、獅子舞の口にさしだした鯛の身。土地に根ざした食と四季について、記憶を自在に行き来しながら多彩なことばでつづる豊饒のエッセイ。著者てずからの「食べごしらえ」も口絵に収録。
感想・レビュー・書評
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食にまつわるエッセイ。
食べ物だけでなく、その背景にある自然や人々の暮らしが見える。里芋の「いもがら」を触ってかぶれないだけでなく、アクも抜いて美味しく仕上げる「相性の良い手」を持つ人の話は民話のようでもある。
著者の振り返る食卓風景は賑やかかつおおらかに人々を包むが、対照的に都会・現代(執筆当時)の食に対して辛辣すぎでは…と思う所もあり。
食のエッセイなので温かく美味しい話を読みたかったな、とも思うので、悩んで星3に -
土と海、四季の恵みと農と暮らしがひとつながりだった頃の天草や出水やらの食べごしらえ。親戚や女衆がより集まってその手づから生まれる食べもの。今はないそれらの香りも滋味もしみじみとゆたかで、その土地の言葉もうつくしい。すべてのものへの敬いがある。
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『食べることには憂愁が伴う。猫が青草を噛んで、もどすときのように』
美しい言葉ね。郷土料理には儀式に似た神聖さがある(のだろう)。
私からしたら一種の儀式だと思われるものが石牟礼さんにとっては懐かしくあたたかいにおいのする日常である(であった)こと。私の過ごしてきた日常の暮らしの様子とはかけ離れているからか、本を閉じてしばらくすると、本の中に書いてあったことが実際のできごととは思えなくなってしまって寂しい。 -
食卓から紡ぎ出される
思い出は、人生を豊かに
すると思います。 -
作家が磨き抜かれた言葉で振り返る、天草、水俣で過ごした幼い日々の暮らしと食べごしらえ。味わい深い土地の言葉、凛とした父母の生き様、地に根差した食べ物。すべて失われて帰らぬからこそ、輝き、せつない。
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ふむ
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本書をどこかで手にすることがあったら「あとがき」だけでも読んでほしい。「ときどき東京に出ることがあって、そのたびに衝撃を受けるのは、野菜のおいしくなさである。」「ねっとりもせず、ほくほくもせぬ里芋。色と形はあるが、うま味も香りもまるでない人参。・・・」「・・・高くさえあればおいしいと感じるのは舌の白痴化ではあるまいか。」「・・・農薬まぶしの農産物をどんどん輸入して、添加物まみれのグルメとやらをお腹いっぱいやってください。真の百姓だけが、日本という国の伝統あるよき性向の種を保存するために、土を汚さぬよう、物心両面にわたって独立を保ち、亡びの国のゆく末を見届けると宣言なさったらよい。」「わたしは昔の作物の大地の滋味ともいうべき味わいを思い出さずにはいられない。」品種改良をして何でもおいしくなっているはずだけれど、もともともっていた自然のうま味のようなものを僕たちは忘れてしまっているのかもしれない。どこかに出かけたとき、人の運転する車で移動していると、見たい景色などがあっても、なかなか停めてくれと言えないとどこかで書かれていた。なんでも合理的に、効率よくと言われる。そのためにぜいたくな時間の過ごし方を忘れてしまったのかもしれない。古き良き時代を懐かしんでいるだけでなく、本書を読みながら、今を生きる我々にとって本当の幸せって何だろうかと少し考えてみたい。
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https://opc.kinjo-u.ac.jp/ -
小池一夫さんが読むと懐かしくなる、と薦めていた本。
読んでいた私は世代も育った地域も全く違うので懐かしくはならない。ただ九州育ちの義母なら知っている風景なのかな、と想像した。
食べるためには野菜を作ること、下処理をすること、お釜を洗う事。一つ一つ手間がかかる。
そしてその向こうに年中行事の九州の人々が見えてくる。料理の紹介というよりはエッセイみたいな本だと思った。 -
『苦海浄土』で知られる作家、石牟礼道子が自らがこれまでに作り食べてきた数々の手料理について、実際に調理しながら描いたエッセイ集。
出てくる料理はどれも熊本での市井の生活に根差したものであり、その一つ一つの料理に尽くせない思い出が潜んでいる。ただ料理を描くのではなく、料理を通して、石牟礼道子という希代の作家が感じたことが丹念に描かれる。
巻頭の石牟礼道子自身が調理した料理の数々の画像も大変素晴らしい。 -
日々の食生活の中に季節の移り変わりを感じ、身の回りの山や海の豊かさを感じ、地域の人たちとのつながりを感じながら暮らすということがどれほど豊かな食文化であるかを、しみじみ感じさせてくれる本だった。
決して美食やグルメではないが、「貧乏、ということは、気位が高い人間のこと」だという心持を持った暮らしの中では、ひとつ一つの食材や食を通じた人との交わりこそが、本当の豊かさとして感じられるのだろう。
これからは、せめて日々頂く食事のときくらいは、一品一品をゆっくり味わい、一緒に食べる人との時間を大切に過ごすようにしたいと思った。 -
著者が幼少、水俣で過ごした頃の思い出が、品のある言葉でつづられている。
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食べ物のエッセイなのにせつなくて泣けた。食べものと人、人と人、自然と人との関係が瑞々しく書かれる。なくなった物(者)への哀惜のようでもあり見つけるべき現実でもあるような世界観は、ルイ・アームストロングの曲「この素晴らしき世界」と同じ。豊かさにはせつなさが含まれていることに気づく本。
大貫妙子さんや寺尾紗穂さんのうたと文章が好きならぜひ。 -
石牟礼道子が語る「食べごしらえ」は、いわゆるごちそうではないのだろうが、本当にうまそうなのは、これは、土と、海とをそのまま食べているようなものだからだろう。それに、村そのものと食べているような、家族・家の記憶がないまぜになる。そんな幸せな記憶が、こうして書き手を見つけて残されることの尊さを考える。
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歌うような優しい熊本ことば。暮らしが息づく瑞々しい描写。時折どきりとするような鮮烈なつぶやき。美しくて、いつまでも読んでいたい気にとらわれる。
[more]<blockquote>P19 「米,とがせてもらうとち。まあ,よかったねえ」
「おお初襷じゃ。道子の、ことはじめじゃ」
女衆たちが仕事の手をとめ、「おしゃらしさよ,まあ」と微笑ってくれる。
「ほう、ほう、支度は上等ばって、羽釜の中にかやりこむなえ」
「背中で襷の踊りよるよ,まあ」
P28 どの季節でもない,早春の気配を聴く頃にだけ,一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。去りゆく冬と一緒に,振り返ることのできない過ぎ来しを,一挙に断ち切るような断念と,いかなる未来か,わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が,冬と春の間に訪れる。それはたぶん、かりそめの蘇生の時かもしれない。
P37 赤ちゃんというものはそのように、のさるものであるらしい。
P57 つわんこの葉っぱが流れてくるたび、「おみよがご仏飯の御器じゃ、よんべも、ひだるかったろう」と話し合うのだった。この子が身投げしたとき、人々は滝上に散っている大銀杏を見上げて言った。「死なしたおっ母さんの連れてゆかしたばい。よか所にゆこゆこちゅうて,手ぇ引いて,飛ばしたばいなあ」
P75 古いこじんまりしたアパートのベランダに,紙の鯉のぼりが顎を出すようなぐあいに,引っかかっていた。周りのベランダには蒲団がいっぱい。
P88 「ほらな、聴ゆっど、さ鳴りしよっど」
そして大きな掌で、弟の頭をつかむようにして天に向けさせる。
「な、聴ゆっど、さ鳴りしよる」
大地はまだ湿っていて,その湿りの中に台所から,甘酸っぱい香りがわあっと流れてくる。七夕寿司ができ上がったのだ。とれたての鯛とふんわり煮上げた湯葉,茗荷と青じそのまざりあった匂いだった。
P106 特別の食べごしらえをするのを母は「ものごとをする」と言っていた。「いつ、ものごとをするかわからんで、煮染草なりと集めておかんば」口癖にそういって暇さえあれば干し野菜を作る。
P136 村の人々の表情も上手に灰汁を加減したような,中世あたりの能面を思わせた。
</blockquote> -
食べものにまつわるエッセイ
なのだが、まったくもって、それ止まりではない奥行のあるエッセイになっているのは、やはり石牟礼道子さんだから。
また天草弁で語られる人の言葉のなんとも優美なこと。
生活の大変な作業をユーモアに包み、昔話のように読めてしまう。
人の逞しさ、賢さが溢れているのに、とても温かく感じる。
子ども時代の記憶にもかかわらず、音や風景の描写が細かくて、目の前で見ているような気がする。 -
手が荒れてしまうからアクの強い野菜を扱うのは避けてしまいがちだけど、そういう軟弱な姿勢を見直したいと思いました。思い通りにいかない野菜や魚にちゃんと向き合って、おいしく食べる気概。