- Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140910856
作品紹介・あらすじ
現在もテロや戦争で多くの人命が奪われている。子や妻、母といった愛する人を喪う哀しみの涙が、世界の至るところで流されている。メシアは汝の隣人を愛せよといったのに、なぜ暴力はなくならないのか、この世に神はいないのだろうか…。エルサレム、アメリカなど世界をめぐり、「宗教」が験される現場から思索し、人類普遍の問いに、比較宗教学の長年の研究成果から挑む。キリスト教、イスラム教といった一神教はいうまでもなく、アジア的な多神教からさえも袂を分かち、"無神教"という新たな宗教の到来を説く衝撃の書。
感想・レビュー・書評
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h10-図書館2018.1.30 期限2/14 読了2/18 返却2/20
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言っていること、言いたいことはわかるのだが、まるで
お題目を唱えているだけのような本で、今ひとつこちらに
響いてくるものがなかった。争いの根としての宗教は実に
やっかいなのは確かなのだが。 -
過激なタイトルに目を引かれて手に取った本。著者は臨済宗の僧侶を経て渡米し、ハーバード大学神学部などに学んだ比較宗教学者だ。
そうした経歴からもわかるとおり、これはリチャード・ドーキンスの『神は妄想である/宗教との決別』のような、無神論者による「反宗教本」ではない。
著者は宗派を超えた「宗教性」と祈りのたいせつさを認めつつ、既成宗教、とくに一神教を批判する。
《俗に「色メガネで見る」という表現があるが、透明な光を独自の色メガネで見させようとしているのが、おおよその宗教ではなかろうか。ましてやその色メガネに度が入っていたりすれば、真っ直ぐなものも真っ直ぐに見えなくなってくる。私の宗教批判は、その色メガネに向けられているのであり、透明な光を否定するものではない。》
「比較宗教学者として世界各地を飛び回るようになり、仏教やキリスト教以外の宗教にも、直接触れる機会を多くもつことになった」という著者の宗教体験の豊富さは、群を抜いている。本書は、著者のそうした経験をふまえた、評論色の濃いエッセイという趣の本である。
著者が「ほかならぬ『宗教』こそが、人類最大の敵だ」と考えるに至ったさまざまな体験が、随所で紹介される。それらの体験はいずれもすこぶる興味深く、私はそこにこそ本書の価値を感じた。たとえば――。
《中東諸国を旅していると、ユダヤ教徒とイスラム教徒が、それぞれに相手を犯罪者のように語るのを耳にすることがある。日本人のわれわれの目からすれば、どちらも善良な人間のように思われるのだが、彼らの間に会話は成立しない。
そういえば二○○七年、東京で開かれた外務省主催の「第五回イスラム世界と文明間の対話セミナー」の席上で、ここにイスラエル代表も招いて対話の糸口をもつべきだという私の提案に対して、ある著名なイスラム教徒作家がイスラエルについて、「存在しないものなどと対話などする気は毛頭ない。あの地域に存在しているのは、ただのホットエアー(熱気)にすぎない」と怒気を込めて反論したのには、驚かされた。》
ただ、体験ではない著者の意見には、極論、過渡に情緒的で意味不明瞭な箇所、そして学者の言とは思えないトンデモ話が散見される。傾聴に値する卓見も多いが、首をかしげるくだりも多い。玉石混淆の一冊なのである。
そもそも、「宗教こそが人類最大の敵」という本書のテーマ自体、極論そのものだ。
宗教がときに平和の妨げになること、腐敗した聖職者も多いこと、独善に陥りやすいこと……などというマイナス面をもつのはたしかだが、そのマイナス面をもって既成宗教(の大部分)を全否定するのはいかがなものか。
著者は教団などに生じやすいさまざまな組織悪をさかんにあげつらうのだが、組織悪があるなら「組織善」(という言葉はないが)もあるはずで、宗教組織そのものを頭から否定してしまうのは「角を矯めて牛を殺す」ことにならないか。
著者は「無神教」なるものを提唱している。「無神教」とは無神論のことではなく、人智を超えた存在への畏敬の念をもちつつ、既成の宗教団体には所属しない信仰のありようを指す(と、私は理解した)。
《私がいう無神教は、神仏の姿が消えてしまって、われわれの体内に入り込んでくることである。それは神仏を礼拝したり、論じたりすることもなく、神仏とともに生きていく生き方のことである。》
まあ、オバマ大統領も就任演説で「この国はキリスト教徒とイスラム教徒と、ユダヤ教徒とヒンズー教徒と、そして信仰をもたない人たちが集まった国です」と述べたくらいだから、著者のいう「無神教」が“最大の世界宗教”となる日も遠くないかもしれない。いつの間にか無党派層が多数派になったように……。
だが、教義も戒律も儀礼も組織もない、「宗教のオイシイとこ取り! メンドイところはすべて省略!」みたいな都合のいい“信仰”に、人を救う力などないと私は思う。
トンデモ的記述の例も挙げておこう。
《地球は、つねに見返りのない〈愛〉で、地表にあるすべての生物を支えているのであり、片時も休むことなく自転しながら、太陽の周りを公転してくれている。そのおかげで昼夜の区別と四季の移り変わりがあり、われわれは、いつ息絶えてもおかしくない生命を今日も享受しているわけである。地球は「〈愛〉の生命体」であるどころか、祈りの心さえもっているのかもしれない。》
ううむ……。安手のスピリチュアル本に出てきそうな言葉である。
もう一つ挙げる。
著者はジョン・レノンを、直観によって「無神教的コスモロジーの本質を一気につかみとった」人物として持ち上げ、「イマジン」を「無神教的コスモロジーのテーマソング」だとしている。そこまではまあよいのだが、つづけてこんなことを書いている。
《ありもしない国や宗教のために、何千年もの間、殺し合いをやって来た人間の愚かさよ。もういい加減に、目を覚ましたらどうなのか。
そういう呼びかけをストレートにしつづけていたジョン・レノンは、一九八○年、熱狂的ファンの凶弾に倒れた。当時、彼とオノ・ヨーコは、ベトナム戦争反対運動の先頭に立っていたから、ファンの仕業と見せかけて、彼を抹殺してしまいたかった勢力があったとしたら、それこそ恐ろしいことである。》
1980年にはベトナム戦争はとうに終わっていたし、当時の米大統領は、「彼の下でCIAは極度に弱体化した」と評された「人権派」ジミー・カーターであった。学者なら、陰謀論レベルのいいかげんなことを書かないほうがいい。
そもそも、かりに「イマジン」の歌詞のように国家も宗教もない世界がやってきたとして、その途端に人類が殺し合いをやめ、愚かでなくなるとは、私にはとても思えないのである。
以前読んだ類書、安田喜憲の『一神教の闇』のほうが、私には面白かった。 -
町田宗鳳「人類は「宗教」に勝てるか~ 一神教文明の終焉」を読む。
これまでいろいろ宗教、とりわけ仏教に関わる本を読んできたが、何かこの本でかなり頭の中が整理されたような感じがある。キリスト教とは何なのか、一神教とは何ものなのか、そして仏教とは、日本古来の神道とは・・・・・。一神教がいかに世界の災いの根源となっているか、また宗教の名の下にいかに人間がエゴと欲望を満たそうとしているか、これまで少し判ってきていたことがパッと開けたような気がする。
この著者はキリスト教でも仏教でもましてやイスラム教でも神道でもない無神教を提唱する。無宗教ということではなく、人間と対峙する神を想定するのではなく、無意識・没個性のもとで自分の心の中にある神でもホトケでもない何か、愛というべきもののようだが、そういう存在を大切にして生きるべきだという。特に取り上げるのが、ジョン・レノンの歌った「イマジン」。あの歌詞の内容こそが無神教のコスモロジーを示すものなのだと。これまで意味を意識して聴いたことがなかったが、実はこんなにも深い想いがあったことに驚かされるようなことだ。
著者は触れてはいなかったが、宮沢賢治の思想がまさにそれにあたるのではなかろうか。また老荘思想にも共通するものがあるようにも思える。
中国新聞の「緑地帯」というコラムに寄稿されていたことから知ったこの人は、比較宗教学を専門にする広島大学の教授。本人の自伝的著作の「文明の衝突を生きる―グローバリズムへの警鐘」を最初に読み、波乱万丈な人生のなかで宗教と向き合ってきた人ならではの、宗教こそが人類最大の敵という考え方がこの本によって更に明確に伝わってくる。大いに啓発される一冊。 -
宗教なんて迷信だ、洗脳だ、と頑なに否定するだけ(=無神論)なら簡単。
でも簡単だからグレーゾーンの人たちを説得する力はない。前文とあとがきをみれば分かるように、著者はそういう無邪気な合理主義者ではなくて、むしろ宗教の内側をあちこちくぐってきた経歴がある。
だから宗教にまつわるネガティブな部分とポジティブな部分をうまく切り離し、後者をくみ取る(=無神教)という難題に挑めたのでしょう。そこには素直に敬意を感じました。
代案を提示する後半部分は「まだまだ作業途中かな」と思ったけど、批判にあたる前半部分には力があって一気に読ませる。 -
町田さんに出会った最初の本。
オモロいよ -
この本の前書きは、
「皆さんは、人類の最大の敵はなんだと考えているでしょうか」といった内容で始まる。
当然「戦争」だとか、「環境破壊」だとか、いやいやその大元の原因を作っている人間の欲望こそが最大の「敵」だとか、いろいろあるでしょうが、著者はそれを「宗教」だとしてこの本を書き始める。
元僧侶なのにキリスト神学を学び、宗教的生活にどっぷりつかりながら、人間にとっての信仰の恩恵をも肯定する著者があえてこのように「宗教は人類最大の敵」とすることに驚きながらも、著者のいわんとすることを追ってゆくとその背景が理解できてくる。
はしょってしまえば、この著者の対宗教観というものは、驚くほど私自身のそれに近く、読んでいて、元僧侶にして神学を大学で勉強し、比較宗教学を講じる大学教授で、これほど自分と同じような考え方を持っている人がいることを知って、ある意味うれしく思ったほどである。
その端的な例が、たとえば、彼自身の子供たちに信仰あるいは宗教の持つ良い面を学んで欲しいと考え、彼らを教会に通わせていたが、ある日、その教会が「キリスト教以外の宗教は邪教だ」との考えを子供たちに教えていることをしり愕然とする。
あるいは、日本の隠れキリシタンを題材に、大学でゼミをしていると、日系の女子学生が泣きながら、彼女の母がいくら話しても仏教を信仰し、毎朝仏壇を拝んでいる、このままでは彼女は地獄に落ちてしまうので、どうしたらよいか、と相談を受ける。
根底には、全ての既存の宗教、特に「一神教」は、その成り立ちからして不可避的に「排他性」をもち、独善にはまることを避け得ない、ということをいろいろな例と資料を駆使して説明した上で、実際の「宗教」のそういった影の部分について、とことん突っ込んだ思索を進める。
一方では、宗教の持つ、あるいは信仰がもたらす恩恵も、自らの体験を元に読者に訴えることも忘れない。
ただ、「現在の」宗教のあり方がそのままであれば、その恩恵をも台無しにして有り余るほどのマイナス要素を持つ、というのが著者の立場であり、それは、私がいつもキリスト教に感じる「排他性」の問題と密接につながり、あえて著者はキリストの愛は常にサタンとか人間の罪と行った影の部分を前提とした二元的な愛である限り、限定的な愛にならざるを得ない、と断ずる。
古くは、ユダヤ、イスラム、キリストの各宗教間の確執や、キリスト内部でのカソリックとプロテスタントの軋轢、またプロテスタンティズムの持つ、どうしようもない独善と排他性、たとえばルターの狂信的とも言えるユダヤ憎悪などを例に挙げながら、そのようなものを必然的に持たざるを得ない宗教がなぜに「愛」の宗教たりうるか、と疑問を呈し、同時に現在の世界の状況を、そういった宗教観あるいは宗教に根をもつイデオロギーの相克と見て分析してみせる。
その分析のひとつひとつはいろいろと違った見方もあるだろうが、これを一つの見方ということで見てみると、そこにはそれなりの納得性も存在する。
対比して、著者は、日本の古事記などに現れる自然崇拝系の考え方や、仏教の中で言われる人間と自然のかかわり方にも言及しながら、特に現在の世界の多数派を締める世界宗教の問題点を指摘しつつ、彼自身の立ち位置を、あるいは考えを書き綴っている。
聞いたこともない著者であり、ふとタイトルに惹かれて読んだ本であったけれど、読んで良かったと思える本であった。 -
以前は仏教を始め宗教について深く学んだ著者はこの本で既存の宗教の矛盾をしつこく追求する。組織だけでなくその根幹である教義にも批判が及ぶなど、宗教批判の本としてはかなり攻撃的な本であると感じた。
筆者の意見の多くに頷きつつも、宗教が無用であるとか、その存在が悪しきものであるという意見には賛成出来ないと思った。