「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140912188

作品紹介・あらすじ

誰もが自由に生きているはずの時代にあって、私たちはなかなかその実感を持つことができない。自由など本当は存在しないのか?自由より優先されるべき価値があるのか?哲学と現代思想が考えてきた「自由とは何か」という問いには、ヘーゲルの思考を手がかりにすれば答えを出すことができる。新進気鋭の哲学者が、「欲望」に着目することで「自由」を人間にとって最も根本的な価値と捉えなおし、私たちが「生きたいように生きられる」ための条件を考える。

感想・レビュー・書評

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  • ヘーゲル哲学にもとづいて「自由の相互承認」という思想の意義を論じている本です。

    著者は、竹田青嗣のもとで哲学を学んだ教育哲学者で、本書の議論も竹田の『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)におけるヘーゲル解釈の祖述といってよい内容になっています。それに加えて著者は、ロールズやノージック、サンデル、ローティといった現代の政治哲学を批判するとともに、「自由の相互承認」を実質的なものにするための実践的で具体的な社会構想にも踏み込んだ議論をおこなっています。

    ただし、竹田のヘーゲル解釈には相当に大きな問題があり、本書にもその問題がそのまま当てはまります。カントは、スコットランドを中心とする道徳感情論の批判を通じて「理性の自律」としての自由の意義を明らかにしました。ヘーゲルの社会哲学は、こうしたカント倫理学をくぐり抜けたものであることに、留意しなければなりません。ところが竹田の解釈においては、ヘーゲルはプレカンティアンに貶められており、とりわけ市民社会と国家の原理的な差異が見落とされてしまうという問題があります。本書でも、国家は市民社会的な原理のもとで偶発的な自由の喪失を救済するものとして位置づけられており、著者の提唱する「自由の相互承認」も、けっきょくのところ功利主義的な発想にもとづくものとなってしまっています。

    また、現代の政治哲学に対する批判もナイーヴな議論が目につきます。著者には、こうした議論に踏み込むよりも、むしろ著者自身の得意とする、「自由の相互承認」の実質的な条件を形成するための仕組みとしての教育のありかたについて、くわしく論じてほしかったように思います。

  • 登録番号:0142455、請求記号:361.1/To49

  • 能力と欲望の不均衡が不自由、と言うのはまぁ確かにと思ったが、それをどう克服するのかはありきたりというか的を射なかった。

    それよりも引用されていた
    知性は運命を無効にするという言葉が心に残った。

    唯一、思考だけが人間を自由にするのは同意。世界は解釈次第なのだと思う。

    あと、多数のコミュニティを持つとか、個人として認められる場が必要とか、そのへんは実感と一致していた

  • おもしろかった。終始論理的で、語られている内容が難しいにも関わらず、少しずつ納得しながら読み進めることができた。
    「自由」をここまで徹底的に考え抜いている本はこれが初めてで、自由のイメージを脱して本質を攻めていく過程が非常におもしろかった。

  • 2016.2.3
    本著は自由をベースに、人間は、社会は、いかにあるべきかを哲学的に考察した本である。人間にとっては、自由こそが至上のものであり、自由を捨てること(奴隷化)も、簡単な欲望で済ませること(動物化)も、正義や他者のために生きること(新たな大義)も、自由の条件にはなっても、自由に変わるものではない。自由こそ我々人間が求める至上のものとする、では自由とは何か。自由とは、諸規定性における選択、決定可能性の感度(実感)である、という。自由とは、ある状態ではない、我々のある実感なのであり、そしてそれは例えば自らの欲望の複数性、社会における固定概念など自らの自我を規定する諸々から、できうる限りでそれらを乗り越えること、またその可能性の実感である。それはまた、我欲すると我能うの壁を乗り越えることとも言える。みんながみんなすべてから解放されているという状態ではない、そんなものは不可能であり、大切なのは、みんなそれぞれが自由だと感じれること、そのための条件を解明することである。そしてこの自由を以って、人間的欲望の本質とする。私はこれを、自由とは欲望への欲望だと理解したい。人間は欲する我を対象化する自我を持ち、自我の目によって欲望と能力の不均衡は意識化され、この不均衡を一致させたいと望む、その欲望こそが自由への欲望ではないかと思う。そして人間はこのような自由を本質とした欲望存在であり、この欲望こそが認識による世界の確信、意味、価値を与える。また自らの至上のものである自由を維持するには、他者の自由も承認しなければならない。自らの自由ばかり主張してもいずれ他者より侵害されるほかないからである。これより著者は、人間がこの社会で生きる上での3つの原理を提出する。1.「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理、2.「欲望関心相関性」の原理、3.各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理、である。後半ではこの原理を実現するための実践理論を展開する。そこには実存的理論と社会的理論とがある。実存的理論としては、欲望と能力をいかに一致させるか、欲望を下げる、能力を上げる、欲望の中心点を変える、そして欲望を見出せない、自由に潰されそうな人は欲望のフックをかける、これらの状況に応じた具体的方法を見出すために、思考を鍛える必要があると。社会的理論としては、法と教育と福祉、交響性と遊動性なと。まず、原理と実践理論との区別が、当たり前のようでいて私も混同していたな、と。そして原理だが、正直なんの異論もないと言えばない。が、欲望関心相関性により、みんな自分の欲望に沿って主張を展開することを学んでいる以上、この原理が果たして原理なのかそれとも著者の欲望から生まれた論なのかを区別するだけの能力が私にはない。私も、人間が生きる上での、原理を探求したいと思ってきた。しかしここにおいて、原理とはなんだろうか、疑い得ないものとは何だろうか。疑い得ないのか、疑う能力がないのか、私にはまだ判別はつかない。自由を掲げているが、私は今までこれを幸福だと思っていた。自由は人間的欲望に、幸福はそれも含め動物的欲望も含めた一般的欲望に、という違いが述べられていたが、例えば私は昼間にビールを飲むと自由だー!と感じるが、これは人間的欲望故、だということだろうか。いまいちここの判別はつきかねるし納得しかねる。しかし、生きる上での原理を突き詰め、実践理論を展開していく本著は非常に参考になった。竹田ー苫野ラインの、フッサールとかヘーゲル哲学に完全に影響を受けたなーという気がする。この原理は私自身も、竹田青嗣の哲学本から影響を受け、考え続けてきたものであり、本著の原理からも学び取った上で、考え、生き、この身において原理を叩きあげに叩き上げ、確かめていけたらと思う。諸規定性における選択、決定可能性の実感かー。生きる実感もそういうことなんだろうね。そしてこれは、諸規定と選択の幅がその実感の強さを決めるのだろう。つまり欲望と能力の差が実感の強さを決める。しかし、差とは何だろうか。これを考えることは原理的ではないのか?んー。難しい。考えていきたい。

  • キーワードは、「自由の相互承認」。様々な哲学理論を検証しながら丁寧に説く本書は、自由が生きる上でどれほど大切で、いかに可能であるかを考える上で重要なテキストになると思う。

  • よく本を読む真面目な研究者だとは思うが、批判が尽くずっこける内容だった。批判としてはちょっと弱いものも多い。少なくともこの本での批判は、読解の甘さや粗雑さ(不誠実で不正確な読解)に基づくところがかなりある。
    他に「事実と当為」の話を持ち出して批判しながら、自分で事実から当為を導き出したりしているのはちょっとさすがにひどい。あとがきに、「哲学デビューの本」とあるが、ちょっと批判に気張りすぎじゃないか。

    「因果法則から自由」も、そういう表現でまとめるべきものではないと思う。
    無駄に分厚い本。
    著者の他の本はどうなんだろうか。

  • 「なるほど」と「問いかけ」が生まれながら読める楽しみ。

    検証可能性を追及する哲学の姿勢、そこから導き出される原理がすごい。その先の実践について今後に期待。

    ・「欲望・関心相関性」の原理
    ・「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
    ・各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理

    ・個人の「自由」を可能とするための、「欲望を下げる」「能力を上げる」そして「欲望を変える」
    ○欲望の中心点は動く。変えられる。これは人間の希望なのである。(168頁)
    ・欲望の中心点を見つけること。フックを持つこと。網を見つけること。そのための思考。

    ・承認しやすい環境づくり
    ・その上で諸規定性を乗り越えること
    →しかし、時代や世界は複層的。

    ・検証可能性=問題範囲の限定。「問うべきは何か」

    ・諸規定性のある社会を泳ぐ、ヘーゲルのスタンスそのものも興味深い。

    ・自由の相互承認のための、法、教育、福祉ととらえる。

    →諸規定性を乗り越えることが「自由」であれば、ある種社会はそのままでも良いのか、相互承認のための環境づくりは本質ではないのか。

    ・検証不可能な絶対不可侵なものに原理を置くのではない、ルールの哲学
    →原理としての「自由」の可能性、それを目指す社会づくりは必要であるが、一方で、ルールの哲学において、「ルールを守らないもの」を織り込むことは必要ではないか。ルールは守られないこと前提とした原理が必要ではないのか(全てに守られて初めて機能する原理では脆弱ではないか)

  • ヘーゲル論あり、米国発、政治哲学批判(思考実験批判)あり。


    自由の相互承認がキーワード。

    自由を捨てて機械的に生きるほうが楽なのかもしれないが、それは幸福ではない。
    幸福とは積極的に難問に向かうこと。

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著者プロフィール

哲学者・教育学者。1980年生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。博士(教育学)。早稲田大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程修了。専攻は哲学・教育学。経済産業省「産業構造審議会」委員、熊本市教育委員のほか、全国の多くの自治体・学校等のアドバイザーを歴任。著書に『学問としての教育学』(日本評論社)、『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマ―新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『教育の力』(講談社現代新書)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)など多数。

「2022年 『子どもたちに民主主義を教えよう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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