日の名残り (ハヤカワepi文庫 イ 1-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (365ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200038

感想・レビュー・書評

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  • ー夕方こそ一日でいちばんいい時間だ

    人生の夕方。一日を振り返る。いい一日ではなかった?振り返って取り返せない時間を想うと、良いと信じていたことが揺らぐ。過ぎた時間、あの時の自分の行い、今の自分なら。もっと別の選択をしていれば。そんなことも思うけど、
    もう夕方?まだ夕方?夜を楽しみにする新しい出会いに安堵する。空はまだ赤みを残している。夜は長い。

  • 映画を2度もみているので、読み始めるとアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの顔を思い浮かべながら読むが、違和感は無い。映画は原作の世界をほぼ忠実に描き出したものだったのが分かったが、映画では分からなかった心の動きが文字になっていて、さらにドライブ旅行の1日目-夜ソールズベリ、6日目-夜ウェイマスにて、と時間と場所が書かれていて、その上で現在と過去を行ったり来たりするので分かりやすかった。また場所も地図で確認しながら読んだのでより物語世界を味わえた。第二次世界大戦の前と後という設定においては、「遠い山なみの光」や「浮世の画家」のイギリス版なのだなあと感じる。

    仕事が楽しくなるかどうかは上司を人間的に好感を持てるかどうかが鍵である。その点スティーブンスは過去も現在も恵まれていたと思う。歴史的に業績を否認されようとも渦中においては霧の中だ。新しいご主人へのジョークの技術の取得に向けて、スティーブンスの顔は未来への道に向いている、そんな1956年の空気を感じて読み終わった。

  • ノーベル文学賞作家の代表作。第2次世界大戦直後のイギリス、ベテラン執事スティーブンスがはじめての長期休暇をとって、国内をドライブする。一応、旅の最終目的はあるのだが、たいして重要ではなく、旅の途中、出会いやトラブルがあったり、スティーブンスがこれまでの執事職を振り返ったりする漂流小説。

    チャーチルなど歴史上の偉人も登場し、イギリス史に詳しければもっと楽しめる小説だろう。

    スティーブンスは旅の終わり、自分の人生が夕暮れに染まりつつあることを知る。体力も記憶力も忍耐力も衰えた。それでも彼は執事として成長しようと誓い、勤める屋敷へ帰る。そんなスティーブンスが執事として新たに得ようとする能力ってのが、ジョークのセンスというのがイギリスらしいオチだ。

  • 読後にしみじみとした、言いようのない感動があります。

    消えゆく英国文化の生き残りとも言える執事、スティーブンスが、短い旅の中、輝かしい過去を回想するという、淡々とした物語です。
    退屈そうな、山場もなさそうな展開と設定なのに、カズオ・イシグロの腕にかかると、登場人物たちの生き生きとした会話劇と、執事としての品格を保ってきた執事自身の語り手効果で、素晴らしいストーリー性を発揮するのです。
    回りくどいし、ハッキリと断言もしない台詞回しなのに、リアルに、率直に迫ってくるのが流石です。

    スティーブンスのいう品格の意味を、読んでいて完全に理解はできませんでしたが、彼が果たそうとした役目や、英国の執事たちが目指した精神を想像することはできました。
    今は執務を完遂するよりも、感情的部分や、正義の行動を起こすことに、重きをおく傾向が、あるように思います。
    だからこそ、ローカルな、限られた伝統的な精神に、失われていくものを見出して、しんみりと感動してしまったのかもしれません。
    スティーブンスが目指した品格に、我々は価値すら見出さなくなるかもしれない。それくらい、自分の役割を貫くことに冷淡さすら感じるのが、今の普通だと思います。

    でも、誰もが人生で犠牲にしてきたこと、無くしてきたものをふりかえり、あのときああならばと、別の可能性を考えることはあります。
    スティーブンスの場合、執事という立場を貫く、自己の品格を貫くという行動によって、ありえたかもしれない可能性を失ってしまうわけです。
    語りの端々や記憶からスティーブンス自身の胸の痛みを感じ取れて、スティーブンスの幸せを願わずにいられなくなりました。

    彼らが失っていったもの、可能性があったかもしれない未来への哀愁に、胸がぎゅっとしめつけられるのですが、人読後はほのかな温かみにも癒されました。
    老年になればなるほど、人は成し遂げた分、なくすものや実現できなかった可能性への道を思うのかもしれません。
    まだそんな年にはなっていないのですが、私の胸には、スティーブンスやミセス・ケントンの悲哀や喜びが、ずっと残り続ける気がします。
    何を選ぶのか、それは人それぞれ違うのでしょうが、選んだ道を胸を痛めながら進んだ彼らを慰め、賞賛したくなりました。

  •  「わたしを離さないで」、「わたしたちが孤児だったころ」に続いて、カズオ・イシグロの作品を読むのは三作目です。

     この作品では、執事のスティーブンスがかつての女中頭のミス・ケントンと再会するために車でリトル・コンプトンに向かう旅が描かれています。といっても、話の中心は旅自体ではなく、その途中にスティーブンスが思い出す過去の出来事です。物語は全てが回想の形で語られていきます。ずっと昔のことも、そしてたった二日前のミス・ケントンとの再会さえもです。

     まず、スティーブンスの考え方、喋り方、行動に、違和感のようなものを感じます。それが、読み進めるうちに、執事とは単に職業ではなく一つの生き方であるということ(少なくともスティーブンスがそう信じているらしいこと)が分かってきます。スティーブンスは偉大な執事たるべく、英国の古い時代の価値観 ─ 紳士としての品格 ─ を重んじているようなのです。しかし、それは彼の揺るぎない信念なのでしょうか?

     いくつものエピソードが寸分の隙なく最適の組合せで作品中に嵌め込まれていくのは、「わたしを離さないで」の場合と同じです。しかも、スティーブンスが英国の田園風景を巡りながら過去と現在を往復しつつこれらエピソードをモノローグで語ることで、この作品は内省的で感傷的な ─ まるで心の中に分け入っていくような ─ 旅の物語に仕上がっています。

     これらエピソードのディテイルの全てが、物語の終盤に急速に意味を持ち始めます。そして旅の最後、ミス・ケントンとの再会を果たし過去を振り返り終えたスティーブンスは、ようやく心の内を吐露します。海辺の町の夕暮れ時、スティーブンスはたまたま知り合った男についにこんな言葉を漏らしてしまうのです。「私は選ばずに、信じたのです。〔中略〕卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」
     しかし、男はいいます。「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ」
     この一言で一日の夕暮れの風景が一瞬のうちに人生の夕暮れ時の切なさとなごり惜しさと優しさに置き換わる、なんという見事なマジック……

     この小説のいわんとするところは、五十代も後半を迎えた今の私にはよく理解できます。もし三十代のころに読んでも何のことかよく分からなかったかもしれません。しかし、作者はこの小説をなんと三十代半ばで書いているのですよ。これは驚きですね。

  • ノーベル文学賞作家、ガルシア=マルケスの代表作「百年の孤独」をかつて苦心して読みました。
    同著者の「族長の秋」に至っては、4~5ページ読んだところで、「とても歯が立たない」と投げ出しました。
    ですから、今回、ノーベル文学賞受賞の報に接し、カズオ・イシグロの著書を初めて手に取った瞬間、こう思いました。
    「自分には高尚過ぎる内容かな、難しいのかな」
    とんでもない誤りでした。
    読後の感想は、読みやすい、そして面白い。
    いや、こんなにリーダブルな小説だとは思いもよりませんでした。
    内容も興味深い。
    英国の老執事が過去を回想する物語。
    タイトルの「日の名残り」というのは、人生の黄昏時に入った執事のことを意味しているのでしょう。
    そして、恐らくダブルミーニングなのではありますまいか(主人公の執事の口調を真似てみました)。
    それは、かつては世界に冠たる大帝国だった英国の没落という意味です。
    主人公の執事が、以前は国際的にも影響力のある名家の英紳士に仕え、現在は米国人の大富豪に仕えているということが、それを象徴的に表しています。
    しかし、本書の大テーマでもある、「品格」ということになると、英国紳士に軍配が上がるでしょう。
    あるジョークを思い出しました。
    米国人が英国に行って、素晴らしい芝生を見ました。
    「こんな見事な芝生は見たことがない。いくらかかりました?」
    相手は一言、「500年」。
    米国はしょせんカネだけがモノを言う国、英国には格式と伝統があるという英国人の心意気が伝わるジョークです。
    さて、未読の方でこれから本書を読むという方は、これ以降読まない方が賢明かもしれません(ネタバレとか謎解きとか、そういう類の本ではないのですが…)
    主人公の執事に恋焦がれる女性がいます。
    名家の英紳士に、ともに仕えた女中頭です。
    女中頭は、外で知り合った男性から求婚され、やがて屋敷を離れることになります。
    主人公は、現在仕えている米国人の大富豪から勧められ、英国中を自動車旅行しながら、この女中頭の元へ向かいます。
    そして、最後に女中頭から、好きだったことをほのめかされます。
    ここはジンと来る場面です。
    人生は取り返しのつかないものなのだ、ということが伝わってきます。
    静かに深く、人生の何たるかを教えてくれる、大変にいい作品でした。
    たくまざるユーモアもあります。
    客人の息子に「生命の神秘」(セックスのことですね)を教えようとする場面などは、実にユーモラスです。
    最後は、主人公の老執事がジョークの大切さを痛感して終わります。
    このラストも実に爽やか。
    「もっと肩の力を抜いて行こうよ」という著者のメッセージのように思いました。
    ところで、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞の後、「なぜハルキじゃない?」という、本質とは全く違う報道がメディアを覆いました。
    そんな些末な話に矮小化しない方がいいのではないかと、読後、思ったことでございます。

  • お屋敷奉公の内幕(?)の本、
    「おだまり、ローズ」を読んでいるあたりから、
    この小説が実在の執事をモデルにしている、
    と言うのを知り、読んでみようと思った。

    一流の執事になることを目指し、
    実際その地位を確立した、スティーブンス、

    長年仕えたダーリントン卿亡き後、
    屋敷を買い取り、引き続きスティーブンスを雇うことになった
    新しい主人から、ある日、
    自分の留守中、たまには休暇を取って出かけるように言われる。

    そこで、過去に一緒にお屋敷で働いていた女性に
    会いに行くことにするが…

    「品格のある執事」を目指すスティーブンスが
    やることなすこと自分の感情をなくして
    「執事はこうであるべし」で行動するから、
    御立派ではあるけれど、
    なんだかいちいちしち面倒くさいお人だなあ…と
    少々うんざりして、
    でも実際こんな人生ってさぁ…と思ったとき、

    「あ、そうか、スティーブンスもそれに気付いたんだ!」
    と言う事がわかった!

    敬愛していたダーリントン卿がある策略に利用され、
    名誉を失墜したまま悲劇的な方法で亡くなってしまった今、

    かつてお屋敷で開かれていたような華やかな行事もなく、
    使用人の数もわずかとなり、

    自分の選んだ道が最良だったのかな?と折々考えてしまう気持ち、

    「もしかしたらあの時、ああだったかも?」
    「あの人、こう思ってくれていたのかも?」
    なあんて、思いめぐらせて、

    そして、今回の旅行で会いに行く女性がくれた手紙を
    何度も読み返しては、
    自分の都合のよい解釈をどんどんしてしまう感じ、
    あるなー。

    実際に再会したら、
    自分の想像とは拍子抜けするほど「違う」んだけれど、
    (これも、あるなー。)

    救いのある部分もあった。
    だから余計に戻らない時間が切ない訳だ…。

    「わたしはこうして執事になった」のエドウィン・リーがモデル、
    と言われているけれど、

    「わたしは…」を読む限り、確かに「執事界のレジェンド」と
    言われた男だから、一側面ではあるんだろうけれど、
    リー氏はもっとお茶目でユーモアのある印象、であった。

  • AIのような、私情を挟まない完璧な執事スティーブンスが、かつての女中頭のミス・ケントンに屋敷への復帰を打診するために旅をする話。回想形式の部分が多いが、品格ある真の執事を目指して滑稽なまでに淡々と執事業をこなすスティーブンスと周囲との微妙なズレにクスッとさせられる。
    スティーブンスは品格ある執事を目指すあまり、主人ダーリントン卿を盲信して、自分で考えて行動することがなかった。そのうちにダーリントン卿はナチスに取り込まれ、無自覚のうちにナチスのイギリスにおける傀儡として利用されてしまっているのだが、周りからどんなにそれを指摘されても、そうとしか思えない指示をされても、スティーブンスはそれに気づかない。最終的にはダーリントン卿はそれを新聞で糾弾されて、名誉を失い人生を終えていく。また、ミス・ケントンはスティーブンスを愛しているのに、それにも気づかず二人のやりとりは空回りとすれ違いばかりでもどかしい。他の人と結婚して、もう今はその夫と共に生きる覚悟をして孫まで生まれようとしているミス・ケントンが奥ゆかしくその頃の思いをほのめかす場面が美しかった。スティーブンスは、敬愛するダーリントン卿も失い、無自覚ではあったかもしれないが愛していたミス・ケントンも失い、自分は自分の判断で行動していたわけではなく主人を信じていただけの品格を欠いた人間であったことに気づき、夕日に向かって涙する。
    夕方が一番美しいんだ、と見知らぬ男から言われる最後の場面は、そんな人生の絶望を優しく勇気づけてくれる言葉に思われた。ミス・ケントンに会う直前の「四日目午後」まではかなり長く、というかこの作品の8割くらいを占めるのに、その後記述が再開されるのが「六日目夜」だから、それだけ打ちひしがれていたんだろうなと思うが、最後に見知らぬ人々がジョークを言いながら親交を深めているのを見て、ジョークの練習をしようと改めて思うスティーブンスで締めくくられているのが前向きでよい。

  • スティーブンスは父を偉大な執事だったと言う。そう思う理由の一つに、兄を無駄死にさせた将校を完璧にもてなしたエピソードを挙げる。そして自分が仕えたダーリントン卿が外交の深みにはまって溺れかけそうになっていた最悪の瞬間に、自分は執事として最高の車輪の中にいると感じて、幸福感ではなく「勝利感」を得る。正しいことをしたからだとは言わず、品格を保ち続けられたからだと言う。スティーブンスは、主人が間違っていることを知っていたかもしれない。だから、ベンチに座って「ご自分が過ちをおかしたと……言うことが〝おできになりました〟」と泣いたのではと思う。だが、主人に忠告することは「わきまえた」ことではないし、執事としての品格も保てたものではない。主人を信じてはいたけれども、結果として見捨てたとも言える。自分の品格を保つために「正しい」ことをしてきた人生だったのだと思う。当然、女中頭との駆け落ちなどあり得るわけがない。アメリカ人の主人に仕える今になってベンチで泣くことさえ、「執事」としての品格を保った結果だと思う。この悲しさが美しいのだと思っていることも大いにあり得そうである。だが「人生、楽しまなくっちゃ」とアドバイスをもらったのも確かである。楽しい人生だった、でいいのだろうと思う。

  • 過去の出来事を回顧しながら物語が進んでいくが、最後の最後になって、自分の過ちを見つめることになり、取り返すことのできない時間が静かに押し寄せてくる。どれだけ悔やんでも、取り戻すことのできない時間が。

    誇りに思っていた執事としての"品格"。
    しかし、信じていた主人は歴史から見ると誤った判断をしていて、さらに自分が拘る品格を保つためにミスケントンとの関係を蔑ろにしていた。

    人生って…と考えてしまう。
    読後はものすごい寂寥感が。

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著者プロフィール

カズオ・イシグロ
1954年11月8日、長崎県長崎市生まれ。5歳のときに父の仕事の関係で日本を離れて帰化、現在は日系イギリス人としてロンドンに住む(日本語は聴き取ることはある程度可能だが、ほとんど話すことができない)。
ケント大学卒業後、イースト・アングリア大学大学院創作学科に進学。批評家・作家のマルカム・ブラッドリの指導を受ける。
1982年のデビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、これが代表作に挙げられる。映画化もされたもう一つの代表作、2005年『わたしを離さないで』は、Time誌において文学史上のオールタイムベスト100に選ばれ、日本では「キノベス!」1位を受賞。2015年発行の『忘れられた巨人』が最新作。
2017年、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、「偉大な感情の力をもつ諸小説作において、世界と繋がっているわたしたちの感覚が幻想的なものでしかないという、その奥底を明らかにした」。

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