ゼロ年代の想像力

著者 :
  • 早川書房
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感想 : 73
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152089410

感想・レビュー・書評

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  • 学説と現実が乖離していくのは、社会学と言う世界では特に顕著であるように思う。君子豹変。

    ただね、何かサブカルをこういう風にひとつの流れとして方向付けるのはなかなかに難しいことだと思う。『代表的なサブカルチャー』つったって限界があるだろうし、ではそういった考察の客観性はどこから得られるのか。つまり誰であっても同じ結論に至ることができるのだろうか。自分の見たことのある物からしか世界は見れない。そのことは念頭においておくべきであるし、そのうえで論を構築するべきだ。ちょっと自分の説に陶酔しちゃって「客観性」を見失ってるんじゃないか?なんか青いぞ。

    でも「ああ」って思えるところも多々あり、すとんと納得するところもあり、おもしろく読めた。もうちょいいい感じになりそうやけどな。

  •  2000年代の日本の思想状況の様相を、文学や映画、テレビドラマなどの作品を縦横無尽に駆け巡りながら分析した一冊。
     従来の日本を取り巻いていた思想は、高度経済成長の時代に表れていたように、「大きな物語」が席巻していたが、それはもはやバブル崩壊から始まる平成不況の時代、1995年の阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件を端点に崩壊をたどり、2001年の小泉構造改革やアメリカ同時多発テロを経て、一気に消滅し、そして2000年代に圧巻したものは、社会や世界が人々に生きる意味や価値を与えないのだから、各自が信ずるものを選び取らねばならない「決断主義=バトルロワイヤル」の思想だとする。
     決断主義はどのように判断する/判断しないにせよ一定の価値観を選択する以上、選ばなかったものに対して排除やネガティブな論理を働かせることが必然的に伴う。この決断主義こそが、人々に言わば「寛容(tolerance)」なるものを与えず、それぞれの島宇宙的な価値観に依拠した世界同士で対立する構造を生みやすくしている構造を、著者は東浩紀のデータベースからシミュラークルを生成するアーキテクチャー論を批判的に依拠しつつ、ゼロ年代の文学、映画、テレビドラマなどを参照にこれでもかと抉り出す。
     これを読む前に『リトル・ピープルの時代』を読んでいたので、併せて読むと今の思想状況が極めてクリアに見えてくる。『DEATH NOTE』にせよ『鋼の錬金術師』にせよ「平成仮面ライダー」にせよ、サブカルチャーや作品というものは社会の時代背景や人々の意識を先取りして構成されたものである以上、社会思想・政治哲学の指標を照らすものとして決してバカにしてはならない。著者は今ある現実の姿を見る人間の態度にこそ時代を生きるヒントとして捉え、つまり「仮面ライダーディケイド」や「ポケットモンスター」、「セカイカメラ」などに見られる、今ある現実の一面を多重的に捉えて見る「拡張現実(AR;Augmented Reality)」に、現実を豊かに生きようとするための手がかりを見る。
     そう、世界は自分たちが思っているほど明るいものでもなければ、暗く悲観するものでもないのである。そのように感じさせてくれる本だ。特に最終部の文章表現に氏の温かさが出ているのがよい。

  • 知ってる作品をあぁいった視点で表現されるのがおもしろかった。

    AIRはこういった場所でよく出てくるので見ておきたいな。

  • 同世代というのは、それだけで共通する感覚があるのかもしれない。
    主にこの本の批評対象となっている1995〜2008年の時代背景を、同じぐらいの成長段階で見てきたということは、著者の主張を理解する上で大きかった。

    読み終わるまでに時間はかかったが、それでも読了できたのは、論拠に挙がる作品のほとんどが、自分の中に、なんらかの作風イメージを持っているものばかりだったから。
    おびただしい数の参考作品を、時代や、作品の孕む要素という括りで分類し、社会の傾向を読み取る試み。その評論の如何は、同世代間なら、議論に花が咲くところだろうと思う。

  • もうすぐ文庫版が出るらしいのでレビュー。

    本書は著者が第一部・第二部で言うように「腐臭を放ち始めた90年代の感性」と東浩紀、そして彼の言説を劣化コピーするだけの思考停止状態に陥った『幽霊達』を祓う為に書かれている(らしい)。

    内容は良く言えば切れ味がよい批評、悪く言えば論理よりも断言する語り方の力強さとレトリックで押し切っている持論。
    一番気になるのは本書で批判されている東浩紀が、別の書籍(プラネットでの宇野との対談だったかな?)での指摘と同じく「自分の論に基づいて文芸作品を選んではいないか」という点。つまり、論拠となる作品の選定が恣意的で、なぜこの作品を語るのかという説明が欠けているように思う。
    あと、文芸思潮の表層から深部にある政治思想を暴き出そうって意図は受けつけられない人も多いかも。(でも、日本の文芸批評ってずっとそんな感じでしたし、しょうがないですかね)

    それでもこの本には人を惹きつける魅力があるのは確か。その魅力はこの本の中でも繰り返し言われている「明日を逃げ出さず、いずれ終わりの来る日常を祝福する」というゼロ年代をさらに乗り越えていこうとする意識のような気がする。歯切れの良さと相まって、この辺りの主張をしているから人気なのかなぁと思った。

  • 現代のメディア、ネットサービス、文化を考える上でも、手がかりになる本。

  • 要約すれば、与えられることを待ってるんじゃなく自分から能動的に動かないといけないよ、とそういうことを言いたかったんだろう。
    それをゼロ年代に流行した物語の構造に絡めて語るその発想の仕方、というかこじつけ方はうまいな、と。
    ただ、どこかのブログで読んだ「既存の批評家達の思想のマッピングに過ぎないんじゃないか」という意見にも頷けるような。

  • 東浩紀批判として書かれた『ゼロ年代の想像力』は、非常にレベルが高い評論を繰り出した作品で面白い。しかし、評論が問題系の提示だけに終わり、論点が拡散した後の回収作業が読み手に放り出されており、その点が減点要因である。

  • 裏づけのないことばかり書かれている気がして消化不良。
    クドカンドラマの見解は参考になった。

    メモ
    ・90年代「引きこもり(心理主義)」/ゼロ年代「決断主義」「サヴァイヴ感」
    ・TVテロップ多用>表現空間を規定する力がデータベース消費の時代弱くなる。キャラを規定する位置関係(=物語)は読めるが笑いどころの空気(=表現の空間)は伝わりずらい。
    ・モノはあっても物語はない>80~90's:消費社会の可能性と疎外感/90前:喪失感→95~:絶望。「行為によって状況を変える」でなく「自分を納得させる理由を考える」。自己実現と実在の在り方/行為でなく設定。

  • 具体的に作品を例に挙げて分析を進めるのは分かりやすい反面、同時代の作品全てを列挙することが不可能なのだから選別の段階で恣意的なバイアスがかからざるを得ない。都合のいい例を拾って解釈してるようにも思える。それが個人の主観的な批評だと言われればそのとおりなのかもしれないが。
    でも言われてることの大半は自分が肌感覚で感じてきたことを言語化してくれものに遠くなく、納得させられるものも多い。
    東浩紀を踏み台にして持論を構築・展開するのはやめたほうがいい。なんかひく。

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著者プロフィール

1978年生まれ。評論家。批評誌「PLANETS」「モノノメ」編集長。主著に『ゼロ年代の想像力』『母性のディストピア』(早川書房刊)、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』。

「2023年 『2020年代のまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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