ゼロ年代の想像力

著者 :
  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152089410

感想・レビュー・書評

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  • p.2008/8/31

  • 思索

  • 評論

  • 論考されているテクストの1/3程度は知らないので十分理解できない部分もあるが,良く調べて考えたな~というのが感想.

    著書の主張は序文で引いている「ニーバーの祈り」に象徴されている

    「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

    最後に
    “私たちの生きてるのは「終わりなき(ゆえに絶望な)日常」ではなく.むしろ「終わりある(ゆえに可能性あふれた)日常」なのだ”

    と肯定的に社会を捉えていることには好感を持てた.

  • 2014年3月25日読了。2000年以降、ゼロ年代の文学が語る「物語」に対する考察。批評界は未だ、エヴァンゲリオンが代表する95年的な物語(「問題に対し選択をせず、引きこもる」)を引きずっており、複数の島宇宙が乱立しそれが対立するバトルロワイヤル的・決断主義的なゼロ年代の物語に対応できていない、とする主張は分かりやすく、目が覚める思いだ。特に私が親しんできた東浩紀のゼロ年代文学批評を一部評価しつつも「時代遅れ・安全に痛く自己反省するマチズモの回路」とバッサリ切り捨てるさまには開いた口がふさがらない。かつて思想家が夢見たように、「各自が好きなコミュニティに属し、信じたいものを信じる」島宇宙世界は決して幸福なものではなく、排他的・暴力的性質を帯びるというのは現実がそうなっているとおり。その暴力の連鎖を超えるために現代の作家たちが葛藤しながら出す答えは、決断主義的物語ではなく「限られた時間の中で(終わりある日常を生きろ)、ゆるやかな共同体と生活を営む」ことであるとのこと、宗教や主義主張に自分の身をゆだねるのではなく、ここにいる自分と、その周囲の面々との関係性を豊かにすることを志向すること。それがゼロ年代に生きる我々が求める物語なのだろうか。すぐれた物語の語り手として、TVドラマ・少年ジャンプ・仮面ライダーを取り上げているのが面白い。

  • Twitter上で時々話がでてきたり、あるいはFollowしている東浩紀とバトルをしているから気になった・・・というわけではなく、これもなぜかWishlistに入っていた一冊。

    本書は批評家である著者の処女作として、出版時にはそれなりの評価を得ている。東浩紀がいうところの「動物化するポストモダン」以降のゼロ年代におけるサブカルチャーに対する批評を軸に、現代における生き方を論ずる・・・という仕掛けになっているのであるが、読んでいて何と言うかまったく評価できなかった。

    まず他のレビューでもあったように、自説の例示として持ってくる例があまりに恣意的すぎるという点があげられる。一応著者の中には基準があるようでそれも書かれているのだが、かなり恣意的な感じが否めない。
    次に前半と後半で論旨がかなりグダグダになっていることがあげられる。雑誌掲載のまとめというところから仕方がない点もあるとは思うが、前半は、ゼロ年代は「自己決断」と「サヴァイブ感」が当然のものとして位置づけられたという点で一貫しているものの、後半はそれに対する処方箋を論じるというつもりが、話があっちへこっちへ言っている。そもそもvs 東浩紀という感覚が強くてそこを語る前半で力尽きてしまったというのが率直な感想。

    最後にサブカルチャー「だけ」をピックアップして時代を語るのは、そもそも無理があるということ。確かにここ20年ぐらいの間にサブカルチャーが「サブ」である理由、言いかえればだれもが正当と認める文化・・というものは急速に勢いを失ったと思うが、それでもゲーム・マンガ・アニメ・ドラマと目につきやすいものから引っ張り出してきた感は否めない。仮に世の中の空気を表すものが、いわゆる大衆に広く浸透する「サブカルチャー」であったとしても、後半のその問題点への解決・・という点においては、広く先鋭的な作品を対象としてもよいのではないかと思う。

    著者が考えている物語を読む、というスタンスで読めばなかなか面白く読むことは出来るのでかろうじて★2つ。

  • 著者、29歳くらいだと作中の一言から知ったときのショック。
    29歳って、こんなに頭が働くのか……と思ったけれども、その年齢が若いでも年寄りでも問題ではないんだね。
    そういう能力がある人は、人に物事を説明出来る能力を獲得したときから、それを伝えられるのだろうし、伝えるべく努力してきたから、伝えられる能力を身につけたのだろうなあ。

    小説でもドラマでもマンガでも、取りあげられているものには知らない作品も多かったけれど、サブカルチャーから分析しているので、とっつきやすかった。

    そのときどきにヒットする作品は、時代の空気をとらえているとか、たまたま当たったんだろうとかというものもあると思っていた。分析しながら作る人がいるのも知っていたけれど、「ヒットするもの、世の中で今求められているもの」をそこまで考えて作るものだとは思っていなかったので、驚いた。

    エヴァのヒットした90年代は、「他人に関わろうとすると、他人を傷つけてしまう。それならいっそ関わらないで引きこもる」という選択肢が許された時代。
    「バトル・ロワイアル」がヒットした00年代は、「不条理が当たり前になっているから、引きこもっていては世界に殺される。だから戦わなければいけない」時代。

    高橋留美子のマンガは、母性だから、「いつまでもその世界で遊んでいていい」「外に出ていかなくていい」「守ってあげる」だったのが、『犬夜叉』の最後の選択肢は変化になった。
    関係性の変化について、山岸凉子の影響下にある少女マンガ家たちが新しいものを獲得して、たとえばよしながふみの「ゆるやかにつながりあう関係」である。
    バナナ・フィッシュの吉田秋生は、ゆるやかなつながり→選ばれた才能のみの変化しない、他者による影響のない世界。→ゆるやかなつながりをふたたび求めて。で変化している。アッシュがあそこで死んでしまったのは、それによって英二を永遠に所有するためであるという分析を読んだときには非常に衝撃的でしたね。そうか、あれはアッシュによる所有という見方が出来るのか……英雄を英雄に、美しく、リバー・フェニックスの永遠性と似せて留めるためでなく、か、と。
    その後、英ちゃんは確かにアッシュの写真を封印していたし、ニューヨークに留まったけれど……あの解放ですら、英二の中のアッシュをよみがえらせるためなのかと思うと。でも、そこからの変化はあると思うから、この解釈は本編までなんだろうな。

    ギャルゲーやラノベの「白痴的美少女」は、世界を得られなくなった「僕たち」が、その世界の命運を握る少女から全存在をかけて愛されることで自分の存在意義を得るものなのである。
    『最終兵器彼女』だとか、というのも、おもしろかった。
    仮面ライダーにおける、時代性の変化。戦い合うライダー達は、もはや世界の命運をかけているのではなく、個人的事情から戦っているとか。

  • 終わりある日常における自分自身の物語を。自らのココミュニケーションによってつかみ取っていく。ゼロ年代とは自由な世界である。

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著者プロフィール

1978年生まれ。評論家。批評誌「PLANETS」「モノノメ」編集長。主著に『ゼロ年代の想像力』『母性のディストピア』(早川書房刊)、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』。

「2023年 『2020年代のまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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