- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166601295
感想・レビュー・書評
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翻訳が2パターンある映画を見て、興味をもって手にしました。
おお…訳す人によって、こんなに文章の雰囲気は違うのか。と驚かされた一冊。私はどちらかというと柴田さん派でした。登場人物が、なんかちょっと人がよさそうで。
他の人にも感想を聞いてみたくなる本です。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
作家の村上春樹と翻訳家の柴田元幸の翻訳についての熱い対談。フォーラムや座談会のような場で話されたことを再録している形になっていて、普段のお二方の翻訳に対する熱い思いや考え、接し方を知ることができた。ただやはり翻訳に対する観念的なことをおっしゃっているので、翻訳とは何か、核心的なお二方の思いに迫るたびに、言葉づかいはより漠然とした、掴みづらい説明となっている。それは確かに簡単にわかる言葉で説明できるわけでもなくて難解な感覚論にいってしまうのは当然と言えば当然なのだが、作家へのアプローチの仕方や「訳」すことについての二人の考えをくみ取ることは難しかった。
そんな中でも、やはりお二人とも翻訳にとても楽しく取り組んでいることがうかがえたのはとても良かった。いい作品にいい訳がつけられるのは、結局のところ義務感や仕事だからではなく、それが好きだから、何よりも楽しいからできることなのだなと感じた。 -
翻訳ものを読むのが苦手な私にとって、村上・柴田というのは最も安心して、というか、抵抗なく訳書を手に取れる二人である。
その二人が、彼らの翻訳という作業について語り合った本書。
大学でフォーラムを開催、学生たちを交えて翻訳を語った第一部。翻訳学校の生徒を対象にした第二部。若手翻訳家達とともに語った第三部。
途中、「競訳」として二人でそれぞれ訳したカーヴァーとオースターの短編が掲載されており、これがまた面白かった。
まず、カーヴァーの「collectors」にでてくるカーペットクリーニングのセールス、あ、アメリカだ~と思った。実際、よくそんなセールスが来たなあ。
柴田訳は丁寧で、翻訳の教科書的な感じ(当たり前か)。とても読みやすいのだが、アメリカっぽさ、海外ものを読んでいる感覚という意味では村上訳に軍配。フィートをメートルに直さないとか、わざわざ「電機」掃除機というところとか、たいして意図していないのだろうが、なぜかすごくアメリカの小説を読んでいる感じがする。
と思っていたら、第三部でまさにそのことが言われていた(柴田訳は、その作家がもし日本人で日本語でこれを書いていたらこういう文章だっただろうと思わせる訳文、村上訳は、英語が母語で日本語が達者な人が書いた文章という感じだというような話)。う~ん、そう!そうなんだ、まさしく。
翻訳云々の具体的なことよりも、お二人が翻訳という作業が大好きで楽しくて仕方ない!というのがよく伝わってきた。
想像していた以上に面白かった。
最近離れていたオースター、また読んでみようか。 -
自分はかけがえのない人だろうか。
そういう人であるべきか。
そうあってはいけないのか。 -
リービ英雄・村上春樹・柴田元幸
大学時代の教養の英語の時間に、フィッツジェラルドの偉大なるギャツビーをテキストに使ったのが、フィッツジェラルド体験の最初だった。その後、村上春樹にひかれるようになってからは、彼にとっての特権的な場所としてのGatsby(最後に翻訳されるべき文章)が意識の通奏低音になる。アメリカに住んでいた頃に、コロンビア大学の大学院の学生にGatsbyの逐語解読を頼んだあたりから、翻訳はObsessionになった。
「僕は『グレイト・ギャツビー』の最初の部分がものすごく好きなんですよ。あれを読むといつも胸が震えるんだけど、でも今のところはまだ訳せないんです。そろそろ『ギャツビー』を訳そうかなとときどき思うんだけど、あの最初の1ページを見ただけで、「あ、まだだめだな」と思って、いつも諦めちゃうのね。」(村上春樹・柴田元幸 翻訳夜話)
村上春樹は、日本文学とは無縁なところで、英語でかかれた小説を読むこと、そして翻訳する過程で、自分の文体を作り上げた。
「僕の場合は枠組みをもってきて中を分断して臓物を入れ替えていったということがあって、翻訳というのは、僕が自分の文体を作るプロセスの中ですごく大きい意味をもっていたということなんですね。」
翻訳すべき対象があるということ、それを、どのように自国語の枠組みの中に組みかえるか。これは、骨は折れるが、手作業自体は幸福な時間になりうる。この手作業の中で鍛え上げられて文体で、村上春樹は多くの傑作を産み出し、時代の作家となっていった。まるで、サラリーマンのような勤勉さで作品を書き続ける村上のリズムの中には、翻訳という行為が本質的に組み込まれている。
翻訳という過程の摩擦熱から生まれた彼の日本語の文体が、今度は、日本人以外の人々によって、翻訳され、英語圏での読者を獲得しはじめているというのが、文学が本質的な意味のテキスト性を示している。時間と場所を超え、作家と読者が交差しながら繰り広げられる相互性の網の目としての文学空間を端的に代表するのが翻訳という行為なのだ。
村上春樹の翻訳の有能な伴走者がポール・オースターやリチャード・パワーズなどの翻訳でカルト的人気(柴田さんの翻訳が読みたいファンがいるということ)を持つ柴田元幸だ。
批評家の三浦雅士の奇妙で魅力的な本「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」(新書館 2003年)の中で、彼は、若い作家たちが、影響を受けた作家ということで、村上春樹たちの名前に加えて、柴田元幸という翻訳家の名前を挙げることに気がつく。20代、30代の作家たちは、新発田の翻訳を通じてポール・オースター、スティーブ・エリクソン、リチャード・パワーズなどの文体的影響下に置かれているのである。
おそらく、長い人類の歴史の中で考えれば、これはあたりまえの事実なのだろう。人類は、常に異文化の文書の翻訳によって、自国の言葉や文化を形成していっているのだ。
しかし、村上春樹や柴田元幸というメディアを通じて、若い世代の文学的精神が、米国文学に直接繋ぎこまれている事実を具体的に認識することには、かなりの新鮮さを感じた。
村上春樹や柴田元幸は、唯一の帝国、すなわち世界の別名となったアメリカが、スローモーションで、千々にくだけていく過程で、その灰を川岸へと送る風の役割を果たしている。
「アメリカははじめから世界の雛形、ミニアチュールとして誕生した。それは世界についての世界にほかならなかった。・・・理想世界は、世界の記憶の集積にほかならなかったのだ。まるで世界の幽霊のようなものだ。」
神楽坂に住むリービ英雄という日本語作家の新作を読むにつれて、この文学空間の世界性ということを具体的に感じる。万葉集を自国語である英語に置きなおすことを生業としたアメリカ人が、日本語で日本と中国を書くという情熱に絡め取られて暮らす中で、世界の記憶の象徴が崩れ落ちる瞬間を、自国の黙示録的時間を、カナダという中途半端な異国で、日本語で書き残し、日本へと伝えるという、状況に置かれるというまるで文学の神の狡知のような宿命性。そして、その日本語で伝えられる事件を受け取る側の感性もまた、多くの日本人によって翻訳によって再構築されるアメリカの記憶によって影響されているという事実。
多くの女たちの手によって、数十年かけて織り上げられる一枚のペルシア絨毯のような質量感を、翻訳を媒介として形成される文学空間に感じる。 -
私は海外文学が好きなのですが、本の選び方はずばり翻訳者が誰かです。
当然柴田元幸さんと村上春樹さんの翻訳本は選択肢に入ります。
なぜ海外文学が好きなのかと言われれば、翻訳者というフィルターを一度通しているからです。
翻訳者が翻訳したいと思うほど面白い。
さらに翻訳したものを世に出せると編集者が判断したする。
これが日本文学になると編集者というフィルターしかかけられない。
下手をすると話題性だけで売ろうとして(芸能人の小説なんてまさにそうです)、内容スカスカのものを買うはめになります。
海外文学を読むついでに、この本もさらっと読んでみてはいかがですか。 -
村上:柴田で7:3ぐらいしか発言量ないんじゃない?これ?
村上さん、翻訳に対する思い入れだの事後弁明だの、多すぎ(笑)。
まあムラカミハルキっていうだけで売れ方1桁2桁違うらしいし出版業界のオトナの事情もあるだろうなあ。しょうがないのかなあ。
職人的に的確な言葉をはめこんでゆく柴田翻訳文好きのワタクシとしては、ちょっと肩透かし食らわされた感なきにしもあらず、でした。
柴田さんの発言「極端に言うと僕しゃべりながらでも翻訳できます。翻訳する作業は違う脳を使ってるんじゃないかと思う」っていうのが、すごく生々しかったです。
http://booklog.jp/users/donaldmac/archives/4166603302
に続刊アリ。 -
全く上品ではありませんが、気持ちとしては涎が出そうになりました。
あまり楽しそうで。 -
おもしろい!翻訳者としての立ち位置の話から、人称の使い分けなどなどいろんな翻訳の裏話が満載。おふたりがそれぞれ訳した短編を読み比べることもできます。
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今までは絶対原作で読みたいって思ってたけど、
翻訳されたものも読みたいって思いました。