- Amazon.co.jp ・マンガ (210ページ)
- / ISBN・EAN: 9784253104906
感想・レビュー・書評
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コメント難しいです。
主人公のこと好きにはなれません。
この作品では戦争でしたが、女子には彼女のように
「見えない繭」で現実から身を守ったことが
多かれ少なかれあるのではないでしょうか。
「生きていくことにした」とはつまり、男性を否定する「少女」から産み増やす「女」になるということだと思うのです。
「空想の繭」の中で繭を破ることもできず、かといって絹糸になる予定もなく、だらだらと腐って行きそうな私には耳の痛い漫画でした。
作者が想定した読み方ではないかもですが、戦争を描いた漫画であると同時に少女期特有の幻想からの脱皮を描いたものでもあったと思うので、そちらに重点を置いて感想書いてみました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
少女は空想の繭の中でのみ自我を保つことができる、たとえ繭の外がどのような状況となっていようと、空想に守られている錯覚は少女の自立しない精神を生かす。
戦争という特異な状況下で、主体となって描かれているのは少女たちの姿である。流行の葉書の絵柄を嬉々として選び、未だ未経験の逢引の期待に胸を躍らせ、未来を信じて戦場からの呼び声に応じる。少女を導く大人たちの姿は最小限にとどめられ、男性に至っては(作者の後書きでも触れられていたが)物語の最後に至るまでその形すら明確に描写されない。少女にとっては鮮烈を極める戦いの矢面に立っている男性、自分がふれたこともない異性はいまだ未経験、包まった繭の外側の存在なのである。
自分を守ってくれていた繭が剥がれたその時、少女は知る。夢を見続ける微睡は終わり、自分は何をしなければならないか選ぶ時が来たと。
殊更に抽象的に思えた絵柄や話の進め方がその裏に潜められた不条理や残酷性を「想像すること」により助長させようとしていると感じた。
「戦争」を扱った作品の中であるのにどこか夢見がち、夢見心地な読了感すらあるのは、少女視点で眺めていたからかもしれない。 -
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2022/07/27
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今日マチ子の戦争漫画『cocoon』が2025年夏にNHKでアニメ化。プロデューサーは元ジブリ・舘野仁美 | CINRA
https://...今日マチ子の戦争漫画『cocoon』が2025年夏にNHKでアニメ化。プロデューサーは元ジブリ・舘野仁美 | CINRA
https://www.cinra.net/article/202306-whn-cocoon_edteam2023/06/29
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漫画で沖縄戦を描いているが、このタッチの漫画での残酷シーンは酷いよ。
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どうやら戦争中らしい南の島でキャアキャアと笑いながら戦闘にそなえる女子学生たち。沖縄のひめゆり部隊のようでもあるけれど、細くて透明な画線や、時折混じる現代的表現のせいもあり、それにしてはどこか非現実感が漂っていて、まるでSF映画のようだ。
と思っているうちに、彼女たちはいつのまにかどんどん本物のひめゆり部隊のように戦争に巻き込まれて残酷な形で命を落としていく。どこか非現実的な感触を残したままで。
作者によれば、これは現代を生きる少女が、昔の戦争のお話を読んで見る夢なのだという。あるいは、いつか戦争で死んでいくことになるかつての少女が見る夢なのかもしれない。巻末におさめられた印象的なサイドストーリーのように、少女たちの見る夢と現実、過去と未来は、いつどんな形で反転しつながるかわからないのだから。
リアリティに欠けた奇妙な夢のような世界。しかしそれは、現在の平和のすぐ裏にある恐怖を指ししめして奇妙なリアリティに満ちている。 -
今日マチコさんの文章にはあまり触れたことがなかったので、あとがきがけっこう印象に残ってたりする。自分はこう思った、一方作者はこんなことを思っていた。という比較の機会はなかなかなくて。
沖縄戦を下敷きに描かれる今日マチコの世界。戦争は残酷で、それでも人は深くて強い。 -
今日マチ子の存在は知らなかった。サイゾー誌上で、絶賛気味で本書が紹介されていた。ブログ「今日マチ子のセンネン画報」を見てみる。1ページの超短編マンガで、叙情的に少女の心象風景が表現されていた。
「COCOON(コクーン)」の舞台は、太平洋戦争末期の沖縄戦。ひめゆり部隊に所属する少女の視点から戦争が描写される。「センネン画報」は、平和な現代日本の少女の心象を描いていた。「COCOON」は激戦地。同級生の女の子が敵の爆撃で次々死んでいく極限状況だ。
作品タイトルにもなっているコクーン、繭は、90年代以降のサブカルを語る上で欠かせないキーワードだ。「エヴァンゲリオン」のコクピットは、思春期の少年少女を包む繭の形をしていたし、「ファイナルファンタジーXIII」の世界も、コクーンと呼ばれていた。現実の社会がいじめや、就職難や、正社員以外の労働者差別に満ちていても、温かい繭に包み込まれていれば、生きていける。繭として比喩的に表現されているものが、アニメ、マンガ、ゲームなどが提供する想像力だとすれば、大人になっても繭に包まれたままでいいのか、繭を突き破る必要はないのかという問題が出てくる。当作品でも、繭の比喩が巧みに使用されている。
(爆撃で多くの少女たちが死んだ後の主人公サンの独白)
「わたしが蚕だったら――こんな世界には出てこないだろう。ずっと安全な繭の中にいるだろう。空想の繭の中で死んでいくだろう。だけど本当は――みんな死にたくなんてなかった」(pp.24-26)
「想像してみて。自分たちは雪空のような繭に守られていると」(p.46)
「……蚕は手榴弾なんか使わないんだ。自分で繭を破るんだ。サン、死ぬのは負けだ。繭を破ってふ化するんだ。絶対に学校に戻るために」(p.168)
「わたしたちは想像の繭に守られている。誰もこの繭を壊すことはできない」(pp.188-189)
作者の今日マチ子自身は、後書きでこう記している。
「着想のきっかけになった沖縄のひめゆり部隊のお話をきき、じぶんが同じくらいの年齢で、そんな日常がはじまったらどうするか想像しました。残酷な現実や、大きすぎる敵に対して戦う方法があるとしたら、それはじぶんたちの甘やかな想像力かもしれません。砂糖で鉄は錆びるのか。蚕が、想像の糸をはきだし、つむぎながら、繭をつくってじぶんを守り、やがて繭を破って飛べない羽を得ることをモチーフに、サンとマユのふたりを描きました」(p.208)
「コクーン」では、戦争が終わったら、繭も不要になった。けれど、平和なはずの現代社会では、今でも繭が必要とされている。 -
戦争漫画の傑作。ひめゆりの乙女たちがモチーフの作品。
読むのは辛いが、できるだけ多くの人に手に取ってほしいと思った。
淡白な絵柄がストーリーの重さをより印象的にする。
かなり残酷なシーンが続くが、嫌らしいグロさはなく、ただその事実の悲しさ・辛さに圧倒される。
今私がここにいて、彼女らがそこにいたことは、偶然以外のなにものでもない。
自分の家族にはこんな思いは絶対させたくない。 -
少女の夢、想像力の繭の内側から見た戦争。兵士は顔のない白い影法師として描かれる。
あえてリアルな描写を避けた手法は戦争を知らない世代の限界でもあり戦略でもあると思う。単に戦争モノの迫力で勝負するなら、水木しげるの戦争漫画やひめゆりの証言映画にはかなわないわけで。そこは体験の重さというのが絶対的にある。
しかし、「少女のエゴ」「砂糖で鉄は錆びるのか」という切り口で伝えるのは、今のこの作家だから出来ることかも知れない。
私が一番ぐっと来たのは実はあとがきの文章で、最後の一文にやられました。この人の叙情性は言葉のセンスにあると思う。まずは自分と同い年の作者がこのテーマで描くことにした覚悟に敬意を表したいと思います。