茶色の朝

  • 大月書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (47ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784272600472

感想・レビュー・書評

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  • ホロコーストを生き延び、戦後ナチ戦犯を追い続けたサイモン・ウィーゼンタールがこんなことを言っている。「ナチスはいきなり現れたわけではない。ゆっくりと現れ、気づいたときには手遅れになっていたのだ」。そしてまたこんなことも。「今、同僚がいわれのない中傷を受けているのを見て見ぬふりをしている者は、あの頃、ユダヤ人の受難を見て見ぬふりをしていた者となんら変わることはない」。
    「見てきた人」が言うのだから、確かだ。

    この本が書かれたのは1998年。フランスで、排外主義を唱える極右政党が支持を広げ出したのに異議を唱えるためだったとのこと。大昔の話ではないのだ。
    そしてまた、ひとごとでもない。

    10分あれば読める。

  • フランスの首相選挙に影響を与えたとする本書。日本にはあまり馴染みがないのですが、茶色はナチス、全体主義を象徴する色らしい。
    人間の怠惰と、物事を都合良く解釈して思考を停滞させる様が上手く描かれています。
    マルティン ニーメラーの詩。

  • 淡々と語られる状況の変化を追うにつれて、心が揺さぶられる。今まさに自分自身が何か似たような社会の中で追い込まれているのではなかろうかと。

  • すべてが茶色になる社会の話。
    でも考えてみると私たちの社会はこれと同じような状況なのかもしれないと思い、ぞっとしました。

  • 何が間違ってるのか、自分でも気が付かずに周りに流される。
    気付いているのに楽な方へ逃げていく。


    思考停止をやめること。
    考え続けること。
    それが私たちに大切なこと。

    考えさせられる一冊

  • 友人からの紹介で読んだ。フランスで極右が台頭してきた時代に書かれた本だそう。社会体制の変化と言うのはある日突然起こるものではない、と言うことはナチスドイツの例を挙げてよく言われる。ほんのちょっとの違和感、ほんのちょっとの疑問からはじまり、でも、生活に大きな変化はないからね、普段の生活も忙しいし、ほかに考えなくちゃいけないこともあるし、と言っている間に取り返しのつかないことになる。それは物語ではなくて、日本でもドイツでもそのほかの国でも実際に過去にあったことであるし、現在も起きうること。何が一番まずいかと言えば、自分の脳みそで考えないことで、思考停止してしまうことだ。確かに、たとえ今まさに患者に大きな影響を与えているわけでなかったとしても、小さな違和感や疑問にきちんと対応しておくことは、思わぬ見落としを防ぐためにとても大事なことである。一人の人を診るときだけでなく、人の集まりとしての社会を見つめるときにも、その小さな違和感や疑問を見落とさない、あるいは何も起きていないに近いからと言って思考停止しないという態度が、同じように大事なのかもしれない。
    とても薄い本です。あっという間に読めます。1000円に消費税ととてもお安くなっています。ぜひ読んでみていただければと思います。なお、私に直接ご連絡を頂ければ先着10名様でお分けいたします。

  • あらすじ。

    俺、と、シャルリーはビストロでのんびりコーヒーを飲みながら喋る友人どうし。
    彼らはそれぞれ、猫か犬を飼っている。
    しかしある日、彼らは自分の飼っているペットを安楽死させる。

    なぜなら、政府が「茶色い犬、または猫、でなければ飼ってはいけない」と決めたから。
    茶色い犬や猫は素晴らしい。こんなにいい点がある。
    そう言われて、彼らはなんだかすっきりしないけれど、政府がそういうなら……と、安楽死させる。

    次に、政府の「茶色以外を禁じる」法律を批判していた新聞が発禁になる。
    彼らは、仕方ないので、唯一許された「茶色新報」を読むようになる。
    廃刊になった新聞社関連の本が、本屋や図書館から強制撤去される。
    彼らは、言葉や単語に「茶色の」とつけて、話すようになる。
    そして、政府に許された「茶色い」犬や猫を飼う。

    ある日、シャルリーが逮捕される。
    なぜなら、彼は、かつて茶色くない犬を飼っていたから。
    それは、国家反逆罪だから。

    「俺」は、シャルリーが捕まったと知って、眠れなくなる。
    でも、と、自分に言い訳をする。

    本当はあの時、抵抗すべきだった。
    でもどうやって?
    政府の動きはすばやかったし、仕事があるし、毎日忙しいし、ごたごたはごめんだし……

    そして、眠れないでいる彼の家のドアがノックされる。
    まだ、陽も昇っていない。
    彼は思う。

    そんなに強くたたくのはやめてくれ。
    いま行くから。





    茶色、というのはナチス党の初期の制服が茶色のシャツだったので、フランスの人にとっては、ナチスを連想させる色だそうです。
    それは知らなかったけれど、この本を初めて読んだときに、この詩を思い出しました。

    wikiから引用。
    『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

    日本語訳[編集]彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
    (ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)
    私は共産主義者ではなかったから

    社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
    私は社会民主主義ではなかったから

    彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
    私は労働組合員ではなかったから

    ////////////////////////////////////////////////////
    彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった
    私はユダヤ人などではなかったから
    ////////////////////////////////////////////////////

    そして、彼らが私を攻撃したとき
    私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


    『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』は、ドイツのルター派牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラーによる詩。



    ナチス党は、正当な選挙を経て、独裁政権を築きました。
    第一次世界大戦で負けたドイツは隣にソ連が誕生したり、賠償金などで貧乏になり、超インフレも起き、国民は考えることがうまく出来なくなっていき、不安になり、自分たちを導くつよい指導者を求めました。
    ヒトラーは、この波に乗って、台頭しました。


    この本のメッセージで、これは自分のことだ、と思った箇所を引用。
    p45
    「では、どうすればいいのか」と言われるかもしれません。
     現状の危険性を訴える議論にたいして、「現状はわかった。では、具体的にどうすればいいのか教えてほしい」という反応が返ってkるうことはよくありますが、そんなとき、私はいつも一抹の懸念を覚えます。仕事の性格も、生活の場所も、社会的責任の大きさもみなそれぞれ違う人びとに、それぞれが「どうすればいいか」を具体的に支持することは困難だ、というだけではありません。自分が「具体的にどうすればいいか」は、あくまで自分自身が考え、決定すべきことがらです。それさえも他者から指示してもらおうというのは、そこに、国や「お上」の方針に従うことをよしとするのと同型のメンタリティがあるのではないか、と感じられてならないのです。

    …略…

     「茶色の朝」を迎えたくなければ、まず最初に私たちがなすべきこと――それはなにかと問われれば、”思考停止をやめること”(””内、本文では傍点)だと私なら考えます。なぜなら、私たち「ふつうの人びと」にとっての最大の問題は、これまで十分に見てきたとおり、社会のなかにファシズムや全体主義につうじる現象が現れたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらを”やり過ごしてしまう”ことにあるからです、
     やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、”それ以上考えないようにする”こと、つまりは思考を停止してしまうことにほかなりません。「茶色の朝」を迎えたくなければ、なによりもまずそれをやめること、つまり、自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考えつづけることが必要なのです。
     思考停止をやめること、考えつづけること。このことは、じつは、意識を眠らされてでもいないかぎり、仕事や生活や社会的責任の違いを超えて、私たちのだれにとっても可能なことです。そして、勇気をもって発言し、行動することは、考えつづけることのうえにたってのみ可能なのです。」




    作中で、彼は、「いま行くから」と、ノックされたドアに向かいます。
    自分がどうなるか、薄々わかっているだろうに。


    権力者の思想、発言弾圧は、始皇帝の焚書坑儒が最初なのかしら。と、もっと古い物があるのでは、と思うくらい、権力者は国民をいいように操りたいわけです。
    知識を与えたくないわけです。
    焚書坑儒は、儒教に従うものたちを生き埋めにし、書物を焼いた事件です。
    書物は、知識や考えを伝える手段です。
    近い時代のフィクションならブラッドベリの「華氏451度」でもいいです。
    少し昔なら、日本の「治安維持法」の成立過程だっていいです。
    治安維持法が国家総動員法につながっていったのは、祖父母、曽祖父母の代。そんな近い時代です。


    怖いな、と思います。
    怖いなと思うこの本を、怖いと思わない人がいるだろうと聞いたことも、怖いです。

  • 2013.8.14読み終わり。国家権力が暴走したときの恐ろしさ、現実にあった歴史、今我々の身にも起きる可能性のある未来。短い文章でしたが、たくさんのことを想像させられました。国家権力についてのことがメインとされた話のようですが、私たちの職場や周囲との付き合い方などどこにでもある「ある一つの価値観」が広がっていくことが、良い場合と悪い場合があり、しっかりと見極めていく能力が大切なのだと思わされます。

  • 短い話だったので、何度も読んだ。
    そして、うーんうーんうーん。
    何度もうなった。
    そうだよね、このままじゃだめだよね、と思いつつ、でもそうだよね、面倒なものに巻き込まれたくないし、放っておいてほしいしって思うし、
    で、だったらどうしたらいいわけ?と、すぐ答えを求めてしまう自分がいて、それらすべて、メッセージに載っていてなんだか恥ずかしくなった。
    すぐ答えを知ろうとするのをやめようとしている。そして考えようとはしているのだ。と、言い訳をしているみたいで嫌だけど、有能な動物だもの、頭を使わなきゃと思うから。けれど、世の中のことは無関心でいるので、少しずつ自分の意見をもち、身近なところから発信して発言の練習をしていこうと思った。

  • 「思考停止をやめること。考え続けること。」

    コーヒーをゆっくり味わい、時の流れに身をゆだねておけば良い、平和な国。主人公とシャーリーの日常生活は、最後に破局を向かえるまでは、大きな破綻も無く続いて行きます。
    仕事があるし・・・
    他にやりたいことがあるし・・・
    今まで通りの生活ができているし・・・
    そんな風に「違和感、疑問、妙な感じ」を、感じてはいても受け流してしまう「ふつーの人」のふつーな行動が、気がつくと全体主義やファシズムの成立を呼ぶ事があるよ、というメッセージの強い本。
    (主に寄せ書きより)

    この本はフランスで98年頃に極右政党が勢いを増した時に筆者の意思表示として出版。少しでも多くの人にと、印税を放棄し1ユーロで販売したそう。その後02年に極右のルペン候補とシラク大統領の大統領選決選投票にて再注目をされ、反極右の盛り上がりに寄与。筆者はベストセラー作家の仲間入りをしたそう。
    すごい。この本が日本では千円なのはちょっと引っかかったりしたりらなかったり。

    日本や組織ならもっと小さいものでも、そんな事は多かれ少なかれある。10分で読める素敵な本。

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