- Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309413051
感想・レビュー・書評
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口語訳にすることによって、遠野に生きる人々の息吹が感じられる。
そして身近な物語になり、山の暮らしの自然に対する畏怖、人智を超えたものに対する敬虔な気持ちなどが生々しく伝わってくる。
柳田國男オリジナルの遠野物語はしっかりとまだ読んでないが、文語調の格調高い文章を味わいたいと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
学生時代に民俗学の講義を受けてからというもの、遠野物語や、各地に纏わる伝奇伝承を調べています。
こういった民俗学のはしりとなったのが、この遠野物語です。
もっといえば...
子供の頃に「あこには行ってはいけないよ」とか「何時から何時のうちは、家から出てはいけないよ」とか、子供の頃親等から言われたことのない人は、いないと思います。
そういった感じのものを集めたものがこの本です。
何故そう言われるようになったのか、自分の地元のこと少し調べてみると、楽しいかもしれませんね。
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岩手版日本昔ばなし!
遠野郷に住む佐々木某さんから聞いたすべて現実の話とのこと。天狗、山男、山姥、雪女、河童、座敷わらし・・・とはいえ、同じ名前の登場人物(弥之助とか孫左衛門とか田尻家とか)がいて、新聞にも載った話もあり、あながち眉唾でもないのか。多少デフォルメされた箇所もあるが。とにかく口語体なので読みやすかった。
でも、郭公と時鳥の話は苦しいな。。
254冊目読了。
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初めて読んだのがいつだったか思い出せない再読。怪異に転換することでしか気持ちを整理できない過酷な事件が、昔はたくさんあったのだ。
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この話をした岩手の某という人には、何が見えていたのだろう。それが気になる。
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友達から贈ってもらった本です。
デジタルでハイテクノロジーで、事実に基づいた正確な(もしくは正確にみえる)情報が、常識の大部分を占めている今では、全く考えられないような奇譚が詰まっていました。とっても面白かった…!
山男・山女にしろ天狗や化けぎつねにしろ、人間ではない何かがこの世にいたとしか思えない物語ばかりだったけれど、今も遠野にいけば会えたりするのかな。
実際に相対するのは怖いけれど、理屈じゃ片付かない現象と共に生きる世界は、孤独ではないじゃないかなぁと思ったり。
成人年齢もそれなりに過ぎた今読むと、非現実的で幻想的なお話のようにも感じましたが、小学校のころなんかはこんな不思議な現象がもっと自分の身近にあったことを思い出しました。
彼等は今どこで何をしてるんだろう…
アイヌの伝承とも関連が深いようで、北国に俄然興味が湧きました。京極夏彦さんバージョンの遠野物語も気になってます。
また東北地方に遊びに行く前に再読したいです。 -
本書は、民俗学者・柳田国男が発表した『遠野物語』を、岩手県遠野に生まれ、遠野市内の小学校校長を務めた佐藤誠輔(1928年~)氏が口語訳したものである。1992年に初版、2013年に改訂新版が出版され、2014年文庫化された。
柳田国男(1875~1962年)は、兵庫県に生まれ、東京帝大卒業後、農務官僚、貴族院書記官長等を務める傍ら、全国各地を訪れて民俗調査を行い、日本民俗学の祖と称される。
『遠野物語』は、遠野地方の民話蒐集家・小説家であった佐々木喜善により語られた遠野地方に伝わる逸話・伝承を、柳田が筆記・編纂し、1910年(明治43年)に発表されたもので、日本の民俗学の先駆けとも称される作品。その中には、ザシキワラシ、河童、神隠し、姥捨てなど、現代の我々もしばしば口にするキャラクターや事象が登場し、また、神への畏怖と感謝、祖霊への思いなどが通底しており、日本人の死生観や自然観が凝縮されていると言われる。
私は以前より、本作品を一度は読んでみたいと思いつつ、原本の文語体がハードルとなっていたのだが、今般たまたま口語訳の本書を見つけ、通読することができた。尚、本作品はその文語体に趣があると一般に言われるが、民俗学者・赤坂憲雄氏は解説で、「『遠野物語』の文体はいかにも特異なものだ。それは、柳田が周到な文体研究の果てにつくりあげた、いくらか奇妙な文語体であった。」、「『遠野物語』の文体は、遠野の語りの世界からはまるで隔絶したものであった」、「佐々木喜善によるいかにも訥々とした、遠野方言の語りをひとたび脱色し、消去したうえで選ばれた柳田の文体」と書いているのは、ある意味興味深く、また、会話文のみ遠野方言で表し、そのほかは口語訳した本書に、新たな価値を与えていると言えるのかもしれない。
いずれにしても、「日本人の死生観・自然観が凝縮されている」作品を知る上で、手に取り易い良書といえるだろう。
(2021年3月了) -
[一言感想]
東北山中で体験した人と自然との間に起きる少し不思議なお話
民俗学の祖である"柳田國男"先生が東北遠野の言い伝えを"佐々木喜好"くんから口伝したものを編纂・現代語訳した一冊
今となっては考えられないと一言で片付けるのは簡単であるけれども、この本の魅力はそこでは無いように感じる
当時の人たちが自然に対して恐れながらも敬意を持って接してきたことが分かるだけでなく、村の人が体験した不思議な話を自然を介して説明している想像力が垣間見える、現代の日本人が離れつつある自然との距離を近づかせてくれるような一冊であると思う -
【概略】
自費出版で350部、1910年に柳田国男によって生まれ出た「遠野物語」が、文語体から口語体に、大意をそこなわずに再構成された一冊。遠野方言であらわされ、充実した注釈によって読者を迷子にさせない。
2024年04月24日 読了
【概略】
トルコでの活動のうち、日本のホラーについて語る必要があったため、妖怪・幽霊といった類の書籍を読み漁ることに。避けて通れないよね柳田国男さんは・・・と思い、購入したのが文語体のもの。ちょ、ちょ、ちょっと厳しいなぁ・・・と思い、この文語体に翻訳(?)されたものをまず先に手にとってみた。
ぶっちゃけ、口語体になった本書でも・・・なんというか・・・どういうフックを作って面白く読み進めることができるのか迷い迷いページを進めていったような感じ。明確なのだよね原因は。読者としてのバックボーンがいかんともしがたく・・・薄いの(笑)大体、民俗学の「み」の字すらかじってないからね。注釈で補完される500メートルぐらい手前にいるような感じ。
そうはいってもザシキワラシやオシラサマや河童という耳慣れた言葉が出てくると嬉しくなっちゃう。この辺りは水木しげるさんや「うしおととら」から入った、やはり民俗学の核からは離れた(というより抽出されたエキスだよね)ものなのだよね。
でもね、なんとなく思った。妖(あやかし)という言い方をしてもいいのかな?妖怪といった部類でいいのかな?こちらはやっぱり幽霊とは、違うね。よく言われる「怖ろしいのはね、人間なんだよ」の延長線上にあるのが幽霊だとするならば、遠野物語や水木しげるさんが描く妖は、(そりゃ神隠しとかあるけれど)なんというか「業」を背負ってない気がする。人の念から怨念になって俗世に残ってる感がないもの。なんというかもっと・・・自然から溢れ出たものというか。なんなら自然そのものというか。植物・動物といったものが織りなす自然というものに延長線をひいたら妖・妖怪に辿り着いて、人間に延長線をひいたら幽霊に辿り着いた、という印象だな。もっとも、もっともっと知識を増やしたらこの考えは変わるかもしれないけども。