ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)
- 光文社 (2011年8月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334036386
作品紹介・あらすじ
「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「ペルソナ」などのテレビゲームから、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズなどのテレビヒーローもの、「ガンダム」「エヴァンゲリオン」「魔法使いサリー」などのアニメ、「ベルサイユのばら」「綿の国星」「ホットロード」などのマンガ、そして著者が専門の児童文学まで、あらゆるジャンルの「子どもの物語」を串刺しにして読み解く試み。そこから見えてきた、「子どもの物語」の大きな変化とは-。
感想・レビュー・書評
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借りたもの。
児童文学からサブカルチャーにおいて、「子供の成長」を描かなくなった理由を、時系列からその変容を解説。
ゲーム、アニメ、特撮の中で善悪二元論の矛盾とそれ故に多様になるスタイルの変容が様々な有名タイトルを例に上げ、丁寧かつ簡潔に書かれる。
教訓や成長譚からアイデンティティの話へとシフトしてゆく過程を紹介。
それはマスメディアの発達により、大人と子供の情報量格差が無くなったことを指摘。
子供向け番組と言えど、作っているのは大人であること、“子供”が何故“大人”にならなければならないかを説明できなくなっている事や、“子供”が目指す理想の“大人”の不在、社会的な世相の反映も含めて、その世代の子供が何に衝撃を受けたのかまで明文化している。
短絡的に「子供の成長」という主題が古臭くなったという意味ではないのだろう。
近代化して中産階級が増え、生活にゆとりが生まれた人々は、安価な労働力だった“子供”を大人とは違う、慈しみ育てるものと解釈した。
それが今また、変容しようとしているのかも知れない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
テレビゲーム、テレビヒーロー、アニメ(男の子編)、アニメ(女の子編)、世界名作劇場、マンガ、児童文学、そしてまとめにあたる章という構成。
まずそれらの歴史や変遷、意義に、よくこれだけ丁寧に寄り添っているな、ということに驚く。
このように時系列で並べて分析して見せられると、子どもの(或いは親の)立場で、ただ面白おかしく見たり体験したりしていただけのそれらに、こんな意味や意図があったのか、と気付かされる。
歌は世につれ…などというけれど、子どもをとりまくゲームやアニメも世につれ、世はそれらにつれて変遷してきたということである。
中でも、世界名作劇場の「若草物語」が単身赴任の増加とリンクしていることや、離婚率の上昇と家族関係の複雑化が、孤児や孤児的な物語の供給に影響していること、などは、なるほど、と思わされる。
そして「子どもたちは大人に反抗しているわけではなく、さりとて大人を尊敬しているわけでもなく、かといって軽蔑しているわけでもありません。」「相手が大人というカテゴリーに属すること、自分が子どもというカテゴリーに置かれていることは知っていますが、それは人間が辿る歳月、ひと連なりの人生としてとらえられているのではなく切断されています。」と言う。
著者はそのことについては、否定的ではないようだけれど、私はマズいんじゃないの!!と思う。大いに思う。
なぜなら、その先にある「成熟した大人、成熟しない大人、大人にならないままの大人、大人を放棄した人。そうした様々な道筋」は、一見いろいろな生き様があっていいように見えて、実は大きな正義や価値観を提示しない、善と悪の境目の薄らいだ、ぼんやりととりとめのない社会のように、私には思えるからである。
葛藤や苦難を超えて成熟した末に、いろいろな生き様を認め合った
豊かな社会というのではなく、ただ薄ぼんやりと過ごす、大人になれない(ならない?)80年があるだけなのではないか、という気がして。
なんだか少し寒々しい気がする。 -
この本を読んでいるあいだにいろいろな本を読まざるおえなくなったので、時間がかかってしまった。
面白い本です。ひこ・田中さんが語る“子ども”の心理というか、子どもの心に映る世界にいちいち共感しながら読んでしまった。
ここに書かれている“子どもの物語”は多様なものであり、性差も存在しているが、俯瞰して流れている子どもが見つめる“大人の世界”へのまなざしは、今でも自分の中に眠っていたのを思い起こさせてくれた。
素晴らしい。
以下、“子どもの物語”の存在を語る部分一部抜粋”しました。
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自然の驚異や不可思議を、神という人間に模した存在に仕立てて説明したり(ポセイドン・アトラス・天照大神)、集団の中で何らかの影響力を持つことになった人物や出来事の正統性を示すために事実を脚色したり(アーサー王、ロビン・フッド)、共同体の秩序を伝達する教訓(赤ずきん)や、その秩序によって生じるストレスのガス抜き(桃太郎。外部に仮想敵を設定し、英雄がそれを滅ぼして宝を持ち帰る)のために語られます。
ですから、それらの物語は共同体を外敵から守り安定して保つといった役割を担っている大人にこそ必要なもので、子どもは大人の横でそれを聞かせてもらっていただけと考える方が自然です。そのため、子どもにはわからない部分(大人だからわかる部分)が多々あったはずです。仕方なく子どもはその物語から骨格と理解可能部分だけを聞き取って、自分たちなりに辻褄を合わせたり、合わせられなくとも気にせずにそれを楽しんだりする術を身につけたでしょう。
その後、科学の発達や技術の進歩に伴って理屈で理解できる事物が増え、書物の普及によって知識や秩序の伝達が容易かつ簡易になってくると、そうした口承伝達は、大人の共同体を保持するための情報ツールとしての価値を次第に失っていきます。神話はもう現実を語るには不適だと思われてしまったのです。その判断が百パーセント正しかったと現在の私たちは思わないはずですが、価値の転換時にはこうしたことが起こってしまいます。
とはいえ、それはものと違ってゴミ箱に捨てたり燃やしたりできるわけではありませんし、捨て去ってしまうにはあまりに魅力的な物語であるには違いないので、新しい消費者として選ばれたのが、大人の横で興味津々に聞いていた子どもたちです。それらは大人の情報ツールから子どものおもちゃに変わり、長い間子ども部屋に忘れ去られていたのです。
………時代の流れは、子どもに厳しくから子どもに優しくへと変わっていくわけですが、それは同時に子どもが、大人の子ども観によって、より縛られていく過程でもあります。社会の中にある厳しさや不条理な現実は隠蔽され、子どもは子ども時代の安全を保障され代わりに囲われ、監視されていきます。
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子どもから大人へと言う「成長神話」なき時代が来ていることをあぶり出した労作。
主に日本の子どもたちをめぐる主要なメディアを通して、近代とその後に肉薄している。自分の周りの現象のいくつかに合点がいった。
私は40代男性。いかに自分が成長神話ある時代に育ったかを自覚した。状況がどんなに困難なものであっても、成長を信じて疑うことは無かったのである。
・何者かに名前を与える行為は、それにアイデンティティを持たせる第一歩であり、その責任を任される。(DQ)
・なぜ女子用メディアが後付けになるかは現場の作り手の多くが男だったから。
・彼女たちは戦うだけではなく、自分たちの夢や悩みを実によく語り合う。答えは出なくても、考え続けること。一番大切なのはそのことですから、戦う動機ははっきりしている。世界のためではなく、自分のために。
・この時代、『赤毛のアン』が生き残っていたのも日本だけ。
・子ども向けの新しいメディアや物語は、その正体を大人がつかめない(おもしろさがわからない)ため、恐れから否定的に評価されることが多い。
・アンケート人気至上主義は、作者が終わりを想定できない事態、その主導権を子どもが握ることができる可能性を読者に強く印象づけた。
・王と教皇から、近代は個と個=競争社会を招いた。職人から藝術家へ。誕生日や結婚記念日が大切な日になり、日記を書くようになったのも近代。「私」が誰なのかを示すことが重要なのだ。
・「子どもにはもっと夢を持たせたい!」は子どもの夢ではなく、子どもに託した大人の夢。
・経済力は違いがあるが、情報量は差異が減ってきているのがいま。
・成熟した大人、成熟しない大人、大人にならないままの大人、大人を放棄した人。そうした様々な道筋が、子どもが育とうとする先に見える社会こそ、本当の近代社会だと考えていいのではないか?今はポストモダンなどではなく、モダンはようやくその面立ちを見せつつあるのでは? -
う~ん・・・サブタイトルにある「なぜ成長を描かなくなったのか?」の明快な結論が得られず、☆2つ。
子どもの物語の変遷を、児童文学、アニメ、漫画、ゲームなど、さまざまなメディアを通して考察した本書。
時代を経る中で、大人と子どもの差異が小さくなっているということはわかる気がします。
きっと数十年前には少年ジャンプを愛読する大人がいる、なんて想像もできなかったことでしょう。
物語の提供されるメディアの多様化が、物語そのものの変化につながったところが大きいように感じました。
電子書籍の普及も、提供される物語に何らかの変化をもたらしそうですね。
最終章に本書の全体が簡潔にまとめられているので、そこを読むだけでもよかったかも・・・。 -
「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「ペルソナ」などのテレビゲームから、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズなどのテレビヒーローもの、「ガンダム」「エヴァンゲリオン」「魔法使いサリー」などのアニメ、「ベルサイユのばら」「綿の国星」「ホットロード」などのマンガ、そして著者が専門の児童文学まで、あらゆるジャンルの「子どもの物語」を串刺しにして読み解く試み。そこから見えてきた、「子どもの物語」の大きな変化とは-。
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氏の著作は、単著としては初めて。自分が触れてきた作品に関しては、懐かしさもあってなかなかに楽しめる。ただ、過半数を占める未体験作品については、知識なしでも問題なし、とはとても言い難い。結局何が言いたいのか、ってのも伝わりづらい。総じてイマイチ。
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アムロ=レイや、碇シンジのモデルから、いかに脱却できるかが、自分自身の課題。
そのことに気がつくことができただけでも、一歩前進。