- Amazon.co.jp ・本 (369ページ)
- / ISBN・EAN: 9784336045010
感想・レビュー・書評
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PL 2014.7.20-2014.8.8
SFマガジン700号 オールタイムベスト海外長編部門1位
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最高!
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【選書者コメント】SF小説の金字塔新訳!
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とてつもなく大きい。自分の想像力を最大限に解き放ったとしても全く及ばない、大きな次元の一端をレムは壮大に描き示してくれる。ソラリスの海が変容し蠢く表情をイメージするのはとても難しいが、未知ゆえの大きな力に巻き込まれ漂う小さな欠片の自分を感じて畏怖した。怖いけど決して不快ではなかった。何のためにこの宇宙は存在し生命は宿るのか。どんなに考えても答えが見つからない残酷な道をこれからどう歩んで行けばいいのか。不分仕舞。けど‥ミステリアスでスリリングな物語の力に助けられて、この難解な化け物を慈しむ気持ちが芽生えた。
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スタニスワフ・レムの「ソラリス」である。
タルコフスキーの映画は何度も観ていて、その度に心地よく寝る。でも面白い。「退屈」と「面白い」というのが両立する不思議な映画だ。
面白い映画なのに寝ることをレム睡眠と言う。嘘です。
原作のハヤカワ文庫版「ソラリスの陽の下で」のほうは、どうせ小難しくって退屈なんでしょ、と長らく積読状態のまま、どっかにいってしまった。新訳が出た時に買ったものの、やっぱりそのまま…。今回、ディック、ティプトリーと読んだ勢いで手にとる。夏だし、海だし。
間違ってました。普通に面白いです。
解説によると、レムはタルコフスキーの映画は気に食わなかったようで「お前は馬鹿だ」と言い放ったとか、ソダーバーグの映画には、「私の書いたのは『宇宙空間の愛』じゃなくて『ソラリス』なんだよ!」(要約)とかなりご立腹。
でも、作者がなんと言おうとこれは「愛」の物語でしょう。
ソラリスステーションにやってきたケルヴィンの目の前に現れる10年前に自殺した妻ハリー(しかも不死身)。
過去の妻ではないとわかっているからこそ、愛している、という主人公。
そして、自分が偽物だと気づき悩むハリー。
「自分は本物なのか?」というディックでおなじみのテーマをまったく違ったロマンチックに見せてくれる。
手紙の署名を一旦書いて塗りつぶすところなんてもう切ない。
この二人の恋愛が「絶対的他者」とのコミュニケーションのメタファー……じゃないな。
「人間形態主義」「人間中心主義」として批判されるが、そこからはみ出して理解することはできない(認識することはできても)。そこからはみ出すと「神秘主義」「宗教」になる。あ、だから「欠陥を持った神」の概念か?
そういえば、タルコフスキーの映画化している「ストーカー」の原作も、絶対的他者としての異星人とのファースト・コンタクトものだった。
あと、ふと思ったのは、怪談「牡丹灯籠」。 -
誰にでも何かに夢中になる時期というものがあるように本ばかりを読んでいた時期が自分にもある。ただ、好きな作家が偏っていて、東欧系のSFはあまり読んだことがなかった。それでも『ソラリスの陽のもとに』という旧訳名はよく知っていた。それだけ有名だったということだ。二度も映画化されていることから見てもSF界におけるこの作品の人気がよく分かる。
今度あらためた訳された『ソラリス』は、社会主義政権下で検閲を受け、余儀なく削除された部分を復元したポーランド語原本からの完訳版である。初版が発表されたのは1961年だから約半世紀前の作品ということになるが、今度はじめて読んで思ったのは古典的SFの風格を感じこそすれ少しも古さを感じないということだ。ソラリス学の架空文献の列挙をはじめ、「海」が見せる形態模倣のリアリスティックな描写と見所は多い。
ストーリー自体は複雑なものではない。地球から遠く離れた惑星ソラリスに派遣された心理学者クリスは、宇宙ステーション内の荒んだ様子に驚く。どうやらステーション内には人間以外の何者かがいるらしい。やがて、自分もその存在に出会うことになるが、意外なことにそれは十年も前に死んだはずの恋人ハリーだった…。
その星のほとんどを海が占める惑星ソラリスでは、海から生物が発生するのではなく、海そのものが高度の知的生命体となっていた。その海が知的活動を行うことは海が見せる模倣活動によって知ることができる。「海」は人間の脳の中に残る強い意識の残存物を手がかりに、庭園であれ人間であれ、何でもその姿を模倣するのである。
科学者たちは様々な実験を繰り返し「海」とのコンタクトを図ろうとしてきたのだが、進展は望めず、最近では計画の見直しを図る声が出始めていた。ステーションで実験を続けていたギバリャンはひそかに禁じられていたX線照射を行ったらしいことがメモに残されていた。「お客さん」はそれ以来ステーション内に出没するようになったらしい。
誰もが心の奥深くに沈めている忘れられない人の記憶。自分の脳内にあるその生体組織や心理傾向のデータが解析され、そのデータに基づいて造られた瓜二つの構成物があったとしたら、人はそれを愛することができるだろうか。そして忠実に再現されたその生命体が知力だけでなく意志や感情を持つとしたら、何度でも再現可能な自己という存在をどう受けとめるだろうか。ここにあるのは、人間とは何か、人を愛するということはどういうことかという根元的な問いかけである。
しかし、『ソラリス』が投げかける問いはそれだけではない。人間は神さえも自分の姿に似せて造型せざるを得ない性向を持っている。自分以外の知的生命体に対する接し方もそこから脱却できない。理解し合えればいいが、でなければ征服するかされるかのどちらかになる。コンタクトを望みながら、それが叶わないとX線照射を辞さない人類の姿に映し出されているのは、自分とはまったく異質の存在を認めることができないのが人間だという否定的な認識である。
旧ソ連時代、この作品が検閲を受けねばならなかった理由はそのあたりにあるのだろう。そしてまた、この作品が一向に古びないのは、米ソ冷戦も終わり、新時代を迎えながら、自分とはまったく異なる世界観を想像する力を持たず、それどころか根底から破壊してしまいかねない現在の人間世界の在り様からも窺えるのではないだろうか。
「それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ。」と、主人公の言葉を借りて作者が結んだのは1960年6月のことだった。 -
人間という存在を見つめなおすこと。
SFを読むことの、ひとつの醍醐味だ。
その点において『ソラリス』は第一級の作品だろう。
想像してみよう。宇宙人は、どんな姿をしているだろう。
タコ、アメーバ、ロボット、あるいは(これが最もありそうに思われるが)人間に似ているだろうか?彼らは何を考え、どんな言葉を話すだろう?人間に対して友好的だろうか、それとも敵対的?
こうして私たちの想像する宇宙人像は、どれも地球の、人間の価値観に基づいている。宇宙人は私たちと同じような姿をし、同じように考え、コミュニケーションし、(友好的にせよ敵対的にせよ)人間と何らかの「コンタクト」を行うだろう、と。私たちは無意識に自分と似たような宇宙「人」を仮定しているというわけだ。だが、彼らが人間の想像を遥かに超えた存在であったなら?
未知なるものとの「コンタクト」は、我々が考えるようなものではないかもしれない。そもそも「コンタクト」自体が可能かどうかも分からない。知的生命体が人間にとって理解可能な存在だという保証はどこにもないのだ。
この点に深く斬りこむのが、ソラリスの「海」の存在である。
未知との遭遇というテーマ自体はSF界では定番ともいえる題材だが、『ソラリス』はその切り口が一味も二味も違う。サイエンス・フィクション、いや、サイエンスそのものに対するメタ的な視点が斬新だ。科学とは「人間が」世界を把握する方法のひとつであり、それ以上でもそれ以下でもないということを思い起こさせる。
主題の示唆性もさることながら、作りこまれた世界観がこれまた素晴らしい。
作者レムはまるで見てきたかのように惑星ソラリスの世界を描き出す。読者は、赤と青ふたつの太陽に照らされる「海」の星を実際に訪れたような錯覚を味わうだろう。読んでいる間中、私の脳裏には焼きつくような鮮烈な色彩が映り続けていた。一度も目にしたことのないはずのソラリスの世界に、すっかり惹きこまれてしまった。
読み終わってページから顔を上げると、その瞬間、緑の木々の間をざあっと音を立てて風が吹き過ぎた。図書館の窓辺から見える夕日は懐かしいあの色だ。ただいま、私たちの地球。 -
2013年1月7日
面白いSFは哲学的か宗教的になりますね?。
しばらくして、また読んでみたい作品です。 -
地球から遠い惑星、ソラリスの研究調査を行う男性の話。
もちろん地球外生命体も登場するけど、そっちがメインというより、人間とは?みたいな哲学的話に感じた。
あと恋愛ものもちょっと入っていて、難しいだけの話にはなっていない。
映画版もちょっと観たいかも。
IT会社勤務なので、同僚にソラリスの話をすると、驚かれた。
ソラリスは古いOSの名前らしいです。
IT会社は商品に惑星の名前付けたり、写真付けたりするのほんとに好きだよね。未知の領域に踏み込むイメージがあるせいかも。