- Amazon.co.jp ・本 (444ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480094506
作品紹介・あらすじ
ドストエフスキーの文学は、いまなお私たちの魂を揺さぶってやまない。長大な作品の最初のページを開いた瞬間から我知らず引き込まれてゆくのはなぜか。「この本を出したのは、思想的な牽引力が私をドストエーフスキーに引き付けたからであった。思想的とは、人間の現実に直入して、その中核を把握する力強さについてのことである」。著者は『罪と罰』に罪悪感を、『悪霊』に絶望と死を、『カラマーゾフの兄弟』に自由と愛を、『白痴』に善を考察し、『死の家の記録』に「人間」を発見する。深い洞察に導かれた「読み」は、その作品世界を味わうための最良のガイドとなっている。
感想・レビュー・書評
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森有正 「ドストエフスキー覚書」
ドストエフスキー 論。著者は 邂逅(めぐり合い)という言葉から、ドストエフスキー作品を解明〜ドストエフスキーは、死と苦悩と絶望にある人間を直視してはいるが、邂逅により、罪悪を愛に、不合理を信仰に 転換させることで、愛を実現させている
ドストエフスキーの人間像から 罪や信仰との関係性、ヨブ記、大審問官を通した教会批判などへ展開し、ドストエフスキー論を体系づけしている。ドストエフスキー作品とヨブ記の関係性はとても面白い
ドストエフスキーの人間観
*ドストエフスキーは、人間を現実的相関者とみ、動かすことのできない現実、社会と自己と神と相触れることにより、そのあり方を転換する
*自己に閉鎖することが近代的人間の宿命(相手の存在を亡して自己の要求を貫徹する)
*人間は 倫理的責任のある主体でありながら、人間にはその責任を負うことのできない主体と規定し、救いが必要
*人間は自己の内面に深まりとともに、それが現実的に発展するには、外から人間に働きかける機縁が必要
*ただ生きてさえいけばいい〜存在そのものの根源性、価値はそのうえの付属品にすぎない
ドストエフスキーの罪悪観
*罪の本質は愛の欠乏であり、かれの自己不信に根ざす
*罪は現実としてあるもの〜重要なのは、それを回復すること
*貧困から起こる悪は罪ではない
*罪は愛と相関関係にたっている〜罪から愛への転換にこそ、人間の真の自由がある〜束縛のなかにありつつ、そのままで束縛を超える
罪と罰
*ラスコーリニコフの犯罪論が、ニヒリズムを克服せず、キリスト教的罪悪観を肯定することを暗示
*犯罪論を犯罪に発展させることにより、ラスコーリニコフの人間現実の中に、観念を実証的に検討
*無神論的な合理主義は、ニヒリズムの一形態であることを明示
*対立構造〜他人を犠牲にして、自己の要求を達成するラスコーリニコフと、自己を犠牲にして人を救おうとするソーニャ
信仰
*キリスト教の中心問題は、人間の罪を明らかにし、その罪からの救いを与えること
*キリスト教における罪は、神の意志に対して初めて成立する
*生命の統一であり調和ある高揚であって、美こそ最高の姿〜生命を感動させ、霊感により充たされるもの、そこに人生の最高の目的がある
大審問官
*大審問官はカトリック教会の化身
*大審問官のいう自由は、人間の生命への欲求、幸福になりたいという欲求〜キリストのいう自由とは異なる
*キリストは、人間を救うために、パンと奇蹟と権力を徹底的に斥けた
*自由とは、自己が自己から自由になること、他の人間を人間としてそのまま生かすこと
スタヴローギン=苦痛の人
自己のニヒリズムを超える十字架の教えと対決し、この対決に自己が耐えうるか試みている
ヨブ記〜人生における不合理、不公正の問題
*ヨブが苦難と疑惑を通って、神のへの信仰を全うしたことの意味は、人生の意義は自己を中心に計ることができないということ
*苦難そのもののなかに、人生の姿を直下に捉えるところに信仰が成立する〜信仰は自己の判断と意志から自由になること