- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480815118
作品紹介・あらすじ
あけてしまった玉手箱の中に、木挽町という町があって、そこに曾祖父が営む鮨屋があった。一代で消えた幻の店を探すうち、過去と現在がひとつになってゆく。日々の暮らしによぎる記憶と希望を綴った、著者初のエッセイ集。
感想・レビュー・書評
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吉田さんらしい流れで語られるエッセイ。
エッセイのような、物語のような、途中でエッセイである事を忘れて小説を読んでいるような気分になるスタイリッシュさ。私の中で少し謎だった吉田篤弘像が、少し理解できたような、でもやっぱり謎なような…。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
木挽町月光夜咄。
「咄」という字を使うところに、まず心震える。
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私は吉田篤弘が作家の中で一番すきなのだが、この本、まさに私にとって絶妙な読み時だった。
開始1頁目に「セルジュ・ゲンズブール」の髭の話がでてきて、誰だっけ?どんな髭だっけ?と画像検索すると、なんか見覚えがある。彼のほとんどの写真が、これまた見覚えのある美しい女性がいて、この女性、実は私が最近気になっている歌手、ジェーン・バーキン。そしてそうだ、彼はジェーンの元夫。
そして、向田邦子の話があって(吉田氏が向田邦子『父の詫び状』に影響を受けたことは知っていたが)、その話を読んだ後に美容室で出されて読んだ雑誌『リンネル』に邦子さんの妹・和子さんが載っていて、彼女の愛読書に吉田氏の『うかんむりの子ども』が挙げられていた。
まさに。
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2年、3年前に刊行された本だし、私がこんな経験をするなんて知る由もなく、吉田氏はセルジュ・ゲンズブールの髭や向田邦子『父の詫び状』のことを綴っているのだが、勝手にこの絶妙なタイミングで読んで勝手に運命みたいなもの(他にいい言葉が思いつかない)を感じてしまって、つまり、読むべくタイミングにこの本を読めたことを幸福に感じる。
あぁ、こういうのも、本を読む楽しみのひとつだよなと思った。 -
エッセイ、なんだね。
この人のエッセイは初めてじゃないだろうか?
過去、現在、未来が入り組む。
江戸も今もちょっと先も、みな等しい距離にあるような。
流行りの言葉を使っていないというだけで、安心出来る。だからと言って、古くさいというわけでもない。とても丁寧に言葉を操るので、時間がゆったりと流れていく。
私の好きな小説のタイトルが登場すると(「体の贈物」「オン・ザ・ロード」「原稿零枚日記」など)、や、奇遇ですな、と帽子をとって挨拶したくなる。
確かに音吉さんは、そこにいて、「ぴしゃりとばかりに店の戸を」閉めた、と思うよ。 -
Webちくま連載時から待っていた書籍化。
常に手元に置いておきたい本。
「自分をリマスターする」と決意するところから始まるこのエッセイを読んでいると、自動的ににこにこ(時ににやにやし、ぐふふと笑い出し、白い目で見られる始末)してしまう。
いろんな思い付きに一々「読みたい!」と反応している自分がいた。
あぁ…、なんて幸せ。
そして3月11日の地震以降の文章には、それまでとはちょっと違う共感を覚えた。
あの時感じていた焦りと不安が書かれている。
この東京に私も確かにいたと感じる。
何故か泣きそうになりながら、私も歩く自由を感じたいなと思った。
この本と一緒に東京を歩こうと決意した。 -
歌舞伎座脇で鮨屋を営んでいた曽祖父の人生を追う時間の旅に、日々の暮らしで生起するさまざまな想いが絡み合う。初エッセイ集。
2012年9月30日読了。
著者初のエッセイ集とのことで、とても興味深く読みました。
自分のルーツを探る、みたいな書き出しなので、時代があっちに行ったりこっちに行ったり。
ダメな人にはダメなんだろうけど、私はこの人の文章が本当に好きなんです。
ただ一冊だけ、どうしても苦手だった作品があったのですが、でもそれがどういう意図で書かれたのかが分かって、スッキリしました。
連載の最後の最後で2011年の3月11日がやって来て、しばらく中断してしまったとのこと。
震災のことも書かれていて、読むのが今でも思わず動揺してしまいました。
でも。なんというか、不安なものは不安として誠実に書かれていて、みんな同じように感じていたんだなって、ちょっと安心して、肩の荷が下りた感じで思わずホロリと来てしまいました。 -
ゆるゆるとついていく感じて読みました。
馴染むととても居心地がいい感じです。
ただ、素直にエッセイとして読んでいると、しらんふりして「ほら」をふかれているんじゃないかとも思えるんですけど。
存在しない本とか、存在しない娘とか……
なので、ゆるゆる読むのがいいみたい。
3.11以降の項は、あらためていろいろ思うところも喚起されて、考えることを止めてはいけないことなんだと肝に銘じたりもしましたね。 -
クラフト・エヴィング商會の吉田篤弘さん、初のエッセイ集。
Web上で連載されていたものが1冊にまとめられています。
吉田さんの曾祖父、吉田音吉さんは木挽町の歌舞伎座の向かいで鮨屋を営んでいた。
屋号は"音鮨"。
この曾祖父のルーツをたどっていく形で、エッセイは綴られています。
読むこと、書くこと。
音楽。
自分自身との対話。
タマシイとは。
暮らす町を見つめなおすこと。
エッセイなのにエッセイらしくないのは、吉田さんの遊びゴコロの成せる業。
吉田さんのつむじまがりでへそまがりな言葉のマジックを楽しみながら、音吉さんの姿を追っていくうちに、いつのまにやら過去と現在の境目があいまいになってきて…。
歩いて歩いて、目で見て、考えよう。
「元気にしてる?そっちはどうだい?」と、未来の自分や過去の自分に問われたときに、「なかなかのもんですよ」と答えられるように過ごしたいなぁ、と思うのでした。 -
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「好きなだけ遠まわりをしたら、いつかきっとここまでおいで」
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吉田篤弘がつむぎ出す物語は、どこかにありそうでどこにもない雰囲気を携えている。そんな吉田篤弘による自分のルーツを辿るエッセイは、実に吉田篤弘らしいものでした。
曾祖父が明治の時代に上方から上京してきて、銀座木挽町の歌舞伎座の向かいに鮨屋を開いた。そのことを知った時からはじまる木挽町への想い。曾祖父への想い。
想いは我が身に降り掛かり、少年時代から現在に至るまでを振り返る。
振り返るたびに現在の姿が現れ、現在が過去と繋がっていることを意識させられる。そして曾祖父と祖父と父と繋がっていることを意識させられる。
思考と現実と思い出と空想がないまぜになる。過去が現在に影響し、現在が過去を刺激する。
連載とともに作者の歴史が積み重ねられ、そこにやってくる2011年3月11日。
全てがひっくり返ったあの日を境にして、変わるもの変わらぬもの。
紆余曲折を経て、物語は木挽町へと収束する。
エッセイでありながら物語のような。それはいかにも吉田篤弘らしいものであり。あらゆる層を重ねて捻って丸めてしまうような、面白い読書時間でした。