- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784575714173
感想・レビュー・書評
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普通なら知ることができない世界を知ることができるのが読書の面白さ。
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面白かった。
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家畜というより、哺乳類を解体するという営みは、差別的な視線ではとても覆いきれない、ものすごく永い──人類が人類になる以前から繰り返してきた行為があるわけです。その末に辿り着いた道具の形があって、その道具に潜むポテンシャルを自分が解放できるようになった時の嬉しさといったらないですよ
この労働観について書かれてる。
面白い。 -
大卒の著者が出版社を退社してついた仕事は家畜の解体。差別的な目で見られる仕事を、ただひらめきで、なんとなく、と理由のつかないまま職業安定所で探し、就職。ナイフがうまくつかいこなせたる嬉しさ、たくましくなる肉体、1日の解体分が終われば昼で退社できること、など、仕事の誇らしさが描かれている。世の中にはよそうできないほどのいろんな仕事があるけれど、選んだ仕事が何であろうと、一生懸命な人は輝く、と思った。いろんな世界のいろんな仕事をもっと知りたい。
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人として生きる強さ、残酷さ。周囲と繋がること。夢中になれる幸せ。読み終わって自分の中で消化できたら少し強くなった感じがした。
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ずっと読みたくて、文庫本になったから買いました。
面白いほん。
働くということについての本。
あとがき対談にある、命だなんだの話は、どんどんやって来る牛を捌くのに必死で、余裕が無いってのは、よく分かる。
生き物を殺す仕事をしたことがあるからなんだが。 -
屠畜場での就労経験に基づいた興味深いエピソードの数々。毎日のように肉を口にしながら屠畜に関する知識に乏しい読者にとって現場の描写は衝撃的だ。決して快適とはいえない労働環境や被差別部落に対する偏見が影を落とす職場にあって働くことの本質が見えてくる。
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作者が作家になる前に勤めていた埼玉の屠畜場での日々を綴る自伝的エッセイ。
職業的に、差別問題や命のあり方に重きをおかれそうだが、職の尊さをテーマにしているので、親近感を覚える作品だ。
大卒の作者が、初日に先輩から「おめえみたいなヤツが来るところじゃねぇ!」と怒鳴られてから10年間、職を全うした経験をは、今の新人社員やこれから職業に就く若者に是非読んでほしい。 -
【本の内容】
作家専業となる以前、埼玉の屠畜場に勤めていた日々を綴る。
「おめえみたいなヤツの来るところじゃねえ!」と先輩作業員に怒鳴られた入社初日から10年半。
ひたすらナイフを研ぎ、牛の皮を剥くなかで見いだした、「働くこと」のおおいなる実感と悦び。
仕事に打ち込むことと生きることの普遍的な関わりが、力強く伝わる自伝的エッセイ。
平松洋子氏との文庫版オリジナル対談を収録。
[ 目次 ]
1 働くまで
2 屠殺場で働く
3 作業課の一日
4 作業課の面々
5 大宮市営と畜場の歴史と現在
6 様々な闘争
7 牛との別れ
8 そして屠殺はつづく
文庫版オリジナル対談 佐川光晴×平松洋子―働くことの意味、そして輝かしさ
[ POP ]
2009年に解放出版社から刊行された『牛を屠る』が文庫化。牛や豚の解体作業を通して、働くこと、生きることの本質に迫る。
巻末に、佐川光晴と平松洋子との対談(文庫版オリジナル)を収録。
人生は流れであるという感覚について、「のめり込んでいた場所でできる限りのことをやったら、次の世界が始まっていく」という著者の言葉は説得力がある。
「自分の手と直結した何かを使って働」(平松)いたからこそ紡げる言葉があると知る。
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
本屋をうろうろしていて、この新刊文庫を見かけ、読みたくて買った。もとの単行本は解放出版社から出てるそうだが(「シリーズ向う岸からの世界史」の一冊だという)、文庫版オリジナル対談が入っていたせいもある。
北大を卒業後に小さな出版社に勤め、そこで「社長並びに編集長とケンカをやらかして」(p.15)一年で失職した著者は、それからふた月ほど山谷から工事現場に出て働いた。
▼技術も経験も求められない下働きをくりかえす日々はつらかった。同じ肉体労働をするにしても、おいそれとは身につけられない仕事の中で鍛えられたかった。(pp.14-15)
ハローワークで、「希望する職種」を編集者から屠殺場の作業員に変更したいと申し出た著者は、そこで埼玉県内の、通勤にも便利であろう大宮で求人があると知り、翌日には面接をうけにいった。
▼なんのためにここで働くのかと問われれば、それは生活の糧を得るためであり、屠殺場意外に行き場を思いつかなかったから、ここに来たのです。
そんな回答で入社が認められるとも思えなかったが、せめて正直に堪えることで誠意を示すしかない。そう決めたものの、不安は消えなかった。(p.17)
総務では、「この学歴であれば、営業でも総務でもいいので、事務所のほうで働いてもらえませんか」(p.17)と言われたそうだが、著者は現場で働くことを希望した。「もし向かなければ、いつでも事務所に移ってください」(p.18)とまで言われながら、作業課に案内され、「やりたいなら、やってみな」と入社は許された。
が、待ち構えるようにしていた作業課の先輩男性から「ここは、おめえみたいなヤツの来るところじゃねえ」(p.19)と怒鳴られる。
働きはじめた初日から、その先輩にせんど怒鳴られながら、著者は目の前の仕事に向かい、少しずつ教えられ、先輩たちを見て、ときには手を添えてやってみせてもらいながら、仕事をおぼえていった。
そうやって屠殺の仕事をしてきた10年半のことが、この本には書かれている。「技術と体力が全てだと思うからこそ、屠殺場で働いているのだ」(p.104)という著者は、「懸命に屠殺の腕をみがく一方で、いったいいつまでここで働くのだろうと思い悩まない日はなかった」(p.106)とも書いている。
生活のなかで(たとえば床屋へ行った時に)なんの仕事をしているとか、屠殺場で働いている理由をたずねられたことはなかったのに、それでも著者は「常に理由を問われているように感じていた」(p.112)という。「なぜこの仕事を」という理由よりも、「この仕事を続けられた」理由なら答えられると、著者は記す。
▼屠殺が続けるに値する仕事だと信じられたからだ。ナイフの切れ味は喜びであり、私のからだを通り過ぎて、牛の上に軌跡を残す。
労働とは行為以外のなにものでもなく、共に働く者は、日々の振る舞いによってのみ相手を評価し、自分を証明する。(p.112)
このくだりを読んで、私は今まで転々としてきた「仕事」のことを考えた。私はなぜ、何年かは続けられたのか、そして辞めたのかと。そして、共に働いた人のことを、少し思い浮かべた。
「働く」ということについてのいろいろがこの本には書かれていて、文庫オリジナルという巻末の対談では、著者はこんな発言もしている。
▼佐川 ヘトヘトになるまで働きたいとは思っていました。「おれみたいな人間はヘトヘトになるまで働いちゃわないとダメだ。頭だけで行くとロクなことを考えない」という確信があったというか。(p.149)
そういう「働く」話としてもこの本はおもしろかったけど、私は「屠殺という仕事」にもやはり関心があったから、この本を買ったのだ。むかし屠場のフィールドワークに行った記憶も大きい。
大学生だったころ(もう20年あまり前)、松原の旧屠場へフィールドワークに行った。一度は同和教育論だったか部落問題論だったかの授業の一環で、もう一度は解放研のフィードワークだったと思う。そこでは、著者が10年働いていた屠場と同じようなやり方で牛や豚を屠っていた。
前に内澤旬子の『世界屠畜紀行』を読んだときにも、イラストを見て文章を読みながら、あの松原の旧屠場の作業風景をぼんやり思い出していた。この『牛を屠る』では、ナイフを操り、牛や豚を解体していく作業のもようを読みながら(巻頭に牛の作業場のイラストが一枚入っている)、やはり20数年前に見た屠場を思い出していた。蒸し暑いようなムゥーっとした空気や、血と脂のにおいも。
著者がそういう昔ながらの方法で牛や豚を屠っていた頃、すでに東京の芝浦屠場はすっかりオンライン化されていて、物書きになってから全芝浦屠場労組の人と話したとき、「佐川さんの話を聞いていると七十、八十の爺さんと話をしてるみたいな気がする」(p.133)と言われたそうだ。私がフィールドワークに行った旧屠場もすでにない。
著者が作家専業で行くと決めて退職してから、O-157や狂牛病があり、大宮の古いままだった牛の作業もオンライン化され、仕事のやり方は大きく変わった。かつては、3時にはあがれた仕事も、入荷頭数は減っているのに毎日夕方までかかり、持ち場どうしで手を貸し合うこともなく、ナイフは3日に1度研げば十分だという。
▼だからといって、昔は良かったと嘆くつもりはさらさらない。いつだって人は、与えられた環境の中で、自分なりのこだわりを見つけながら働いていくしかないのだ。(p.134)
この著者の本は、前に『ジャムの空壜』を読んだことがあった。この本を読んで、著者のデビュー作となった「生活の設計」や、ほかの小説を読んでみたくなった。
(7/22了)