- Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582762365
感想・レビュー・書評
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原題:Representations of the intellectual : The 1993 Reith Lectures (Vintage, 1994)
著者:Edward W Said(1935-2003)
訳者:大橋洋一(1953-)
【目次】
はじめに
第1章 知識人の表象 027
第2章 国家と伝統から離れて 057
第3章 知的亡命――故国喪失者と周辺的存在 085
第4章 専門家とアマチュア 111
第5章 権力に対して真実を語る 139
第6章 いつも失敗する神々 165
原注 193
訳者あとがき 203
平凡社ライブラリー版 訳者あとがき 212
解説――「失敗する神々」に抗して(姜尚中) 214
索引 223-235詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「知識人」というものについて語っているが、いわゆる「『インテリ』や『頭のいい人』といったものになるためのノウハウ」というわけではなく、「『物事をどう考えそれについてどう対処するべきか』ということを考える人」とでもいえるような人について語っている、といったところだろうか。学歴を持っていたり、政治、自然科学、文学、医療といった少々「むずかしいこと」に取り組んでいる人間でも「知識人」とは限らない。解釈によっては「教養人」ともいえるかもしれないが、いずれにしても「実践」を伴わなければ「知識人」とはいえない。
今の世の中は難しいことをいう人間は煙たがられる。身近なことを少し深く考察し、それを誰かに話しても「そんなことどうでもいいんだよ」と言われることもある。これがその場での自分への扱いに影響することを考えると「考えることイコール悪」といった空気を作っているように思える。しかし「知識人」はそれでも闘う。これは一つの生き方であり、こうしたことを意識せず、周囲の雰囲気に身を任せているヒトは、何かを発言して闘う気力も能力も失うこととなるだろう。そうしたヒト達はある種の人間からいえば「便利なヒト」ということになるのかもしれないが、対等な会話をしようとして接してみると、ほとんど魅力を感じることはない。
エルサレム生まれということもあって、イスラム教に関する言及も多い。キリスト教やユダヤ教と比べてなにかとマイナスイメージが多い宗教であるが、当事者からの言及はそうした偏見を見直すきっかけとなるだろう。
自由を確保するためには闘う必要があり、闘うには情報が必要である。こうした一連の行動の流れに主体として関わるのが「知識人」というものなのではないかと思う。 -
①亡命者にして周辺的存在であり、
②またアマチュアであり、
③さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の語り手
←この3項目がすべてを言い表している。
素直に、カッコいいなと思った。ハウ・ツー本として読むのには恐らく向かない(つまり、サイードの語る知識人像を学び、自分もそのように生きよう、として読むのには向かない)と思った。
でも、彼の語る知識像としての人生哲学(あるいは精神的自叙伝)の中で、賛同するところがあったときには、読者は、自分の生き様にちょっとした自信をつけることができる、だろう。
サイードは度々国際関係に言及しているが、その意味でも参考にするところが多い一冊。 -
「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」
知識人とは存在ではなく機能である。
僕の少ない読書経験の中で、これほどチョムスキーが褒められているのを読んだのは初めてだった。 -
1年前に書店で購入しました。私としては現代に生きる上で読まれるべき重要な思想家のうちの一人なのですが、サイードの著作を本腰入れて読んだのは今作が始めてだったりします。
読み終えてなお、何度も繰り返し読みました。何度も読むに値する本です。名著中の名著です。
例えば、TVのコメンテーターの発言に空々しさを感じるような、所謂日本における「有識者」「学者」や「言論(空間)」に対し不信感を抱くような人は是非読んでいただきたい。また、人文社会科学を専門にする人は、必ず読んで頂きたいですね。もし全く知らなかったとしたら、サイードという思想家の名前と一緒に、分量がそこまでないので、この本から入ることをお勧めします(他の本はやや分厚いのでちょっと骨が折れます)。
ただ私の問題意識で言えば、この本は震災を経験した後、復興とどう向き合うかを真剣に考える人にこそ、そのアクチュアリティを存分に発揮すると思っています。特に、福島の人にこそ、この本の読まれるべき価値があるように思います。何故なら、サイードの示す亡命者としての彼の立場が、原発事故で故郷を追われて移住を余儀無くされた人々と何処か重なるからです。この本を読みながら、私はどうしても神奈川や埼玉といった故郷とは全く別の土地へと、望んだわけでもなく移動せざるを得なかった人達のことを考えないわけにはいかなかった。現に、その人達の言葉は、今自分の元にどれだけ届いているかと言われれば、怪しいと言わざるを得ない、そう感じました。
問題意識が生まれて、何とか解決出来ないかと思いつつ、「自分一人で何が出来るんだろう?」と悩む時には必ず読むといいでしょう。この本が勇気を与えて、背中を押してくれますから。
また、何らかの地位を手にしたとしても、この本を戒めや心の支えとして繰り返し読むことは、決して無益ではないと私は思います。 -
他人を説得しようすることで私的な世界と公的な世界が複雑に絡み合い、その中で自分をどれだけ見失わずに進んでいけるか、難しいなあ。でも、じゃあ単純に自己完結で満足するのか。できるのか。それでいいのか。
立ちはだかるものに間近で対峙している者はその権威を絶対的なものだと見なし恐れるが、そこには必ず人間的起源があること思い起こさねばならないというのはなるほどその通りで、一歩引いて見ること、どの立場にも決して決して安住しないこと、懐疑的な目線を常に忘れないことが大切。
知識人は権力、権威と関係をせざるを得ないがその関係をどう捉えるか。権威にこびること無く学問すること。象牙の塔にこもるのは魅力的に見えるが、出るべき時に出る心づもりが必要だと感じた。
普遍的なるものは存在するのか?
信じるものが変わるだけなのか、真実へ近づいているのか?
偏らないことができるのか?
著者の言うように「真実」へ近づく努力をすることが大事だとすれば、私たちは完全に純粋な真実には到底達し得ないことをも自覚しなければならないと思った。そして常に近づく努力をし、自分の位置を確認し続け決して安住しないということがやはり大切だ。これが真実だと思った瞬間に、私たちは誰かの存在を排除するのだから。青い鳥の付近に留まり続けることを目標とすること。決して捕まえようとしないこと。 -
知識人は、アマチュアだ。森巣博の言うチューサン階級に似ている。
巷で集団で幅を利かせる言葉や文章に、疑問をもつ。時代に引きずられながらも、ステレオタイプ化した言説の仮面をはぎ、対抗的ヴィジョンを示す。それを、揚げ足取りでなく、合理的で道徳的な判断において行う。
権力は求心力がある。そこで論じるのは気持ちがよい。 -
05/01/57
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リブロ西武池袋店、¥882.
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要約→御用学者になるな。知識人はリベラルでなくっちゃ(*´∇`*)
こんなしょうもない文なのは薄い本だからでは決してなく、僕の理解力がないからです。いずれ主著『オリエンタリズム』にも手を出そうと思う。
以下、思ったことを箇条書き。日本について少し触れられていたが、戦前の体制→悪、それを否定した丸山眞男→善、みたいな単純な分け方だった。日本を専門に研究しているわけでもない左翼の学者にとっては、この程度の認識なのかとも思う。カンサンジュンはこの箇所を「興味深い」と言っていたが、右寄りの人はどう評するのか気になる。