知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

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  • Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582762365

感想・レビュー・書評

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  • アウトサイダーでいること。ただし、まるっきり孤高な存在としてではなく、社会の中にいながら中心的な存在に追従するような存在ではないということ。
    繰り返し解く知識人とは何か(というより、サイードが知識人とはどうあるべきと考えているのか)に対する簡易的な答えは上記のようなものになるのでは、と受け取りました。
    とかく生き辛そうではあるけれど、(&知識が少なすぎてこんなことを言うのもおこがましいけど)権威に付き従うのではなく、何が正しいか自分の言葉を身につけて発言する「知識人」的人間でありたいと思う。
    映画『スノーデン』を見て、よりそんなことを思う。

  •  アウトサイダーとしての知識人の役割を強調する際に考えていたのは、いかなる社会変革の芽もつんでしまう社会機構―マスコミ、政府、大企業など―の圧倒的に強力なネットワークをまえにしたとき、誰の脳裏にも去来するやりきれなさであった。(p.21)

     自立した芸術家や知識人が属するのは少数の稀有の個人からなる集団だが、この集団は真正の生きた過程がステレオタイプ化し、その結果死にいたることに対しあくまでも抵抗し戦う用意ができている。新鮮な認識ができるか否かは、現代のコミュニケーション[すなわち現代の表象システム]が押しつけてくるステレオタイプ化したヴィジョンなり思考の仮面をはぎとり、それを粉砕できるか否か、にかかっている。大衆芸術の世界や大衆思考の世界にしても、いまやそれは、ますます政治的要求にからめとられるようになった。だからこそ政治の世界では、知識人の連帯と努力が優先されなければならない。もし思想家が政治闘争のなかで真実の価値を身をもって体現しないのなら、そのような思想家は、生きた経験全体を責任をもって扱うことはできないのである。(C.ライト・ミルズ)
    ⇒政治からは逃れられない。純粋な芸術の領域や思想の領域に逃げこむことや、また、その点に関していえば、公正無私の客観性や超越的な理論に逃れることなどできはしない。(pp.51-2)

     知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。(中略)集団や国民的アイデンティティをめぐるコンセンサスに関して、知識人がなすべきは、集団とは、自然なものでも紙があたえたもうたものでもなく、構築され、造型され、ときには捏造されたものであり、その背後には闘争と征服の歴史が存在するということを、必要とあらばその歴史を表象しつつしめすことなのだ。(pp.68-9)

     知識人が表象するのは、静止した聖画のごときものではなく、言語のなかで、また社会のかで確固たる意志を持った明確な声としてたちあらわれる個々人の使命であり、エネルギーであり、堅固な力である。(p.122)

     現代の知識人はアマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。そして、そうであるがゆえに、知識人はこう考える。もっとも専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵触したり自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のありかたにも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格をもつのだ、と。(p.137)

     知識人とは、きわめて偏った権力にこびへつらうことで堕落した専門家として終わるべきではなく―これまで語ってきたことの繰り返しになるが―、権力に対して真実を語ることができるような、べつの選択肢を念頭におき、もっと原則を尊重するような立場にたつ、まさに知識人たるべきではないか、と。(p.156)

     権力に対して真実を語ること。これは、パングロス的な理想論ではない[パングロスはヴォルテールの『カンディード』の登場人物。楽天家の代名詞]。それは、さまざまな選択肢を慎重に吟味し、正しい選択肢を選び、それを、最善をなしうるところ、また正しい変化をもたらしうるところで、知的に表象することなのである。(pp.163-4)

  • 現代社会における行き過ぎた「専門主義」の危険性をするどく指摘​しています。知の誠実性を保つために、筆者が説く「アマチュアリ​ズム&アウトサイダー」の立場には、村上春樹のエルサレム賞受賞​のスピーチに共通する考え方が感じられます。(もしかして、サイ​ードが元ネタ?)

  • “世界の大国”である日本の大学に通う大学生なら、これは絶対読まないとだめだと思う。本屋の店頭にで平積みされている“ジャンク・ブック”もいいけど、海外のこうした、真にマトモナ人が書いたもの読まないとだめでしょ。

    特に「第五章 権力に対して真実を語る」は読まねば。

    内向きな日本人の思考をえぐり出してくれる、そんな名著。

    彼が無くなった事が本当に悔やまれる・・・

  •  知識人とは何であろうか。何であるべきか。その問いに対し、
     「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」
    と答えたのが、著者Edward W. Saidである。
    ポストコロニアル理論の先駆者たる彼にとって、またパレスチナ人かつアメリカ市民でもある彼にとって、論じるべきことはたくさんあった。そして、彼が批判するべき対象は無数にあった。そんな彼にとって重要だったのは、その国にいながら外国から来たかのように、そして自国を思い続ける二重の視点を持った亡命者であること。また、決して権力の中からではなく、周縁の位置から権力を見つめること。そして、経営コンサルタント、省庁の役人、大臣のようにプロとして権力に寄り添うのではなく、アマチュアとして、アマチュアの目線から物事を考えること。何よりも、我々に物を隠そうとする権力に対して、世の中の大勢から批判されようと、信念を持って権力と戦う事が必要だと言う。
     彼の心意気が大きく伝わってくる本だった。早くに亡くなったことが本当に惜しい人だ。

  • エドワード・サイードの著作は、
    『知識人とは何か』ぐらいしか、
    読んだ事ないな。これは名著だし、書名を知っている人は沢山いる。

    サイードが言う「知識人」とは、
    「亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」と。

    こんな知識人、ムラ社会ニッポン
    では、まず見掛けない。

    多く「知識人ムラ」の住人で、そのムラの掟に従って、御飯食べている人が、ほとんどだから。これに気付かない大衆がアホだから、始末におえない。

    未だに、テレビや新聞が「存在している」異様さと同じ。本当は、8割ぐらいのマスコミは「必要ない」、社会の害悪。ただ、皆(私含めて)アホだから、気付かない。これは、なぜ一党が、ずっっと政権与党なのか?と同じ問題。

    知識人の話しに戻る。
    いくら「安全地帯」から、うまく世間に問題提起する「仕方」にこだわる人間ばかりで、自ら権力機構に、組み込まれる事に、躊躇しない。

    実は、「知識人」ばかりじゃない「芸能人」や「芸人」もそう。

    また、日本の伝統的な「宗教」も、政治権力に組み込まれて、チカラを失った事と、全く同じ。

    サイードは、この著作で、神を厳しく否定している。神の存在を権威として、服従するのではなく、最善を尽くし、真実を積極的に追求する事が、語られている。

    日本的なムラへの服従か、創造主へ自身を預けるか、そうではない在り方を希求している。ガンジーか!と思わせる。私には無理、だけど、ちょっとは、見習いたいものだ。

  • とにかく言っていることがかっこいい! ちょっと違うかもしれないけど、ドラッカーは利己的な観点から知の立ち居振る舞いを語るけど、サイードは利他的な観点からそれを語る。いずれも知の巨人だが、プラグマティズムの観点orリタラチャー
    の観点というスタンスの違いで語ることが野暮か粋かの違いが出てくる。昨今軽視されがちなリベラルアーツてやっぱり大切だなあ。こんなこと「リベラル」を曲解しがちなこの国でいうと白眼視されるだろうけど。やはり、サイードて、能力的にも経済的にも立場的にもエスタブリッシュメント階層であるのに、ディアスポラを経験し[てい]たパレスチナ人であることを決して念頭から外さなかった/外せなかったからこそ、決してエスタブリッシュメントとしての自己を確立しなかったんだろうなあ。それだからこそ、こういうことを言ったんだろうなあ。サイードじゃなかったら建前論言うなよ、てなっちゃいそう。ほんと、サイードはやっぱりサイードだ!

  • 論旨に確かな見晴らしのよさを感じる。だが、それは「わかりやすい」ことを必ずしも意味しない(少なくとも私にとっては)。知識人について専門知識を有する存在ではなくその知性をバネにフットワーク軽く動き、体制や硬直したマジョリティに楯突く存在をこそそう呼ぶのだと整理する。これは「使える」本だと思う。私自身がまさにサイードの整理における(もちろんこんな言葉を彼は使わないが)「専門バカ」になっていないか、見つめ直すためにも。いくつか些末な次元での異論はあるが、その疑問はこの私が自らの内に引き込んで考え続けるべきものか

  • 読み終えたぁぁ
    途中知らない主義主張がたくさん出てきて心が折れかけましたが、あまり深入りせずに読み進めるのがおすすめかも(もちろん分かったほうがいいけど)

    「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」というサマリーが読む前と後で見える世界が変わってくるので、諦めずに読み切ってほしいです。

    でも現実問題、できるかはちょっと難しいなと…
    長いものに巻かれずに生きるには1人では心折れないのかと思ってしまった…どんなメンタリティがあれば維持できるのか?

  • ここで定義される知識人に該当するようになろうと思う。

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著者プロフィール

エドワード・ワディ・サイード
(إدوارد سعيد, Edward Wadie Said)
1935年11月1日 - 2003年9月25日
エルサレム生まれのパレスティナ人で、アメリカの文芸批評家。エルサレム、カイロで幼少時を過ごし、15歳の時にアメリカに渡る。プリンストン大学を卒業後ハーバード大学に学び、コロンビア大学の英文学・比較文学教授を務めた。サイードはまた、パレスティナ民族会議のメンバーとしてアメリカにおけるスポークスマンを務め、パレスティナやイスラム問題についての提言や著作活動など重要な役割を担った。『オリエンタリズム』(平凡社)、『知識人とは何か』(平凡社)、『世界・テキスト・批評家』(法政大学出版局)、『文化と帝国主義』(全2巻、みすず書房)などの主著が邦訳されている。

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