- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582859430
作品紹介・あらすじ
いま、学校の授業が実用化とディズニーランド化に向かっている。だが、きちんと知識を吸収し、深い学習を促さなければ、AI時代には生き残れない! 学校教育のあり方に警鐘を鳴らす。
感想・レビュー・書評
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楽をして学ぶことと、学ぶことか楽しい、は違う—
知識偏重型からの脱却、詰め込み型の入試からAOや推薦入試への移行が進みつつある日本。
大学教育に携わる著者が警鐘を鳴らす。若干保守的な考え方であると感じたが、内容には概ね賛成できる。
本書の中で特に重要だと思われたのは、国語における実用文教育へのシフトチェンジに対する批判だ。実用文とは契約書や規約等の読解力になるわけだが、文学や評論ではなく実用文の読解がこれからの国語教育の中心になるとは恐ろし過ぎる。
確かに契約書等を読む論理的読解力は重要だ。しかし、言葉の力は思考力やものの感じ方に強く影響する。中学生や高校生の折に一流の文学や評論に触れることで感性や表現力を学ぶことはその人の人生全体に大きな影響を及ぼす。それに教科書で読んでみて、続きが気になって、読み漁った本もたくさんあった。国語の時間はそんな出会いの場としても大事な筈だ。
実用文しか読めず、文学も評論文も読めない学校教育は。。。
しかしながら、著者の欧米文化にたいする浅薄な理解はすこし目に余るものがあった。一つ一つ挙げるとキリがないが、日本と欧米文化の比較はことごとく的外れであった。例えば欧米は自己中心の文化で、日本は間柄の文化、としているが、少なくとも私の周りでは欧米人の教授の方が間柄を大切にして、かなり気遣い上手でTPOにあった絶妙な言い方をしてくださることが多かったりする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昨今の教育現場がなぜ多忙なのか、その原因の一端には、そもそもの文科省の方針が間違っているからだと感じる。教育は、成果が目に見えないからこそ、即効性のある内容ではなく、子どもの人格を深く形成していく基礎をしっかりと造るべきである。小学校の英語や、道徳の教科化、アクティブラーニング云々よりも、大切なことはもっとずっとシンプルに存在しているはずだ。
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■感想:
自分が本書をこんなきのめり込んで読んでしまうとは思わなかった。
学校教育を受けているときは、当時の教育方法、指導方法に不満など一切持たずにいたわけだが、今現在大人になり、自分の受けた教育方法と、国内外の教育方法、今後の子どもたちが受けるであろう教育方法に関心を持たなければいけない。
著者は近年取り入れられている「アクティブラーニング」(活動あって学びなし、教えない授業の蔓延)、「楽しい授業」の追求(学びの楽しさではなく、楽な学びに移行)、「主体性への評価」(何を持って主体性を測るのか)を批判、危惧している。
そもそも、意見を述べたり討論する授業「アクティブラーニング」はアメリカで学力の低い学生や学習意欲の乏しい学生を救済するために注目されたものらしい。
アクティブラーニングは、私の大学生の頃からあったが、確かに薄っぺらい学生の討論をするくらいなら、講義型の知識が吸収できる授業を受けてたほうがよかったとすら思えてきた。
発言、討論が「能動的な学び」ではないということ。能動的な学びになるか否かは、学習者次第。
■メモ:
•発達期待:こんな人間に育ってほしいといった期待のこと。
アメリカでは、自身を持つこと、自己主張ができることが母親の発達期待であるが、日本では、思いやりを持つこと、強調的であることが発達期待らしい。理想とする人間像が異なるため、教育によって人格形成をしていく方向性も異なるのは当然のことである。
•外向に価値を置くアメリカ、内向に価値を置く日本。
•問題は講義型の授業ではなく、問いや課題が生起しない授業。求められるのは、能動的に見える授業ではなく、知的能動性が発揮される授業である。
•クランボルツの「計画された偶発性理論」:私達のキャリアは偶然の出来事によって大きく左右されるため、偶然を自分のために活かすにはどうしたら良いかに力点を置くべきだとしている。従来は批判的に見られてた、未決定の心理状態を肯定的にとらえ直し、心を開いた状態を維持することの大切さが強調されている。
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知識を軽視し、アメリカ型の実学偏重教育によって薄っぺらい人間が多くなってしまうのではないかと警鐘を鳴らす本書。今日の教育改革や若者の現状を捉える上で、とても良い視点を提供してくれた。
データ自体が筆者の経験則や一部の学生アンケートに偏っているため、厳密な議論とは言い難い部分もあるが、実際に今日に生きる若者として深く納得できた。
日本文化から教育を考えること、一人で深める学びがあること、既に他者への配慮が尊重される社会における対話的学びの必要性など、なるほど確かに、と思える部分が多い。教育を志すのならば目を通しておきたい1冊である。 -
内容には完全同意。自明のことだと思いつつも、他のレビューや現場の声を聞いていると著者のように思っていない人は多い。
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とても分かり易く、私自身にも実感のある話が多数ありました。同じことが繰り返されるのが少しくどいところですが…。教育に携わる者は、その立場(小中学、高校、専門学校、大学など)の違いに関わらず、一読することをお勧めします。
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著者の言いたいことはよくわかる。よくわかるけど、著者の理想の教育は著者の本を理解できるくらいの学力がある人にしか通用しないような。これだから大学の先生は。
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Kindleで電子書籍を読んだ。
榎本博明氏の主張は、私の考えに近いことが多い。
したがって、榎本氏の著書は私自身の考えを補強するために読むことが多く、本書もその趣旨で読んだ。
2000年にノーベル賞を受賞したジェームズ・ヘックマンは就学前教育で大事なのは非認知能力であることを明らかにした。
非認知能力とは、
・我慢する力
・動機付ける力
・展望を持つ力
・自分を信じる力
・他者を理解する力
・衝動をコントロールする力
などのことであり、それらは「忍耐力」や「克己心」といった日本の教育で重視されてきたものであると指摘する。
さらに、本書で特筆すべきは、
①アクティブラーニングの否定
②キャリア教育の否定
の2点である。
①アクティブラーニングの否定
勉強の本質は孤独の中で思考するところにあり、わきあいあいと仲間と語り合うところにあるのではない。もちろん、友人との価値的な対話が学習意欲につながったり、コミュニケーション能力の向上につながることはあるだろう。
しかし、勉強をしていなければ、友人との価値的な対話そのものが成り立たない。一方的に話を聞くだけなら、授業を受けるのと同じでありもはやアクティブラーニングではない。
さらに、アクティブかどうか、つまり学習意欲がアクティブかどうかは、精神的な問題であり、友人と語らうかどうかという行動とは無関係である。
教師・講師の一方的な講義であっても精神がアクティブであれば、つまり学習意欲が高ければ、それがアクティブラーニングである。
②キャリア教育の否定
激動の時代に中学生が職業体験をすることに、どれほどの意味があるのか、どれほどの価値があるのか不明である。
キャリア心理学では、
・クランボルツの「計画された偶発性理論」
・ジェラットの「積極的不確実性理論」
・ブライトとプライヤーの「キャリアのカオス理論」
など、不確実性を折り込む必要性が強調されている。
さらに、「好きなことを仕事にしよう」というアプローチを榎本は否定する。好きなことが明確で、その道で生きていくと決められる若者はそれでいい。
しかし、好きなことが分からない若者も少なくない。否、「好きなことがあっても、それが仕事にならない」のが普通だから、「仕事になるような好きなこと」は容易に見つからないものなのだ。
立川志の輔は大学では落語研究会に入っていたが、広告代理店に就職する。しかし、落語への思い止みがたく、30歳のときに立川談志に弟子入りする。
「好きなこと」とはどうしても抑え切れない衝動であり、探して見つかるような代物ではない。
目の前の仕事を一生懸命やって、それが好きになれたらそれで良いのだ。目の前の仕事を一生懸命やっても、他に好きなことが出てきたら、そちらに行ったって構わない。
「好きなことを仕事にすれば苦労少なく人生を送れる」という発想では、好きなことを仕事にすることも、仕事を好きになることも難しいのではないか。
なぜなら、苦労を乗り越える充実が真の「楽しさ」だから。人生の充実とは「成長」のことだから。
人生の幸福は「成長率で決まる」から。