書くという経験でもっとも重要なのは、「うまい」文章を書き上げることよりも、自分という存在を感じなおしてみることなのです。むしろ、「うまく」書こうとしたとき、自分の心をよく感じられないことも分かってきました。
「うまく」書こうとする気持ちが、心の深みへと通じる扉を見えなくしてしまうのです。(p.41)
「読む」とは、今日まで生きてきた、すべての経験を通じて、その日、そのときの自分を照らす一つの言葉に出会うことにほかなりません。
読書とは、印刷された文字の奥に、意味の光を感じてみようとすることなのです。読書とは、自分以外の人の書いた言葉を扉にして、未知なる自分に出会うことなのです。(pp.78-79)
旅とは、行く先々の光景を扉にしながら、自分の心のなかを見つめようとする営みだともいえそうです。
このことに気がつけば、旅はどんなところへ行っても発見があるものです。あまり快適ではない旅だったとしても、思い出深く印象に残ることがあるのはそのためです。(p.120)
本が読めなくなった、というのは、決まりきった名所見物のような「正しい」読書というたびにはもう、喜びを感じられなくなったということです。
そう考えてみると、読めなくなるということをきわめて自然なことのように感じられます。
ゆっくりと光景を眺めて、さまざまなことを感じ直し、これまでの人生とこれからの人生を深く見つめ直したい、そう思っているときに、見方を決められ、せかされているわけですから、いやな気持ちがして当然です。
本が読めなくなった、ということは、自分の旅は、自分で作るときがやってきた、という人生からの合図です。
ほかの人たちがやっているように、ではなく、自分にあった場所へ、自分にあった歩調で進んでいく。そして、世の人がみるものではなく、そのときの自分が見つめなくてはならないものを「観る」ことを、人生が求めているのです。(pp.121-122)
読書で大切なのも「肌感覚」なのです。
「肌」で情報以外の意味を受け取ることができるようになると、次第に情報もしっかりと受け止められるようになります。しかし、逆はうまく行きません。「あたま」に情報が先に入ると、肌感覚は休眠することが多いのです。(p.129)
本が読めなくなっているということは、「からだ」からの肌感覚を取り戻せ、という合図なのかもしれません。
情報収集としての読書に「からだ」が拒否反応を起こしているのかもしれないのです。
かつてのように読めなくなっている。それは情報以外のものを摂りいれなくてはならない、という「からだ」からの合図かもしれません。(p.130)
「見る」を「読む」に、「物」を「言葉」に置き換えて読んでみてください。
どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」と云うことが他の見方とは違う。じかに物が映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、或者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。(『柳宗悦 茶道論集』)(pp.136-137)
直に「物/言葉」にふれればそこに意味をありありと感じることができる。だが、そのためには3つのことに気を付けなくてはならない、と柳はいいます。
1つ目は「思想」です。世の中にはさまざまな「思想」があります。どんな思想でもそれを通じて見ると意味が歪んで見えてしまう。
2つ目は、「嗜好」です。もっと平易な言葉でいうと、「好き嫌い」です。好きか嫌いかの判断を先にすると、本当の姿が見えなくなる。
3つ目は、「習慣」です。先月読んだ本だから、もう読まなくてよい、という態度を柳は戒めます。人は、日々、変化している。日々、新しく世界と向き合っている。昨日興味を持っていなかった本に、今日、「人生の一語」を見つけることは、けっして珍しくないのです。(p.137)
訪れるもの、呼びかけ来るものは、いつ来るかわからない。そのいつ訪れるかわからない物が、いざ来たという場合、それに心を開き、手を開いて迎え応ずることのできるような姿勢が待つということであろう。邂逅という言葉には、偶然に、不図出会うということが含まれていると同時に、その偶然に出会ったものが、実は会うべくして会ったもの、運命的に出会ったものということをも含んでいる。(唐木順三『詩とデカダンス』)(p.169)