大人のいない国: 成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)
- プレジデント社 (2008年10月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (115ページ)
- / ISBN・EAN: 9784833418881
作品紹介・あらすじ
気づいてみれば、みんなで「こんな日本に誰がした」を大合唱。誰も「こんな日本に私がした」とはゆめゆめ思っていない。老いも若きも「責任者を出せ!」と騒ぐクレーマー天国で、絶滅危惧種「本当の大人」をめぐって二人の哲学者がとことん語る。
感想・レビュー・書評
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2008年にこの本が出版されてるのすごい、内容的に最近の本かと思った
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価値観が多様化し様々なカミングアウトがなされている。しかしなぜか「真っ平らな常識」を押し付けられる。「大人であること」が敬語の使い方、箸やフォークの使い方でもあるかのように。それじゃどうしろ、という答えではないけれど、グレーゾーンを見つめてみよう、という気にさせてくれる本。
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未成熟な人たちは増えてるかもしれないけど、成熟した人たちも、声はあまりあげないかもしれないけど、いると思う。
言論の自由は、誰でも言いたいことを言う権利のことではない、ということを心に留めたい。 -
久々に鷲田さんの文章が読みたくなり手に取りました。
鷲田さんの言う大人、自分で問題解決をしていく人間になりたいです。 -
対談集かと思ったら、そうではなかった。対談は1章のみで、あとは両著者のエッセイ/評論が交互に登場する本なのである。
日本の大人たちがいかに未熟か、という指摘がさまざまな角度からなされるのだが、それが「近頃の日本人は幼稚でケシカラン!」というような紋切り型の批判にならないのは、この2人ならでは。両著者は、次のように言うのである。
《鷲田 最近、政治家が幼稚になったとか、経営者が記者会見に出てきたときの応対が幼稚だ、などと言いますが、皮肉な見方をしたら幼稚な人でも政治や経済を担うことができて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。そういう意味では、幼児化というのは成熟の反対というわけではないんですね。
内田 官僚や政治家やメディアに出てくる人たちがこれほど幼稚なのに、致命的な破綻もなく動いている日本社会というのは、改めて見ると、きわめて練れたシステムになっているなって、いつも感心するんですよ。》
この痛烈な皮肉こそ両著者の真骨頂で、ここが本書の肝といってよい。
第1章の対談も、その後の両著者のエッセイも示唆に富む内容ではあるのだが、いかんせん、本文正味が115ページしかないというのは、あまりに分量が少なすぎ。
「ピンポイント選書」(本書のシリーズ名)だかなんだか知らないが、たったこれだけのページ数でハードカバー/1200円の本として流通させるというのは、ちょっとね。いまや新書でさえ300ページ近い分量があたりまえだというのに……。
いや、もちろん、分量が多ければいいってものではないが。
「名言だなあ」と思った箇所を引用する。
《鷲田 近代社会って生まれて死ぬまで同じ自分でないといけないという強迫観念があって、直線的に自分の人生を語ろうとするじゃないですか。昔の偉い人は何回も名前が変わった。失敗しても名前を変えるくらいの気持ちでいたらええよ、と。人生を語るときは直線でなく、あみだくじで語れ、と言いたいね。》 -
・匿名文は利とするところがないので(所有制を放棄してもよいので)匿名なのだ。もしくはそれが呪いの言葉だから。
・個性化の名の下に同じような価値観だけで凝り固まり、細分化、蛸壺化したことが日本の幼稚化傾向に拍車を掛けたのではないか。それは日本のみに起きている現象ではなく、グローバリゼーションやWWWを通して世界をフラットに均一化させる。
皮肉なことにグロバール化にNo! を突きつけた911以降、異質なモノを排斥する運動は強くなる一方だ。内田樹は独裁者と民主政治を喩えに出し、均一化された価値観からイノベイティブな発見がないことは自明だと言う。
つまり、ノイズをもたらすべきだと言うのだ。 -
鷲田さんの本だーと手にしたら、自分のもやってた部分がクリアになって、そうそう、それなのよ!と読みながらうなずくことしきり。鷲田さんの文章は好きです。内田さんは分かるけど、言葉が強すぎてちょっと怖い。あ、自分が子どものままだからか、と妙に納得。
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半分読んで放置していたのを引っ張りだして読んでみたら、最近のモヤモヤが解消されたようにおもえた。「日本には大人が少ない」、それがピッタリだった。当事者でありながら、その枠の外にいるような顔で、正論(のようなもの)を振りかざされるのに辟易としていたところだった。と同時に、自分の生き方はどうなんだと、いつも自信がなくびくびくとしているのだった。きちんとした大人になれているのか不安ではあるが、とにかくどんなときも当事者として地に足をつけて生きていきたいものである。