- Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
- / ISBN・EAN: 9784884748036
感想・レビュー・書評
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人生生涯小僧の心を大切に。
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ふむ
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『人生生涯小僧のこころ』
知足 ★★★★★
日常五心 ★★★★★
【著者】
僧侶の方です。高校卒業と同時に仏門に入っています。どんな方か?
①大峰千日回峰行を納めている方
これは、片道24kmの山道、標高差1,000メートル以上を16時間かけ、しかも1日で往復をするという行です。これを千日間続けます。
過去1300年の歴史の中で、この方含めて2名だけしかこの行を納めていないという非常に厳しいものです。
200日目前後で「血尿」となるそうです。
②四無行(断食、断水、不眠、不臥を9日間続ける行)を納めている方
①の1年後にこの行を納めています。あらかじめ断食で体を整えて臨みます。一滴の水も許されない、こちらも大変厳しい行です。
水分をとらず、しかし排尿されるため「1日で1キロ痩せる」とのことでした。
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【購読動機】
私は、無宗教です。定期的に心をスクリーニングするように努めています。
そうした一環で、心にまつわる本を読み、自身と外部の世界を対比させています。
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【読み終えて】
・知足
足るを知る。
今、こうして命がつながり、日々を営むことができていること自体に「ありがとうございます」の気持ちを自然にもてるようになること。
大変な行を納めた著者ですら「努力して為せる」ことなのだとわかりました。
・日常五心
仏教の言葉です。別の書籍で知りました。
はい(素直)、すみません(反省)、どうぞ(謙虚)、やります(奉仕)、ありがとう(感謝)。
言われてみれば当たり前です。でも、その当たり前の実践が難しいです。
著者ほどの僧侶の方もそう感じているということでした。
日々、自然に行えるて状態を目指したいな・・・。
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【本書より】
人生を論じる暇はない。今この時をもって生きるのです。157
「自分は何のためにしているのか」という問いに対する答えをきちんと整理しておくことだと思います。目標がはっきりしていないと、結局自分自身が疲れてしまいます。178
もっとも重要なポイントは、人を恨まない、人を憎まない、人のせいにしないという覚悟を持つことです。
「やらされている」と思えば、どんどん心が枯れて卑屈になってしまいます。212
人と人との心をつなげるのに技術は必要ありません。技術とか経験とかいうものは、時によっては毒にもなります。大切なのはたったひとつ、それは「心」です。230
実際の日常生活の中で本当に原点に返っているかどうか、日々が挑戦です。努力です。240
流れにしたがって生きていくということは大事だと思います。決定的に生き方が変わったとき、決して自分から「ああしよう」「こうしよう」としない生き方になってきておりました。255 -
行とは行じるものではなく「行じさせていただくもの」
人生とは生きるものではなく「生かされているもの」
行とは、人生とは、ひとつひとつ見えない徳を積み上げていくもの
己とは一体何なのか、人とは一体何なのか、人生とは一体何なのか。こうしたことは、普段すべてが整った幸せすぎる生活の中ではなかなか見えてこないものです。それを知るために自分自身を奮い立たせ、厳しい行に挑むのではなかろうかと思います。
今、崖っぷちに咲いている悟りの花と言いましたが、それは「そこにはどんな花が咲いているんだろう」といくら考えていても実際に見えるものではありません。どんな望遠鏡を使っても見ることはできないでしょう。その場所にまで行って、はじめて出会うことができる花です。どんな想像をしても、どんなに勉強をしても、決してその答えは出ることはないと思います。
人が悩み苦しむのは、頭でわかっても心の中がモヤモヤして、物事をなかなか実践できないからです。それでもあきらめずに人を思いやり、丁寧に生きていると、やがてそれぞれの人生の中に、心の中に、素晴らしい悟りの花と出会える日が来ると思います。また、そのために人はこの世に生まれてくるのではないでしょうか。
「行を終えたら行を捨てよ」
これは回峰行に入る前、二十三歳のときに師匠からいただいた言葉です。
行というものは何回山に行ったとか、どれだけ高い山に登ったとか、そんなことは 一切関係ありません。行はチャレンジでもなければ冒険でもありません。行をしたということ自体を自慢したり勲章にしたりしては間違いですよ、ということです。
「行を終えたら行を捨てよ」というこの言葉は、年々行じていくごとにとても素晴らしい言葉だと思うようになります。行というものは一切のご利益的な考えがあってはならないのです。たとえば、行をしたからこうなりたいとか、他と比較して損得勘定をしたりとか、少しでもそのような心があってはいけないのです。心の中にまるで幼子がいるかのごとく心を無にして、目に見えぬ功徳というものを日日ひとつひとつ積み重ねていくのだと思います。
たとえば今日一日という日にたったひとつの功徳を積むことが、一年で三百六十五個の徳を積み上げることになります。「何事も根気よく、丁寧に、ぼちぼちと」。これが長い長い行を続ける秘訣です。人生の旅も一緒です。
修行の中でも、また人生においても、肉体的、精神的苦痛を受けたときは誰でも辛いものです。そこで妥協せずに乗り越えられるかどうかは、天を衝くぐらいの高い高い目標があるかどうかで決まります。その純粋なる清らかな気持ちが限界をも持ち上げ、時として不可能を可能にする力となります。この力は、本来、人には誰でも備わっているものだと思います。
自分に対する過信は脆いものです。 地に足をつけ、あせらず手を抜かず、一歩一歩歩み続けていれば、必ず自信がついてきます。勇気が湧いてきます。そして神仏が、まわりの人が、必ず守ってくださるのです。
「しなければならない」とか、「やらされている」と思えば、どんどん心が枯れてきて卑屈になってしまいます。しかし同じ環境でも、自分の気持ちで進んで乗り越えさせていただこうと思えばいい縁も広まってまいりますし、自然と笑顔も出てまいります。行も、人生も、卑屈になってはいけません。楽しまなくてはいけません。
そして最も重要なポイントは、人を恨まない人を憎まない、人のせいにしない覚悟を持つことです。もし行の最中、うがいの日を四日目と言った人を少しでも恨んだり、人のせいにしたならば、おそらく今の私はいないでしょう。神さま仏さまはいついかなるときでも、人の心を見ておられます。 -
高低差1300m-距離48kmの山道を、毎日16時間かけて9年間1000日間歩き続ける。しかも完遂できなければ自害しなければならない掟!
なぜそんな超絶大苦行をするのか。なんで?
ブッダの9年間の荒行より辛いんじゃなかろうか。
「体調は悪いか最悪かしかない」って壮絶すぎる。
いつも「お坊さんって何が偉いのかな?」と思ってたけど、この人は間違いなくすごくて偉い。
それだけの、生きるか死ぬかのことをやり遂げた人だからね。
なのに書いてあることばは至って謙虚。
だから重い。
○人生というのは自分の思い通りにならないようにセッティングされている。それをどう克服して感謝の気持ちを学ぶか…
○この世に生を受けた時に人生の旅は始まっている。スポーツに例えれば気付いた時には既に試合が始まっていたようなもの…
凄まじい修行をしてきた人の言葉なんだなと思う。
しかもそれだけやってきた後の、生きるか死ぬかの四無行!どれだけ自分をいじめ抜くのか。
○もし神仏が「お前は世のため人のためにこれからも尽くせ」と判断すれば生きて帰ってこれる。そうでなければ永遠のお別れ。
でもそんな塩沼さんでも二十年も受け入れられなかった人がいたなんて、やっぱり人間の我っていうのは強いものなんだ。そこが神様との違いなんだな。
俺は嫌いな人を受け入れられる日が来るのか。
それにはそれなりの修行が必要なようです…
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我は必要なのか邪魔なのか考えてしまった。生かされていることには感謝したい。
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( オンラインコミュニティ「Book Bar for Leaders」内で紹介 https://www.bizmentor.jp/bookbar )
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阿闍梨への道、険しいですね。
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どんなに偉くなっても、人の下から行きなさい。皆さんにお仕えさせていただくという気持ちは忘れてはいけない
現実を受け入れ愚痴らず精いっぱい生きると、そこに道が開けてくる -
塩沼亮潤大阿闍梨は、大峯山の千日回峰行を満行したお坊さんで、その後四無行という食べず・飲まず・寝ず・横にならずを9日間続けるという厳しく危険な行も満行するという、うちから見たら超人な方だ。
この本は千日回峰行中の話だけでなく、幼少の頃のことや千日回峰行に向かったきっかけの話にも触れられている。
これだけ偉いお坊さんなのに親しみやすい文章で、人生でとても大切なことを教えてくれた。塩沼さんは貧しい母子家庭で育ったが、何もないからいろいろな良いものが生まれるとあり、ハッとさせられた。うちも非正規雇用だけど、捉え方1つで幸せ豊かさを感じることができるんだと学んだ。