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- / ISBN・EAN: 4547462046499
感想・レビュー・書評
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わかりやすいけれど、芯の部分にまで触れられていない気がする。人生をなぞるだけでなく、もう一歩踏み込んでほしかった。教科書っぽい。
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インドの非暴力非服従運動家であるマハトマ・ガンジーの生涯を描いた伝記映画。ガンジーの歩んできた軌跡を忠実かつ壮大に描いてはいるが、あくまで事実を淡々と描いているので映画的に面白いかどうかは微妙な感じ。ベン・キングズレーがガンジーを演じているのだが、ガンジーの生き写しそのものと言わんばかりのなりきりぶりが凄かった。そこは認める。
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ガンジーのことをダイジェストで伝えるための映画のような趣。かなり駆け足に、ポイントとなる場面を映像化した。事前にある程度知識があるうえで鑑賞すると楽しいのでは。中身の濃い偉人を映画で表すとこうならざるを得ない。
逆によく知っている人からは物足りないかもしれない。 -
当時無名だったベン・キングズレーは本作でアカデミー賞を受賞して名優への道を歩んでいくわけですが、後年の彼の姿を見てもこのガンジーとは結びつかない。報道写真でみた有名なガンジーそっくりの見事な「なりきりぶり」は必見。
この映画で彼の「非暴力・非服従」による抵抗運動はなにより印象に残りますが(痛めつけられて倒れる民衆の姿は痛ましい)、もうひとつ印象に残るのは、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒との抜き差しならない対立。
宗教に対しては寛容であったガンジーでもヒンドゥ教徒とイスラム教徒との対立を宥和することはできず、結局インドの独立の際にイスラム教徒はパキスタンとして分離独立し、ガンジーも最後はイスラム教徒の凶弾に斃れる。あの偉大なるガンジーでも解決できなかった問題はもちろん今の続いているわけです・・・。 -
「彼の勝利は世界を永久に変えた」
南アフリカ、1893年。
皮膚の浅黒い一人の青年紳士が列車の一等車に乗っていたため放り出された。この人種差別に、青年は激しい怒りを覚えた。青年の名はモハンダス・K・ガンジー(ベン・キングズレー)。
ロンドンで学んだ彼は、インド人商社の顧問弁護士として南アフリカのダーバンへ渡って来たのだ。彼はインド人移民に呼びかけて、身分証明カードを焼き拾てることを提唱する。
そんな彼を支援するイギリス人牧師アンドリューズ(イアン・チャールソン)と、取材にあたる『ニューヨーク・タイムズ』の記者ウォーカー(マーティン・シーン)。
ガンジーは暴力をいっさい用いずに闘うことを信条とし、“生涯禁欲”の誓いを立て、アシュラム(共同農園)を建設。彼の差別反対闘争にインド人労働者たちも次第に結束し始めた。
1915年ボンベイに戻ったガンジーはインド国民から英雄として迎えられた。当時、インドの指導的立場にある人々は、イギリスからの独立を願っており、彼らの中には、後に首相となるネール(ロシャン・セス)もいた。ガンジーはイギリス支配下にある祖国をつぶさに見て歩き、チャンパランという寒村では、小作人の権利を守るため地主と闘い逮捕された。イギリスは言論、思想、集会の自由を抑圧した法律を第一次大戦後のインドに適用したため、ガンジーは1919年4月6日を全国民の祈りと断食の日とし、ストライキを呼びかけた。
ガンジーは逮捕されたが、今や“マハトマ(偉大なる魂)”と呼ばれ、全国民の精神的支柱となった彼を裁判にかけることは不可能だった。だが、この騒動の際中に、イギリスのダイヤー将軍(エドワード・フォックス)率いる軍隊が、アムリツァールの公園で集会中の群衆に発砲し1516人の死傷者を出すという事件が起こった。
2年後、ガンジーは、英国製の衣類を焼くように呼びかけるなどイギリスに抵抗するが、国民のイギリスに対する不満は、流血の暴動となって現われた。これを嘆いたガンジーは断食で無言の説得を行ない鎮静させる。その直後ガンジーはイギリスに対する非協力で逮捕され、6年の刑で投獄された。だが、判事のブルームフィールド(トレヴァー・ハワード)は、ガンジーに同情的だった。
数年後、ガンジーは、イギリス人が独占していた製塩事業に対抗するため、民衆と共にダンディーの海岸へ向けて“塩の大行進”を決行。インド人による製塩所を設立したが、軌道に乗った頃にイギリス軍に取り上げられ、無抵抗の民衆は容赦なく殴打され、ガンジーは逮捕された。1931年、釈放されたガンジーはアーウィン卿(ジョン・ギールグッド)と交渉の結果、ロンドンの円卓会議に出席したが、独立は勝ち取れなかった。
やがて第二次大戦が勃発。
戦争に反対するガンジーは、アガーカーン宮殿に収容された。その彼を、『ライフ』の女性記者バーク=ホワイト(キャンディス・バーゲン)がカメラに撮り続けた。独立を目前にしたインドだったが、回教徒はヒンズー教徒と袂を分かち、1947年8月、アリ・ジンナー(A・パダムゼ)を指導者としてパキスタンを建国。そのため、国境を中心として両教徒の間で衝突が激化、内戦状態になった。これを悲しんだガンジーは、カルカッタで断食を行ない、民衆に武器を捨てさせることに成功した。
1948年1月30日。マハトマ・ガンジーは、デリーで夕べの祈りをしている時、ヒンズー教極右派のヴィナヤク・N・ゴードセーによって暗殺された。時にガンジー78歳。
葬儀には250万を越える人々が集まり、遺灰は聖なるガンジス川に流された。 -
いつの世にもガンジーのような人が居てくれたら…。
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思った以上に長くてびっくりした笑
しかし人間じゃないなぁ。こんな生き方していた人が実在したなんて、正直信じられない。 -
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2012/01/27
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2012/01/29
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非暴力、非服従の精神で最後まで民と同じ立場に立っていたガンジーの悲しみ。あなたは偉大でした。泣。