- Amazon.co.jp ・電子書籍 (252ページ)
感想・レビュー・書評
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途中までビリー・ピルグリムの思考の飛び具合(時間旅行)をそれが戦時下の兵士の記憶であれ楽しんで読んでたけど、ドレスデン空爆の所とヒロシマの原爆の話出てきたあたりからもう楽しく読むのは終わって、そうだこれこういう話だったと思いながら静かに読み終わった。ビリー・ピルグリムのすべてはなるようにしかならないよという雰囲気や振る舞い、物の感じ方捉え方に親近感を覚えてテンションが上がっていたけれど、そうやって同調してる時にドレスデンとヒロシマの話されてしまうので精神にすごいダメージをくらってしまった。
最後まで読めばこの胸に重い石を乗せられたような気持ちを払うなにかすばらしい文章が、そんな結末があってほしい、あるはずだと思って読むんですけどそんなものはない。そんなものはなかった。この重い石を乗せたままこれからも生き方を模索して生きなきゃならない。答えなどなかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヴォネガットのエッセイ『国のない男』を先に読んでからの本書。この順番は大正解。
本書だけ読んでいたらSF小説としか感じなかったと思うけれど、『国の…』を読むと、本書はヴォネガット自身の戦争体験をふまえて練られた思想をSFという形を借りて書かれた哲学書、という解釈ができる。 -
5巻でなく第6長編そういうものだ▲時の流れの呪縛から解き放たれ、自分の生涯、未来と過去とを往来する、奇妙な時間旅行者になった彼が見たものは?▼取り返しのつかないことをしてしまった…そういうものだ…と流すしかない話。時系列のガン無視は、いまの時代では違和感もなく読めるが、初読時ぶっ飛んだ覚えあり。予定調和なのか、普遍的なアレなのか、達観とも違う。幸不幸が瞬間的に入れ替わる。ザッピングならまだしも実時間での強制転移は、さぞ苦痛だろう。これまで5冊のオールスターキャストで挑んだ傑作。そういうものだ(1969年)
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So it goes..
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時間をぐるっと俯瞰してる感じなのが面白かった。
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Kindleで。
ドイツに捕まったアメリカ人捕虜、ビリー・ピルグリムが主人公だが、モデルは著者自身で、実際の捕虜体験をベースに書いているとか。
カート・ヴォネガットの最高傑作と言われたりするが、良さがちょっとわからなかった。
「そういうものだ。」ということで。
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わたしは知的生命の存在する三十一の惑星を訪れ、その他百以上の惑星に関する報告書を読んできた。しかしそのなかで、自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ
人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこう付け加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」
思うんだがね、あんたたちはそろそろ、すてきな新しい嘘をたくさんこしらえなきいけないんじゃないか。でないと、みんな生きてくのがいやんなっちまうぜ -
死ぬ人。
人を死に至らしめる人。
それを見ている自分。
その死をまったくあずかり知らない、あかの他人。
それらすべて含めて、So it goes.
果てしなく広い宇宙の中で、生まれて死ぬドラマのちっぽけさ。
こりゃあいったいなんなんだ?
と理不尽さを笑いながらも、
この世が良くなることを決して諦めていない、作者の強い志を感じる。
こういうおっさんになりたい。 -
戦争の話。単純比較できんけど、広島や長崎の原爆よりも多くの人が命を落としたというドレスデンの空爆を体験した人の話。そういうものだ。年代はすぐ飛ぶんやけど、妙に淡々と語られている。昔のタイトルは屠殺場五号といったらしい。
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何度読んでも面白いものは面白いもの。
ただ、寓意による皮肉と、意識の流れの両立のために、これほどプロットを作りこんだのはすごいが、それが文学性につながるとは限らない -
「そういうものだ」という言葉で、重いテーマである戦争、死を軽妙に伝えてくれる。重さを感じられない軽さ。
色んな時代に時間旅行する主人公がたくましいのか弱いのか。どの時間が正しいのか正しくないのか分からなくなる世界が面白い。
ドレスデンの悲劇に対して広島の原爆がちっぽけなもののように書かれていて残念だったが、おおらかに解釈しようと思った。 -
そういうものだ。
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「時の流れの呪縛から解き放たれたビリー・ピルグリムは、自分の生涯の未来と過去とを往来する、奇妙な時間旅行者になっていた。大富豪の娘と幸福な結婚生活を送り……異星人に誘拐されてトラルファマドール星の動物園に収容され……やがては第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、連合軍によるドレスデン無差別爆撃を受けるビリー。時間の迷路の果てに彼が見たものは何か? 著者自身の戦争体験をまじえて描き、映画化もされた半自伝的長篇。」
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池澤夏樹・選 カート・ヴォネガット
①『猫のゆりかご』(伊藤典夫訳/ハヤカワ文庫)
②『スローターハウス5』(伊藤典夫訳/ハヤカワ文庫)
③『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』(朝倉久志訳/ハヤカワ文庫)
「カート・ヴォネガットは圧倒的に若者の作家だった。アメリカ文学に特有のイノセンスが彼にはあった。若者は社会のありかたについて疑問を突きつけ、改革を夢見る。だから彼はアメリカに社会主義を、と言った。言ってみれば明るいペシミスト。第二次世界大戦の捕虜体験と冷戦の非常な論理を見て人間性に絶望するけれども、その絶望を手を替え品を替え、陽気に、愉快に、皮肉に、SFを使い、寓話を使い、とんでもないストーリーを考案して苦い笑いと共に語る。
『スローターハウス5』は作者が第二次世界大戦中に捕虜としてドレスデンで体験した悲惨な大空襲を主題にしている。しかし話は、トラルファマドール星人という宇宙人に誘拐された実に冴えない男の思索と行動というもう一つの軸に沿って展開される。SF化された自伝が可能だとすればこんなものになるだろう。」
(『作家が選ぶ名著名作 わたしのベスト3』毎日新聞出版 p86より) -
戦争を経験した著者の体験が色濃く影を落としている作品。
「そういうものだ」皮肉なのか、あるいは虚無的な感覚を表しているのか、よくわからない。支離滅裂な感じもする。奇妙な物語。でも、どこか心惹かれるところがあった。 -
お口直しに、オーディブルはカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』を聞き始める。高校生くらいのときに読んだ気がするけど、すっかり忘れてた。本編とはほとんど関係ないのだけど、こんな一節が耳に飛び込んできた。
「第二次大戦ののち、わたしはしばらくシカゴ大学に通った。人類学科の学生であった。当時そこでは、人間個々人のあいだいに差異というものは存在しないと教えていた。いまでもそう教えているかもしれない。
もうひとつ人類学科で学んだのは、この世に、奇矯とか、性悪とか、低劣といわれる人間はひとりもいないということである。わたしの父が、亡くなる少し前、わたしにこういった、「おまえは小説のなかで一度も悪人を書いたことがなかったな」
それも戦後、大学で教わったことのひとつだ、とわたしは答えた」
後半はいいとして、衝撃を受けたのは前半だ。これ、マジか? 目に見える、文化的な差異の奥にある人間性に優劣はない、だから異文化を見た目だけで判断してはいけない、という教えというならわかるのだけど、「個々人の差異」というのは、おそらくもっと根本的な部分の話だ。差異がないなら、異文化も異民族も異人種もないことになるが、それをほかでもない人類学で教えてた? 表面的な差異の奥に隠された共通項を探り、それを押さえたうえで、個々の違いに目を向けて、異文化を理解しようという試みこそ、文化人類学ではなかったのか? それとも、これは「人類学」であって、「文化人類学」ではないということなのだろうか???
オーディブルはカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』の続き。
「聞きたまえ――
ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。」
「ビリーは、けいれん的時間旅行者である。つぎの行先をみずからコントロールする力はな。したがって度は必ずしも楽しいものではない。人生のどの場面をつぎに演じることになるかわからないので、いつも場おくれ(ステージ・フライト)の状態におかれている」
ビリーは歩兵としてヨーロッパ戦線におもむき、ドイツ軍の捕虜になり、ドレスデン爆撃(wikipediaより「4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、市の調査結果によれば死者数は25,000人だとされる」)に遭遇した。そのビリーが時間旅行者となり、現在・過去・未来を行き来する(ただし、自由意志ではなく)という設定で、昔読んだときの記憶がないのは、このふらふらとあちこち行ったり来たりした、とりとめのない語りが、年少の自分にはフィットしなかったのだろう。
だが、アンソニー・ホプキンス主演の映画『ファーザー』を見て、アルツハイマー病患者にとっての現実認識は物事の時系列(≒因果関係)が失われるだけでなく、遠い昔のことも昨日のことも夢かうつつかの区別もつかなくなり、「ひとりタイムトラベラー状態」に近いと知ってからは、こういう時間SFは、混濁した心理をありのままに描写した「リアルな知覚体験」なのではないかと思うようになった。それは、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のとっちらかった印象が、実はADHDが日々経験している「現実認識」を描いたものだと知ったときの驚きと近い。論理的なつながりのないシーンが走馬灯のように次々と現れては消え、消えてはまた別のシーンが現れて心を乱すという状態を、文字に記そうとすれば、こういう、とりとめのない語りにならざるを得ない。さまざまな音が入り乱れ、聞くものを混乱と興奮に突き落とすラサーン・ローランド・カークの「溢れ出る涙」も目の見えないラサーンのLSD体験そのものらしいと聞くと、このヴォネガットの記述も、あまりの過酷さにPTSDを患った人の、かなりストレートな心理描写なのではないかと思えてくる。
ビリーは行く先々で人びとの死に出会う。そのたびに「そういうものだ。」という悟りとも諦観ともつかないつぶやきが続くのだけど、何度もくり返し「そういうものだ。」と耳にしていると、次第に「そういうものだ。」という言葉が宗教そのもののような気がしてくる。
「わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。たとえば、トラルファマドール星人は、ちょうどわれわれがロッキー山脈をながめると同じように、あらゆる異なる瞬間を一望のうちにおさめることができる。彼らにとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った瞬間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚にすぎない。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。」
宗教はあくことなき人間の欲望を戒め、感情にフタをすることを強いる。なぜこんなものが長らく人類に受け入れられてきたのだろうといつも疑問に思っていたのだけど、たぶん、こういうことだ。歴史上、ほとんどの時代のほとんどの人たちにとって、人生はつねに過酷なものだった。忘れたころに天災に襲われ、誰も悪くないのに飢餓に陥り、理不尽に戦争に駆り出され、意味もなく家族や友人を失い、働けど働けど生活は楽にならず重税にあえぐ。つらい日々をやりすごすためには、欲を抑え、感情にフタをし、できるだけ平穏に暮らすしかない。
宗教がもたらす「心の平穏」「悟り」というのは、つまり、そういう過酷な現実とは距離をとり、シャットアウトしてなかったことにすることで、感情を動かされない状態を指す。逆にいうと、そう思わないとやってられないほど、生きているのがつらかったということの裏返しでもあるのだろう。世界を見渡せばいまだに紛争が絶えず、1億を超える人たちがいまこの瞬間も生活の場を奪われ、難民生活を余儀なくされている。そういう人たちにとって、(たとえ、「神はつねに不在」であり、いまこの瞬間苦しんでいる人たちを救う、現実的な解決策をもたないものだとしても)宗教だけが心の支えであることを否定するものではないけれど、一方で、日本は戦後80年近くにわたって戦争を経験していない。そういう太平な世が長く続けば、自由な感情表現を否定した宗教の負の側面のほうが目立ってくる。禁欲的な宗教のタブーは、往々にして足かせにしかならない。AIが煩わしい作業を全部やってくれるようになったら、自由にいろいろ試行錯誤してみることに、いま以上の価値が出てくるのは間違いなく、宗教的なタブーが少ない日本人に有利じゃないかと思うのだけど、どうだろうか。
「神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ
ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなには、過去と、現在と、そして未来がある。」
未来も変えられないのだとしたら、「変えることのできる物事」なんて何もないことになる。テッド・チャン『あなたの人生の物語』のヘプタポッドも時間を見通す目をもっていたが、「そうなると知っているからそうする」世界にあっては、自由意志なんてなんの意味もなく、自分の意志で選択できるというのは幻想にすぎないのでは?
オーディブルはカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』の続き。
自分の意思とは無関係に時間旅行であちこち飛ばされる(それはふとした瞬間に細切れの記憶がよみがり、そのたびに悪夢にうなされるPTSD的な体験と重なる)ビリー:ピルグリムには、自由意志なんてものは存在しないのかもしれない。トラルファマドール星人がそんなものの存在を考えもしなかったように。
「なぜ、わたしが?」
「それがきわめて地球人的な質問だね、ピルグリムくん。なぜ、きみが? それをいうなら、なぜわれわれが? なぜあらゆるものが? そのわけは、この瞬間がたんにあるからだ。きみは琥珀のなかに捕らえられた虫を見たことがあるかね?」「われわれにしたって同じことさ、ピルグリムくん、この瞬間という琥珀に閉じこめられている。なぜというものはないのだ」
時間が「時系列に」「一方向に」流れない世界では、あることが原因となって結果が現れる因果律はそもそも成り立たない。選択の自由もないし、なぜと問うことさえ意味がなくなる。ただそれを受け入れるだけだ。
「どうして――どうしてわたしはこんなところにいるんだ?」
「それは地球人でなくては説明できないね。地球人は偉大な説明家だ。これこれのできごとがこうした構図になっているのはなぜか、これを避けるには、あるいはべつの結果を得るにはどうしたらよいか、みんな説明してくれる。わたしはトラルファマドール星人だ。きみたちがロッキー山脈をながめるのと同じように、すべての時間を見ることができる。すべての時間とは、すべての時間だ。それは決して変る
ことはない。予告や説明によって、いささかも動かされるものではない。それは、ただあるのだ。瞬間瞬間をとりだせば、きみたちにもわれわれが、まえにいったように琥珀のなかの虫でしかないことがわかるだろう」
「いまの話からすると、きみたちは自由意志というものを信じていないようだね」
「もしわたしがこれまで多くの時間を地球人の研究に費してこなかったら」「”自由意志”などといわれても難のことかわからなかっただろう。わたしは知的生命の存在する三十一の惑星を訪れ、その他百以上の惑星に関する報告書を読んできた。しかしそのなかで、自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ」
(星のマークで隔てられた記号のかたまりが点々と並ぶトラルファマドール星の本を見たビリーが「電報のようだ」といったことに対して)
「トラルファマドール星には電報というものはない。しかしきみの考えはまちがってはいない。記号のかたまりは、それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだーーそれぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のメッセージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終りもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ」
「われわれは宇宙がどのように滅びるかを知っている――」「これには地球は何の関わりあいもないんだ、地球もいっしょに消滅するという点を除けばね」
「いったい――いったい宇宙はどんなふうに滅びるのですか?」
「われわれが吹きとばしてしまうんだ――空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラルファマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」
「それを知っていて」「くいとめる方法は何もないのですか? パイロットにボタンを押させないようにすることはできないのですか?」
「彼は常にそれを押してきた。そして押しつづけるのだ。われわれは常に押させてきたし、押させつづけるのだ。時間はそのような構造になっているんだよ」
「すると――」「地球上の戦争をくいとめる考えも、バカだということになる」
「もちろん」
「しかし、あなたたちの星は平和ではありませんか」
「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることは、われわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい時間をながめながら、われわれは永遠をついやす――ちょうど今日のこの動物園のように。これをすてきな瞬間だと思わないかね?」
「思います」
「それだけは、努力すれば地球人にもできるようになるかもしれない。いやな時は無視し、楽しい時に心を集中するのだ」
達観や悟りというのが、自分にはコントロールできない外界との接触に制限を加え、感情にフタをし、我欲を手放すことを意味していて、ある種の諦めと似た感じがするのは、それが「時分にはコントロールできない」からだという、ごく当たり前の結論に思い至る。すべてが変えられないなら、欲望に身を持ち崩すこともないし、不意打ちを食らって動揺することも、傷つくこともない。どうあがいても「なるようにしかならない」し、「そういうものだ」とあきらめるしかない。それがニルヴァーナということなんだろう。楽しい瞬間、いまここにだけ意識を集中して、それ以外の外界をシャットアウトすれば、快楽は得られるかもしれないけど、それってホントに楽しいの?
オーディブルはカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』の続き。
「きょうこそ、わたしが死んだ日なのです」
「何十年もむかしのことですが、ある男がいつかわたしを殺すと約束しました。いま彼は老人となり、ここからほど遠くないところに住んでいます。わたしがみなさんの美しい都を訪問することも、あらゆる報道を通じて知っています。彼は狂人です。今夜、約束を果たすでしょう」
「もしみなさんがこれに抗議されるのなら、死がつらい悲しいものだと考えておられるのなら、わたしのいったことは一言もみなさんには通じていない」「さようなら、こんにちは、さようなら、こんにちは」
「いやいや」「あなたたちは家で待つ奥さんやお子さんのたちのところへお帰りなさい。わたしはしばらくのあいだ死にます――そしてまた生きるのですから」
ドレスデンへ移送されたアメリカ人捕虜たちが収容されたのは「シュラハトホーフ=フュンフ」、英語で「スローターハウス(食肉処理場)ファイヴ」だった。
ビリーはヴァーモント州シュガーブッシュ山の頂上に激突して墜落したチャーター機の2人の生き残りのうちの1人だった。頭蓋骨折したビリーはこじんまりした私立病院に運び込まれ、3時間の外科手術のあと、2日間無意識のさかいをさまよい、数しれぬ夢を見た。その中には本当のこと=時間旅行も含まれていた。本当のこと? やはりこの物語は意識が混濁した人間の夢現の世界なのか?
「遅かれ早かれ共産主義者たちと戦う羽目になるのだ。なぜいますぐ行動を起こさない?」
キャンベル(ナチ党員に転向したアメリカ人、ハワード・キャンベルのこと)の問いかけは投げつけられたままで終わらなかった。死を運命づけられたハイスクール教師、哀れな中年のエドガー・ダービーが、彼の生涯でおそらくもっとも輝かしい瞬間をむかえるため、がたがたと音をたてて立ちあがった。この小説には、性格らしい性格を持つ人物はほとんど現れないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。いずれにせよ戦争とは、人びとから人間としての性格を奪うことなのだ。しかしいまダービーは、ひとりの人間であった」
ヒューマニティを徹底的に否定する戦争と、悲惨な経験を無理やり消化するために感情にフタをし、人間らしい欲望と感情の発露を抑え込もうとする宗教。宗教はもともと戦争や飢餓、天変地異、重税、重労働などの生き苦しさを逃れ、忘れ、癒やすためのツールだったはずなのに、結果として、戦争をはじめとした悲惨な経験がもたらす心理状態に「あらかじめ慣れておく」ことを提唱しているだけなのかもしれない。外的要因をコントロールできないものとして「意識の外」に追いやることで、内面の平穏を保とうとする行為は、実は、人間の内面で暴れ回っている欲望や衝動などの心の動き(それ自体は発明・発見・創作のタネにもなれば、悪さをするときの動機にもなる)を抑え込み、結果として人間らしさを奪ってしまう。これが人間を救うフリして、人間を抑え込むことしかできない宗教の限界だと思うのだけど、どうだろうか。
オーディブルはカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』が今朝でおしまい。
「あれはやむをえなかったのだ」ラムファードはドレスデン爆撃のことを話題にした。
「わかっています」と、ビリーはいった。
「それが戦争なんだ」
「わかっています。べつに文句をいいたいわけではないのです」
「地上は地獄だったろう」
「地獄でした」
「あれをしなければならなかった男たちをあわれんでくれ」
「あわれんでいます」
「地上にいるあんたは複雑な気持だったろう」
「いいんです」と、ビリーはいった。「何であろうといいんです。人間はみんな自分のすることをしなければならないのですから。わたしはトラルファマドール星でそれを学びました」
「プーティーウィッ?」 -
人生ベストSFのうちの一冊。
この本から得た着想は、読後私の人生のさまざまな方面へ波及していくことになる……。
以下、読了当時の感想。
出来事を俯瞰的に捉える意識と、その時間を生きる主観が同時に存在している。どんな苦痛であってもそれは仕方のないこと、というよりもただ「そういうものだ」というだけのものであって、受け入れていく。受け入れざるを得ないものである。そういうものだ。そして読者としては、その俯瞰する意識と時間を生きる主観をさらに、俯瞰的に眺める。そうして、いっそう、そういうものでしかなさが理解される。わたしの人生もやっぱりそういうものなのだと、ビリーの目指した”視野”の布教が部分的に成立する。 大概の価値観は因果と共にある。 -
いい瞬間だけを好きなだけしがめるトラファマドール星人と、人間には大きな違いがあるので、トラファマドール的視点で人生なんぞながめるもんではないなと思う。
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賞をとった作品らしいがあまり目新しいとも良いとも思わなかった。よくあるSF小説。強いて言うならJ.Gバラードの太陽の帝国とか樺山三英のゴーストオブユートピアの1984に似ている。ただ本作よりも私は今あげた2作の方が好きだ。
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“けいれん的時間旅行”だから、物語はあちこちに、無秩序に飛び火しているようで、核にあるのはヴォネガットの戦争体験に他ならない。ドレスデンの爆撃は彼のその前の、その後の、人生を時空を超えて規定し直す。決定的出来事は、記憶をフィクショナルに改竄する。
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【オンライン読書会開催!】
読書会コミュニティ「猫町倶楽部」の課題本です
■2021年10月29日(金)20:30~22:15
https://nekomachi-club.com/events/4b4c6a111e70
■2021年11月17日(水)20:30~22:15
https://nekomachi-club.com/events/580c6dd45f2c -
スローターハウスは第5屠殺場。
トラルファマドール星人のように宇宙の終末を知ってなお素晴らしい景色だけ見続けるというのはある種人間が生きるための哲学だと思う。
その哲学によれば、ビリーにとってはドレスデンの爆撃で亡くなった15万人も、自らの近くで亡くなっていった人々、妻やローランドやエドガーも、この世からいなくなる人々(自分も含めて)だが、同時に生きている人々(時間跳躍によりいつでも会える人々)であり、死はただの現象としか捉えられないと思う。
そういうものだ。 -
SFではない。
完全記憶能力があるとすれば、過去の出来事も今起きているのと変わらない臨場感で自分の前に現れるだろうか。また、すべてではなくとも、強烈で途方もない衝撃となるような、到底忘れることができない体験があったとして、その出来事は死ぬまで自分につきまとい、まるで今あったことのように、幾度も再現されるだろうか。
フラッシュバック。時間旅行。
永劫は、忘却の反対語なのだろうか。 -
人生の様々な不幸等について「そういうものだ」と言うことしかできない、言わざるを得ない男が描く、戦争の悲劇。あまりに辛い出来事を形にするには、コメディタッチにする以外に方法は無いのかもしれないと、心底思った小説だ。もちろん、人によるだろうが。
そして、酷い殺戮や戦争について、「プーティウィッ?」と人間に問いかける鳥。この鳥の問いかけを、どう解釈するか。これこそ、“人による”ものなのかもしれないと、今の時代、強く感じさせられた。 -
今夜の論題は、小説は死んだか、であった。そういうものだ。
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オリジナル1969年。翻訳版1973年刊行。
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変えることの出来ない物事を、
受け入れる落ち着きと、
変えることのできる物事を、
変える勇気と、
その違いを常に見分ける知恵とを、
さずけたまえ。
変えることのできない物の中には、
過去と、
現在と、
そして未来がある。
So it goes.
そういうものだ。 -
運命は荒れ狂い、人はそれに翻弄され続ける。まあ、そういうものだ。どうせこんな本読んだって、次の日には腹いっぱい飯食って糞して寝て、内容なんて忘れちゃう。安全な先進国に住んで、戦争反対を叫ぶほど気持ちのいいマスターベーションはない。とにかく、インテリなリベラルが書いた小説なんて迷惑なもんだ。お前のことだよ、ヴォネガット。この本を再読して分かったのは、ヴォネガットも他の作家と同じく、デブでマッチョ志向なヤンキーが嫌いだ、ということだ。そういう奴は本読まないしね。でもウェアリーは南部出身じゃないんだね。
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物凄く久々に、Kindleで再読。電子ブック偉大。