悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書) [Kindle]

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  • 普段は政治を他人任せにしている、何も考えていない「大衆」は、安直な安心材料や分かりやすいイデオロギーのようなものを求める。それを与えてくれたのがナチズム。
    オウム真理教に傾倒した人たちも、そうだったのかもしれない。
    ナチスは「ユダヤ人がいない世界」ではなく、「そもそもユダヤ人などいなかった世界」に仕立てようとした。それが可能だったのは、ナチスがドイツ人からも「道徳的人格」を奪っていたかららしい。この「道徳的人格」という概念は初めて知った。
    道徳的人格が否定された存在を殺すのは、物質を壊すことと同じ。


    「異なった意見を持つ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます。」
    全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は「自分は分かっている」と信じている人の集まりだ、というのは覚えておいて自戒したい。
    私もいつアイヒマンになってしまうかわからない。恐ろしい。
    「自分と異なる意見を持ってる人と本当に接し、説得し合う」ことをしていきたい。


    『全体主義の起源』を読んでみたいけど、難しそう…。

  •  『全体主義の起源』で有名なハンナ・アーレントの伝記や著作をもとに、全体主義とはどんなもので、どんな背景から生まれ、何故広まったかを検証する。アーレントの著作はかなり難解なので多くの解説書が出ているが、本書は単にその主張をなぞるだけではなく、現代の世界や日本の状況にも当てはめる形で理解を深めている。

     アーレントはナチスから逃れてアメリカに亡命したユダヤ人であるため、まずはナチスのユダヤ人政策が掘り下げられる。フランスのドレフュス事件に現れるように、反ユダヤ主義はナチスが始めたわけではなくヨーロッパに以前から存在したもので、ナチスはそれを利用したに過ぎない。

     では何故ヨーロッパに反ユダヤ主義が生まれたのかというと、国民意識と関係している。国王と家臣と領民からなる従来の国家と異なり、国民国家は国民の同質性を基盤としている。同質性が存在するには同質でないもの、つまり「敵」を必要とする。ユダヤ人は社会の敵として、自分たちの社会に問題があった時に責任をなすりつける相手として格好の存在だった。

     全体主義運動は大衆運動だとアーレントは言う。ナチスがユダヤ人を排斥したのはユダヤ人を憎んでいたからではなく、多数派のドイツ人にとってそれが魅力的な方法だったからだ。ユダヤ人が世界を支配しようとしているという世界観は、社会に対する自分たちの責任を回避するのに都合が良い。「大衆」がそういうものを望んだのである。

     著者が何度か指摘するように、同じような大衆心理は現在もしばしば現れる。日本でも時々「本当の日本人」などと言う表現が出てくる。近年も「純ジャパ」なる言葉が物議を醸した。「本当の日本人」がいるなら「本当ではない日本人」がいることになる。この思想から異分子の排斥まではほんのわずかな距離だ。

     全体主義やファシズムの代名詞ともなったナチスはヒトラーという独裁者とセットで語られるが、全体主義の本質は独裁でも恐怖支配でもない。多数派が安直な安心感を得るために少数派を排斥することであり、それを一般大衆が支持することだ。つまり全体主義は民主主義からこそ生まれてくる。現代の民主主義国に生きる私たちには、自分たちの社会に全体主義の萌芽が出てきていないか、常に注意を払う必要と責任があると思う。

  • 『イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』の著者ハンナ・アーレントから悪と全体主義について考察した本。
    この本を読むまで、アイヒマンは、自分が助かるために「法に従っただけ」「軍に従っただけ」と弁明している矮小な人物というイメージがあった。けれど、そうではなく、こう言えば反感を買うとわかっていて、終始自分がやったことの意味・意義、遵法の精神について冷静な態度で落ち着いて何時間も話したとか。「法」の正しさ。プラトンの『悪法もまた法なり』について考えさせられる。
    全体主義に陥らないためには、複合的な視点を持つこと。
    それは自分の主義主張を裏付ける意見を取り入れるのではなく、反対意見にこそあること。
    そして、討論は勝ち負けではなく、意見を高めるために行うもので、相手の弱い部分、浅い部分をつけこむ態度ではいけないこと。
    情報のあふれるインターネット社会で、簡単に自分の主張を肯定する意見が手に入り、弱点のある論理的でない箇所のある反論もまた簡単に手に入るからこそ、心がけたい。

  • 著者の『今こそアーレントを読み直す』は、仮面と闇と役割、というあたりが好きでした。

    本書ではその辺りは闇をのぞいてほぼなくなっていたりと、大体同じような内容のところも2冊で微妙に違っていてそれはそれで面白かった。

  • 前半のユダヤ人迫害の歴史を読んでいるうちは、正直あまり面白いとは思わなかった。ふぅん、という感じはあるんだけど、今の問題意識とはちがったから。後半のアイヒマンとかミルグラムの実験の話が出てきて、がぜん面白くなってきた。まさに、今生きている自分たちが考えるべき問題だと思えた。

     複数性に耐え、わかりやすさの罠にはまってはならない。

     アーレントは『エルサレムのアイヒマン』のエピローグで、アイヒマンに語りかけたという。

    「君が大量虐殺組織の従順な道具になったのはひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえに積極的に支持したという事実は変わらない。」

     アイヒマンとその上司=ナチスはユダヤ人というひとつの民族、国民との共存を拒み、人類の複数性を抹殺しようとした。そうした人間と共存することはできない。アイヒマンが処刑されなければならなかった理由が、それが唯一の理由であり、彼の内心、内面などを追及する話ではない。

     社会生活を送る中で、自分がいつアイヒマンになるかわかったものではない。ここで出てきた問題というのは、これからも考え続けなければならないと思う。

  • ● 位置: 331
    かなり溶け込んでいたのに(むしろ溶け込んでいたからこそ)、十九世紀になってユダヤ人は改めて迫害の標的とされてしまった。それは、ちょうどその頃に西欧で勃興した近代的な「国民国家」が、スケープゴートを必要としていたからであり、そこには国家の求心力を高めるための「異分子排除のメカニズム」が働いていた、とアーレントは考察しています。十九世紀の反ユダヤ主義は、異教徒や異質な人間に対する漠然とした憎悪ではなく、国家の構造やイデオロギーと密接に結びついた現象だったというわけです。

    ● 位置: 679
    西欧諸国の帝国化が加速したのは十九世紀の後半。その罪過としてアーレントが注目したのは、「人種」思想と「民族」的ナショナリズムです。帝国主義がもたらしたこの二つの思潮は、やがて国民国家を解体へと向かわせ、それが全体主義に継承されていったのだと指摘するのです。国民国家の基盤である「国民」意識は「排除」のメカニズムを起動しただけでなく、帝国化を推し進める「拡張」のエンジンとなって、国民国家の枠組みを自ら壊していったのです。  なぜ、このような本末転倒が起こったのか。その原因として、国民国家と帝国主義は、そもそも相容れないものだったとアーレントは分析しています。

    ● 位置: 752
    ヨーロッパ人はずっと以前からアフリカやアジアにいる非白人の存在を知っていましたが、「人種」ということを本格的に意識するようになったのは、帝国主義的な政策を通して、多くのヨーロッパ人がアフリカなどで長期にわたって生活し、非白人的な世界の存在を身をもって知るようになって以降だといってもいいでしょう。「彼ら」に取り囲まれて、少数派として生きていくことに対する不安が、「人種」的な優越感という転倒した形で表れてきたのかもしれません

    ● 位置: 961
    民族的ナショナリズムを正当化するために彼らが持ち出したもの──それは「血」でした。これも虚構にすぎないとアーレントは指摘していますが、我々はどこかで「血」がつながっている血族であり、これこそが唯一にして最も重要なのだと主張し始めたわけです。  ドイツ民族の土地を拡大解釈する汎ドイツ(汎ゲルマン)主義が勃興したように、ロシアでも汎スラブ(実際には汎ロシア)主義が台頭。ロシアは、自分たちこそビザンツ帝国(* 16) の正統な後継者だと主張し、スラブ民族とロシア文化を神聖視する思想をつくり上げていきました

    ● 位置: 1,009
    無国籍ということは現代史の最も新しい現象であり、無国籍者はその最も新しい人間集団である。第一次世界大戦の直後に始まった途方もない規模の難民の流れから生まれ、ヨーロッパ諸国が次々と自国の住民の一部を領土の境界線の外へと追いやり、国家の成員としての身分を奪ったことによってつくり出された無国籍者は、ヨーロッパ諸国の内戦の最も悲惨な産物であり、国民国家の崩壊の最も明白な徴候だ。十八世紀も十九世紀も、文明国に生きながら絶対的な無権利・無保護状態にある人間を知らなかった。第一次世界大戦以来、どの戦争もどの革命も一様に権利喪失者・故国喪失者の前例なき大群を生み出し、無国籍の問題を新しい国々や大陸に持ち込むようになった

    ● 位置: 1,043
    政府の保護を失い市民権を亨受し得ず、従って生まれながらに持つはずの最低限の権利に頼るしかない人々が現れた瞬間に、彼らにこの権利を保障し得る者は全く存在せず、いかなる国家的もしくは国際的権威もそれを護る用意がないことが突然明らかになった。他方、少数民族のケースのように、一国際機関が政府の保護の代役を務める用意が実際にあったとしても、措置を講じ提案を実行する暇もないうちにその信用は地に墜ちてしまった。主権の侵害を警戒する各国政府の抵抗にぶつかっただけでなく、被保護者自身とも同じように衝突することになったためである。被保護者のほうも同様に国家によらない保護を認めようとはせず、単なる人権(「言語、宗教、民族に関する」権利)の保護に対してきわめて深い不信を抱いている

    ● 位置: 1,050
    人権は万人にある、というのは幻想だったということです。人権を実質的に保障しているのは国家であり、その国家が「国民」という枠で規定されている以上、どうしても対象外となる人が出てしまいます。国民国家という枠組み自体も、強固なものではありません。民族という曖昧な(アーレント曰く、架空の)概念で崩せてしまうほど不安定なものであり、戦争や革命が起きれば、もはや何の役にも立ちません。  アーレントがここで指摘したかったことは、無国籍者が顕在化するなかで「法」による支配の限界が見えてきたということでしょう。法は、様々な社会問題を解決し、合理的に統治していく最善の手段だと信奉されてきました。しかし、無国籍者の大量出現を前にして、法はその無力さを露呈したのです

    ● 位置: 1,060
    法による支配を追求してきた国民国家の限界が、国家の「外」に現れたのが無国籍者の問題であり、それが国家の「内」側に現れて、統治形態を変質させていくのが全体主義化だということもできると思います。第二次世界大戦前の「昔の話」と思われるかもしれませんが、この問題は今も解決されずにつづいています。現にイスラム国(IS)も、内に全体主義を築き、外に大量の無国籍難民を生み出しています。内戦で自国民に銃口を向けている国も同様です。  周辺国やEUはもとより、国際機関も対応に苦慮しています。このことはアーレントも先の章段で指摘している通りです。いかに国際機関が頑張っても、どこの国にも所属していない人々を、安定的、継続的に守っていくことはできないのが現実でsy

    ● 位置: 1,071
    アーレントが『全体主義の起原』の第一・二巻で提示したキーワードを整理すると、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義──ということになります

    ● 位置: 1,206
      「大衆」という表現は、その人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるがゆえに、共通に経験され管理される世界に対する共通の利害に基づく組織、すなわち政党、利益団体、地域自治体、労働組合、職業団体等のかたちで自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。大衆は潜在的にすべての国、すべての時代に存在し、高度の文明国でも住民の多数を占めている。ただし彼らは普通の時代には、政治的に中立の態度をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足しているのである

    ● 位置: 1,222
    しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。    ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことです

    ● 位置: 1,248
    人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう──だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのです

    ● 位置: 1,336
    もともと上昇志向が強い人はもちろんですが、出世に無関心であったような人でも、一度「他の人が知らないことを自分は知っている」ということの妙を味わうと、知らないまま(知らされない状態のまま)ではいられなくなります。  こうした心理状態は、いじめという現象のなかにも見出すことができます。いじめの第一歩は、仲間外れを作り出すことです。任意の人物を、集団の意思決定のネットワークから排除する。すると、それまで無関心だった人も、身近に意思決定のネットワーク──いじめっ子のグループがあると分かる。分かると妙に気になって、自分もそのネットワークに加わり、なるべく中核に近いところへ行こうとします。それが自分を安心させ、満足させる最も手近な方法だからです。ヒトラーには、このような人間の心理がよく分かっていたのだと思います

    ● 位置: 1,344
    し増殖する組織──「運動」としての全体主義  アーレントは、全体主義は「国家」でなく「運動」だと言っています。奥義通暁の程度に応じて細分化されたヒエラルキーも、大衆の心を組織の中枢へと引き寄せ、絶えず動かしていくための仕組みといえるでしょう

    ● 位置: 1,351
    「運動」は全体主義の特徴であると同時に、急所でもありました。気圧の運動が鈍化すると台風の勢力が弱まるように、運動の担い手である大衆が安定してしまうと求心力が落ちてしまう。それを防ぐためにナチスが講じた諸策のなかで、アーレントが特に注目したのが「組織の二重構造化」でした。    第三帝国の初期には、ナチスは何等かの意味で重要な官庁はすべて二重化し、同じ職務が一つは官吏によって、もう一つは党員によって執行されるようにすべく配慮してい

    ● 位置: 1,394
    ナチスが最終的に「絶滅」を目指すようになった要因に、第二巻でアーレントが論じていた優生学的人種思想の影響があったと考えられます。文化的アイデンティティをベースとする「国民」概念で選別していれば、例えばユダヤ教を捨てた人は迫害の対象外にできたかもしれません。そうでなければ国外に亡命してもらう、という方法もあったでしょう。しかし、運動の初期段階で「人種」や「民族」という概念を世界観に持ち込み、それを統治の原理に組み込んだナチスは、ドイツ人たちにとって分かりやすい形で、「血」を浄化する──つまり、守るべき血統と絶やすべき血統を厳密に弁別し、後者を排除する必要があったのです。「浄化」を最も分かりやすい形で実現するのが、絶滅です。絶滅させてしまえば、これ以上、血が汚されることはありません。突拍子もない話ですが、巨大な警察+軍事国家による全体的支配体制を確立すれば、不可能ではありません。そうやって、辻褄を合わせようとしたわけ

    ● 位置: 1,444
    四一年六月に独ソ戦(* 12) が始まると、特別行動部隊が前線の背後で、現地に居住するユダヤ人を虐殺し始めます。半年間に五十万人以上が殺されたとされています。この虐殺の進行によって、問題の解決のために彼らを丸ごと殺害するというやり方が、既成事実になっていきました。当初は、ソ連を速やかに征服して、ロシア東部にユダヤ人を移送するつもりだったのに、戦線が膠着化して、うまくいかなくなったこともあって、この路線が有力になりました。ユダヤ人問題の解決策は、「強制移送」から収容所での「絶滅=ホロコースト」に転換したわけです

    ● 位置: 1,458
    「絶滅計画」が実行された主要な舞台が、ドイツ本国ではなく、東欧の占領地域だったことも、実行者たちにとって殺害のハードルが低くなった要因かもしれません。「追放計画」は政策として公表されていましたが、「絶滅計画」は一般国民向けには公表されず、ヒトラーと側近だけで方針を決め、特別行動部隊やSSの絶滅収容所の管理部門で実行されました。ただ一般国民も、戦争中とはいえ、隣人がいきなり連行されたら、心配したり、不安になったり、少なくとも行き先くらいは気になると思いますが、今までお話ししたようにユダヤ人が徹底して隔離され、そこにいてはならない存在だという教えが浸透したためか、あまり気にする人はいなかったようです。〝自分と同じ一般市民〟である隣人がいなくなれば、我が身にも同じことが起こるかもしれないと不安になるかもしれませんが、ユダヤ人は自分たちとは縁もゆかりもない異質な存在になっていました。つまり、いなくなっても、あまり気にならない存在になっていた、ということです

    ● 位置: 1,500
    そのようにして自律した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性 plurality」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は、物質的な利害関係の調整、妥協形成ではなく、自律した人格同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的(plural)なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見を持つ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます

    ● 位置: 1,542
    単純な解決策に心を奪われたときは、「ちょっと待てよ」と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです

    ● 位置: 1,750
    そしてアーレントが強く依拠していたカントは、自分の理性によって発見した道徳法則に従って行為することこそが、人間にとって真の自由であると主張しました。動物のようにその場限りの、食べたいとか眠りたい、贅沢したいといった物質的・刹那的な欲求によって行動するのではなく、自分が本当は何を目指しているのか理性的に考え、その目標の実現のために従うべきルールを見出し、それに自発的に従っている状態こそが、自由であるということです。物理的な因果法則からの自由、自分の身体に生じて来て自分を突き動かす欲求に左右されることなく、自らの意思を律することのできる自由です。  カントによれば、理性によって見出される道徳法則は、無条件に「○○せよ」とか「▽▽するな」と命じるものであるはずです(定言命法)。例えば、「うそをついてはならない」と自分の理性が命じているとしたら、どんな事情があろうと、たとえ、誰かの命を救うための方便だとしても、うそをつくことは許されません。

    ● 位置: 1,764
    そして、国家の法はそうした定言命法の形を取る道徳法則によって基礎付けられていなければならない、とカントは主張します。もう少し正確に言うと、「これこそが私たちが従うべき真の道徳法則だ」、と市民たちが自ら理性によって判断し、合意できる内容に基づいていなければならない、ということです。市民たちが理性的に合意し受け容れた「法」に従うことこそが、市民にとっての自由です。無論、様々な異なった環境で育ち、異なった考え方や生き方をしている人々が──たとえ近似的にでも──そうした理性的合意に達することは可能なのか、という根本的な問題がありますが、カントの影響を受けた近代の道徳・政治哲学者たちはその可能性を探究し続けました。アーレントもその一人です

    ● 位置: 1,834
    日本の犯罪報道やスキャンダル報道においても、事件が起こると、容疑者の生い立ちや「素顔」を詳しく報道し、その人がいかに歪んでいたかということにスポットを当てようとします。報道する側も、それを受け取る側も、自分たちと悪との圧倒的な「違い」を探しているのです。  アイヒマンに悪魔のレッテルを貼り、自分たちの存在や立場を正当化しようとした(あるいは自分たちの善良性を証明しようとした)人々の心理は、実はナチスがユダヤ人に「世界征服を企む悪」のレッテルを貼って排除しようとしたのと、基本は同じです。    アイヒマン裁判で問題になったより広汎な論点のなかで最大のものは、悪を行う意図が犯罪の遂行には必要であるという、近代法体系の共通の前提だった。おそらくこの主観的要因を顧慮するということ以上に文明国の法律が自らの誇りとするものはないだろう

    ● 位置: 1,906
    条件が整えば、誰でもアイヒマンになり得るということです。  そうならないための具体的な処方箋は示されていませんが、「複数性に耐える」ことが、その鍵になると考えていたのは間違いないでしょう。「複数性に耐える」とは、簡単にいうと、物事を他者の視点で見るということです。  自分が考えていることや信じ込んでいることが間違っていた場合、それを自分一人で考えて正すことは、かなり困難です。複数の人と共に考えたとしても、同じ意見や考え方の人ばかりが集まっている場では、結局同じものしか見ていないものです。物事を他者の視点で見るという場合の「他者」は、異なる意見や考え方をもっていることが前提となります。  アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は 絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです

    ● 位置: 1,920
    考えるという営みを失った状態を、アーレントは「無思想性」と表現し、アイヒマンは完全な無思想に陥っていたと指摘している

    ● 位置: 1,921
    彼は愚かではなかった。全くの無思想性──これは愚かさとは決して同じではない──、それゆえ彼はあの時代の最大の犯罪者の一人になるべくしてなったのだ。  アーレントのいう無思想性の「思想」とは、そもそも人間とは何か、何のために生きているのか、というような人間の存在そのものに関わる、いわば哲学的思考です。それは、異なる視点をもつ存在を経験し、物事を複眼的に見ることで初めて可能になるとアーレントは考えていました。そこに他者の存在、複数の目がなければ、自分では考えているつもりでも、数学の問題を解くように 処理 しているにすぎないと指摘しています

    ● 位置: 1,934
    そもそも人間は、自分がしていることの意味をあまり深くは考えていないものです。例えば出世に執心している人が「そもそも自分は、なぜ出世しようとしているのか」と思い悩んだりはしないように、例えば政府が財政を立て直すために福祉予算を削ろうというとき、哲学的思考をめぐらしてその帰結を検証してはいないように、アイヒマンも「最終解決」における自分の任務を遂行しているとき、人が人を 殺めるとはどういうことなのか「分かっていなかった」のです

    ● 位置: 1,950
    例えば、インターネット上には、様々な意見や主張が飛び交っているように見えます。検索すれば「多様な意見や考え方に触れることができる」と思うかもしれませんが、実際には自分と同じような意見、自分が安心できる意見ばかりを取り出して、「やはり」「みんな」そう考えているのだ、と安心して終わっていることが多いのではないでしょうか。  なぜそういうことになるかというと、一つには、そもそも異なる意見、複数の意見を受け止めるというのは、実際は非常に難しいことだからです。職場や学校で議論していても、基本的に人は自分が聞きたい話を聞いているだけで、他人の話を聞いているわけではありません。異論や反論に耐えるということに慣れていないため、聞かないことで自己防御しているのです。  自分と同じような意見を求めてしまうもう一つの原因は、それが「分かりやすい」ということです。深く考えなくても、分かった気になって安心できるからです。『全体主義の起原』第三巻が指摘していたように、これはまさに全体主義的世界観を支持した「大衆」の心理にほかなりません

    ● 位置: 2,187
    近代市民革命によって獲得された「自由」とは何かについて論じた『革命について』(*2)(一九六三年)でアーレントは、理性的思考や討論を軽視し、文明化されていない「野生人」の〝自然な〟共感能力を神聖視して、それを政治の原理にしようとすることの危険性に警鐘を鳴らしています。アーレントは、言葉ではなく、共感や同情、動物的な素朴さのようなもの、生き生きとしたものを〝人間性〟の共通基盤と見なし、それによって人々を連帯させようとする政治手法は、かえって、「自由」の空間を掘り崩してしまうと考えます。「自由」の空間は、活動する人たちが交換する言葉、知的に練り上げられた言葉によって構築される空間です

  • 最終的な結論は至ってシンプルで、安易なわかりやすさに安住することなく、多様な思考に触れ、複雑性の中で考え続けよう。ということ。いうは易し行うは難し。

    現代日本では自分も含めほとんどの人は「大衆」であることは確実だと思う。少なくとも政治に担するスタンスは。その現実の中でいかに全体主義の安直な物語に惑わされないようにすればよいか、は社会の問題としては重要な問いだと思う。

    己の理性によって定めた「法」を遵守した結果としての大量殺戮という現実や、アイヒマンの普遍性を噛み締めつつ、「法」の大元の原則を疑い問い続けることができる強さを持ち続けられるようにしたい。

  • ガッツリ面白かった。

    数年前から、「コテンラジオ」という歴史をテーマにしたラジオ番組を聞いている。それまで「十字軍遠征なにそれ?医療チーム?」みたいな状態だったのだが、あっというまに歴史の面白さの沼にハマった。

    ヨーロッパの土地はなぜあんなにも国が多いのか?みんな共通の言語を話せばいいのではないか?アラビアの方ってヨーロッパと同関係があるの?かねてから疑問ではあったが、ゆっくりとその辺の知識が理解でき始めている。(もっと早くに学べられればよかったね、、、って思ってる。

    そしてこの本。
    なぜドイツと言う国が、他の国とは異なり全体主義に陥ったのか、なぜホロコーストの悲劇が起きてしまったのか、そしてアイヒマン。「最終解決」の最高責任者はなぜあの行為ができたのかをこの本は解説している。

    ヨーロッパ、ないし、ユダヤ人にかかわる歴史を知っていると理解がより深まるが、そうでない人に向けても丁寧に解説が書かれている。復習の意味にもなって個人的には非常に良かった。

    当時の人々のことを「なんでこんなことをしたんだ。本当に馬鹿だな」というのは簡単では有るが、それではだめだ。当時の人々の状況、文化、そこにいたるまでの背景を考えれば、今の僕達と何も変わらない。
    ともすれば、未来の人間に僕たちが同じように馬鹿にされる可能性はある。

    特定の状況が発生して人々が不安や恐怖に陥った場合、どのような希望にすがってしまうのか。分かり易い敵の存在、多数派は少数派をないがしろにしても良いという観念、思考を放棄したときに人は人でなくなる。

    ハンナ・アーレントは、人々に考える切っ掛けをあたえ、人が人らしく生きるために道を切り開いた人だ。

  • 全体主義はどのように起こりなぜ止められなかったのかハンナアーレントの名著を通じ自分の頭で考えることの重要性を説いた本。
    アーレントは第二次世界大戦後の声を諸国の政治思想に大きな影響与えた政治哲学者である。その著書の中で現代も全体主義をめぐる考察にとって自由なのが全体主義の起源とエルサレムのアイヒマンである。
    全体主義は全体主義的と言う言葉を明確な意味で使い始めたのはイタリアのファシズム政権はドイツのナチスよりの知識人。近代化の過程でバラバラになった個人に再び居場所を与えてくれるような国家こそが真の自由を実現すると言う考えをファシズム国家を全体主義的と彼らは形容。

  • 新書って、複雑でよく知らないことを単純化して理解するときによく読むんだけど、この本は「ものごとを単純化してはいけない」と教えるもの。
    単純化したい人たちにアーレントは誤解され続けている。それをやりたい人たちにあるのは、「複数化」によって難しくなり、わからなくなることへの恐怖かもしれない。「知」は人間の手に余るものになってしまったのか。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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