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感想・レビュー・書評
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名前の如く民間葬送習俗、特に土葬に関する研究本。1975年の祖父の時に寝棺による土葬、その数年後の親戚の時に丸桶棺による野焼きを経験している身としてはある意味懐かしく思い出すことあり新鮮に感じることあり。人の生と死を考える貴重な時間となった。
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面白かったし、関連で読みたい本が何冊かできた。「土葬の村」というタイトルだが、前半が土葬、後半で火葬や風葬、こぼれ話の類を扱っている。
葬儀に関する習俗について、特に途絶寸前の伝統的な土葬について書かれている部分は私にとって非常に新鮮で興味深かった。また、現代でも土葬ができるようにという運動があり、(それが伝統的なものであれ現代的な思想に基づくものであれ宗教的なものであれ)土葬可能な霊園があるという話がとても良かった。 -
やっと読みました。
各地の土葬のやり方などについての記述は興味深かったけれどその解釈は読者に委ねられていた。なんというか、もう少し掘り下げた解説がほしいところ。
(この本で一番印象に残ったのは廃仏毀釈のすさまじさでした。)
ホトケ(屍)とは何なのか。
弔うとは何なのか。
昔々スラウェシに風葬の場所を見に行って何故かキリスト教徒のお葬式に参加したことがあったのですが、あの時のあっけらかんとした変な明るさは何だったのか。
若い頃は、葬式なんかいらんやろ、と思っていましたが、歳を取るとともに(知人が死ぬごとに、と言うべきかも)、葬式は生きている者が「死」を受け入れるためにあるのだと思うようになりました。
「死」をどのように解釈しどのようにして死者を送るのか、それは文化により宗教によりいろいろだとは思うのです。でもそれって「生きる」ということの土台になると思うのです。
子どもの頃はあんなに真剣に考えていた「死んだらどうなるの?」ということ、大人になってからはそんなに考えることもなくなりましたが、ちゃんと考えてる方がちゃんと生きられるよな、というふうには思います。
ところで。
父母の小さかった頃、父の生まれた村では土葬でしたが、母の生まれた所では火葬だったそうです。
わたしが小さかった頃、すでにどちらの場所でも市営の火葬炉ができていましたが、お葬式は自宅でするのが普通でした。近所の人が葬儀の手配から煮炊きまで全て取り仕切ってくれてたのを記憶しています。
ダンナの祖父が亡くなったときは葬儀場だったので、都会では喪主が全部やらなあかんのや…と驚きました。わたしは一晩中会場の棺の近くにいましたが、葬儀場で泊まっている近親者はほとんどそこに現れず、夜伽ってしないの?ということにもちょっと驚きました。
生命とか意識について何も分かっていないのに、死について考えられるはずもないのですが、生きている者にとっての「死」であるとか、死者の送り方については、考えてみることは可能であるし、考えておいた方がよさげやなぁと思っています。 -
結構衝撃の内容が多くて、読みながら何度も、ヒッと声が出てしまいました。
弔い、死生観について。
廃仏毀釈はいろいろな本で出てきますがかなり日本文化において大きな出来事だったのだなぁと素人ながらに思いました。また、日本の文化は結構柔軟なのだなとも。
後半の穢れの項目は、柳田國男の穢れの本を読んだ後でしたのでより思うところがありました。脳、子供、野焼きあたりはかなりヒッとなりました。 -
友達のお父さんが土葬のための穴を掘ったことがある、という話を聞いてあまりに興味深くてこれも読んだ。面白いです。
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土葬をはじめとして、日本に残る葬送の方法を取材された内容です。古来より各地域に残る、土葬、火葬、風葬の、現在では失われてしまった風俗について、近年にまだその伝えが残っていた最後に行われたものを、現地で取材された貴重な内容だと思われます。今では火葬が一般化され、ある意味システマティックに行われるお葬式というもの。本来はどのような意味があり、どのような人々が関わり、どのように行われ、親族の行うべきことがどういった内容のものなのか、心構えというものか分かりませんが、必ず関わるはずのものですので、知っているのと知らないのではまったく違うと思います。また、葬送の儀式に関わるもののために、日常では忌むべきとされる行為の意味も一部紹介されています。生と死が日常にも関わっている当たり前が、私たちが忘れてしまっている大切なものなのかと考えさせられました。
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死んだ後はどうなるのか?
それを考えることは、
詰まるところ、生きるとはを考えることになる。
そんな当然なことを、つらつら思い起こしてくれる本。
今から15年ほど前、若い女性が急性ガンで亡くなった。
発病から亡くなるまでほんとうにわずかな間で、
あまりにもあっけないことだった。
その彼女が土葬だった。
逆縁の娘を失った母親が、「土まんじゅうが少しずつ低くなっていくことで、〇〇〇(お嬢さんの名前)が居なくなったことを実感している」と語っていた。
土葬とは、つまり亡くなるということを少しずつ長い時間かけて向き合い、心の整理をつけるのに、自然な作法なのだと知った。
そんなことを改めて理解することが出来た。