雨の日のぼくらの太陽!»
何度もくりかえし読む本、眺めるだけで嬉しくなる本、コーヒーのお供、安眠剤、実用便利、無用の長物、テンションがあがる本、泣き本。岐路の一冊。今はもう開かないけれど、どうしても捨てられない本。ずっと一緒の本、新しく加わる本。 ベーシッククローゼットのような、ベーシックブックシェルフ。
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福音館から出ている科学絵本『かがくのとも』の傑作集のひとつ。ストーリーはなにもない。ただ夏休みの、昼過ぎの、ひょうたん池が、よしくんや魚やとんびから見た視界で描かれている。断ち切りいっぱいまで埋った印象派風のタッチの濃密さが、そのまま緑と日差しと水の濃密さになっている世界。自転車に乗ったしょうちゃんから見る世界の疾走感。かいつぶりの視界を掠める黒い影。とんびの急降下する視界。それらは別な生き物の視点というだけでなくて、本は一冊のうちに視界の変転とクローズアップを繰り返し、時間のクローズアップになって、元の昼下がりのひょうたん池の時間に戻る。つまり人にはこれだけの別の視界に対する想像力があるということ。
まあ、そんなこと抜きにしても、見てるだけで嬉しい、完璧な夏休み。
2007年06月19日
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ハロウィンの王様がカボチャ頭なんぞではなくガイコツなところが素晴らしくバートンな、いまやクリスマスの定番映画。恐怖を引き起こすのが好奇心と無邪気ゆえ、存在自体の異形ゆえ、というのは、他者の逆襲、正当な悪意の主張で、ニヤニヤ、ジャック男前、サリー可愛いし、でも麻袋の中身はマジ気持ち悪いよね、という見る人も含めた各種リバース可能な果てなき構図の永遠の一夜。
公開当時丸善で平積みだったこれは、カリカリと紙を掻く音が聞こえてきそうな細い線のジャックがたまんない、ぜんぜん読めなくても楽しい嬉しいメイキング本。
2008年04月22日
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「動物と人間の環境世界への散歩」と「意味の理論」の全訳。
生物という主体が知覚する知覚世界(たとえば目も耳もないダニにあるのは全身光覚で得る光と、哺乳類の放つ匂いと、熱の三つだけ)と、主体がおこなう作用の作用世界(適当な温度の液体があると薄膜を突き破って吸う)が共同で、生物ごとにひとつの環境世界(適当な木に上り、獲物を察知するとそのうえに落ちる。アタリならたらふく吸い、子孫を残して死ぬ。空振りなら─ゼロという知覚─また次の木に上り、何年でも機会を待つ、という世界)を作り上げている。
ドリトル先生が動物と話をする、というだけでなんか気持ち悪くてあつかましくて読めなかった小学生時代を過去に持つ身には、すんなりと、馴染みやすい説ではありましたが、では人間は、となると。
他の世界を理解する開放性があるから、という理由で人間は本当に環境世界から取り除かれているのか否か、いるとしたらなぜそうなったのかは、想像すると、なかなかたいへんな世界だね。
2009年05月12日
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見る、ということについて考えることが未だにすこし恐い。
色ひとつを取っても、自分が緑と呼ぶものと、人が緑と呼ぶものが同じだとは、決して証明できない。名前が同じだからといって、それが同じだとは限らない。いきなり頭のなかを入れ替えたら、そこにはまったく違う色や形があっても、絶対それは確認できない──ということに、小学校から家へと帰る最後の曲がり角の、植え込みの固いソテツの緑のまえで気付いたときの恐怖をまだ覚えているからだ。
私たちは脳以外でモノを見ることができない。
その危うさと可能性が来た道と、これから。
2008年04月01日
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ゲーテ生誕二五〇周年記念出版の全三冊。工作者らしい美しく丁寧な造本。いつか欲しいなあ、と思っている、高嶺の花本。
色は光の波長による現象で実際に色というモノはない、と小学校のプリズムで私たちは習います。なぜ海が青く、夕焼けは赤いかとか、ね。しかしその真実とはべつに、私たちはどういうふうに色を見、感じているか、という認知の側から色を研究したのがゲーテ。明るいところから暗いところに入ると、現象は変わってなくても、ずっとそこにいた人と私では違って見えるというやつとかね。
もっとも「教示篇」「論争篇」「歴史篇」という分厚い三冊組を理解しているかと、まったくそんなことはなく、むしろちんぷんかんぷんなんである。ちんぷんかんぷんなんだけど面白い。難解な詩のようにときどきパッと煌いたり、見えないなにかを暗示していたり、おぼろげに感じさせたりする。
値段も内容も高嶺の花。こーいう本も本棚にあるといいと思う。
2008年04月01日
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絵を見るようには写真を見れないのは、写真は意味と切り離されることがないからかもしれない、とかつらつら思うわりには、そもそも写真って、どう撮ると、どう写るのかすら知らないんである。
まったく写真を撮らない人でも読める写真論入門。つくづく写真は目だな、と思う。
2009年10月28日
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タイトルそのまま、木をかいてみる、本。見て、手を動かす、という一連のありふれた行為のなかに、観察する、知る、応用する、という正しい手順そのものが宿っている快感は読んでいるだけでも伝わります。当然大人にもおもしろいけど、絵を描けるというのはなにか特別の才能なのだと他人事のように眺めていた子供のころに出会いたかったなあ。
2008年04月01日
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どこにでもある住宅街の、一角の庭を、目を凝らし、耳を澄ませ、鼻をうごめかせて、辿る。日本の自然はこういう視線でできあがっていて、細部に、気配に、潜っていき、豊かなことばが添えられる。熟した柿がすごーくいい。
2008年04月01日
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旧ソ連の広大な自然と動物を描く、ところどころ残された余白のある絵が、広さ、寒さを、呼び込むようで、いつまで見ていても飽きない。国土に手を入れ続ける自然を作り続けてきた日本とは違い、茫々とした、ママの自然がまずソビエトなのだとわかる。夏に眺めつ読みつするのが好きです。
2008年04月01日
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なるほど、目ウロコ。高一の国語あたりで副読本なら良かったなあ。
たしかリトルモアの社長が、アーティストをえらいと思ったことなんかない、受け手が、高度な受け手がいなければ、なにひとつ成立しないから、ってどっかで言ってたけれど、全員が詠み、読む、句会というシステムでは、この手のそもそもの上下関係が固定されないんである。需要と供給ではない、まさに「遊び」です。文芸にこういう成立の仕方があることは、なるたけはやく知れるといいなあ。
2008年04月30日
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テレビの石ノ森特番で、みっしり書き込んだ氏の創作ノートが映ったとき、そのなかに永田耕衣の句が見えて、あーそうだ、石ノ森の漫画はすごく俳句っぽい、と思い当たった。
膨らんだ一粒の水滴に凝縮されるかと思えば、さあっと引き絵になって世界が拡大、俯瞰されるところ。巨視と微視。雨、また雨、風、泥、花。風情と情感が切り離せないところ。男、女、斬るもの、斬られるもの。重なっていく重み。少年漫画に多いプロダクション形式ではなく、氏は一人で描かれるのだそうです。一幅の絵。すべてを一人で考えるからこその、ストーリーと絵と背景の、わかちがたく、一瞬に、同時に、現れる、そのダイナミズム。リズム。また独特の色気も石ノ森漫画の魅力。佐分と市では、市の「もどかしさ」がいちばんの色です。
2008年04月19日
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デザイン性とか、花鳥風月とか、たらしこみとか。ありきたりなイメージしかなかった琳派の基本くらいは、ちょっとお勉強しようかと思ったのは、グッドルッキング、グッドロケーションなレストラン、ルレ・オカザキ(ネギのポタージュ…)のあとに細見美術館ができたから。派というからなんとなく狩野派とか四条派みたいに思ってたら、琳派という言葉は明治以後に、西洋に対峙する日本文化、というアイデンティティを築くなかで創りだされた概念だとか。意外でした。ふりかえると浮き上がるレリーフのようにある存在。三百年にわたる精神のリレーシップなのね。細見美術館の琳派展は、冬の花見。色が目に染む。
2008年04月09日
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母の付合いで中学のころから室町四条にあった金剛能楽堂によく連れていかれた。佳い建物で、ビルのあいだの小経を入ると、喧騒はぴたりと止み、みずみずしく、仄暗い(重要)。桝席も、小さく仕切られた桟敷も、眺めて気持ちいい場所だった。耳が馴れてくると謡が聞き取れだし、またどこかへ消えて、ふいに現れる。舞台のうえを滑りゆくモノが、なんともあたりまえに思える。結界を張ったように、そこはそうなのだ。まだあまり混みもせず、平安神宮の薪能も弁当持参で、一日足を伸ばして見ていられたっけ。そういう十年ほどのおわりに、これもいまはない近鉄百貨店でたびたび行われていた、京都新聞の出版フェアで、この本を買った。ゆかりの土地を訪ねて、背景や人物について記したものなので、簡単な観光ガイドにもなる。最近は山崎から水無瀬に足を伸ばすときに、蘆刈の項を読んでいく、という使い方。人いなくて気持ちいいし。
2008年04月09日
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ある日ふと姿を消す猫、行って帰らない人、簡単に人形に戻ってしまういのち、時空のはざまの旅人。内田善美はくりかえし「消えてしまうもの」を描くのだけれど、緻密な絵で描かれるそことここに変わりはなく、残されるもの、消えゆくものも、同じように美しい。死は世界に溶けていて、わたしたちはただ見失う。あえかな気配、あえかな感情は、濃密な自然に拮抗する。
だからページをひらくだけで、いつの間にか咲いた花を見上げ、うつくしいと、いいにおいだと、みとれるように出会い、去年散った花のように想うことができる。高校のときに読めて良かったです。
2008年04月18日
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みすず書房から出た「洛中生息」に「続・洛中生息」からも数篇を加え文庫化されたものですが、もとは、ようは京都新聞に載ったもの。いまや財団となった杉本家について書かれたものはおセレブすぎで、よそのこと、ですが、これは歩く杉本先生なので、同じ道を歩くことができます。それももうなくなった道を。いまや山も町も荒廃してしまった、と言いながらある京都を幻視しつつ歩く、その無残な姿を晒した町こそが、ちょうど70年代、幼い、物心つくまえの私が見た町なので。そしてこうやって、解説で二重映しといわれる京都は、読むもの(京都新聞購読者)によって、三重に四重にと重ねられ、失われ。鮮やかに、やはり聢としかなりようがないのでした。
2010年01月08日
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