触発する言葉: 言語・権力・行為体

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  • Amazon.co.jp ・本 (298ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000233927

作品紹介・あらすじ

どうして言葉は人を傷つけるのかどうすれば言葉が世界を変えるのか。フェミニズム理論現代思想の旗手としてめざましい活躍を続けるバトラーが現代アメリカの政治状況に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 言葉がそのまま行為になっていく、その現象を執拗に追い求め、解明しようとした一冊。
    言葉がそのまま行為になっていくとはどういうことか。典型的なのは、例えば裁判官が被告人に対し判決を言い渡す際のテンプレ言辞だ。裁判官が有罪宣告をした時点をもって、被告人は、無罪推定の立場から有罪確定の身分に明確に移行し、あとは刑の執行を受ける存在となる。
    もっと身近な例でいえば、俗にいう「おいコラ警官」だろう。警官が道端で怪しい人物を見つけた際に「おい、そこのオマエ、ちょっと待て」と職質を行おうと呼び止めるテンプレだ。呼びかけられた人は、ビクッと身構えてその場に立ちすくむ。物理的には何ら邪魔している者はいないはずなのに、呼びかけだけでその人をその場に引き留めているのだから、まさに言葉が行為そのものになっている場面だ。

    ヘイトスピーチなどはまさしく、この行為遂行性を帯びた言辞である。ある特定のヘイトは、呼びかけられた人々を著しく傷つける。全く物理的暴力を伴っていないはずなのに、その特定の言葉で呼びかけただけで、相手の心を深く、えぐるように傷つけるのだ。
    日本でもヘイト禁止が法制化された。が、いかんせん、いまだに罰則が伴わない中途半端な構成ゆえ、実効性に難ありだが、ないよりは全然マシ、というレベルにとどまっている。

    さて、言葉の暴力性を精緻に突き詰めたのが本書である。ある種の言葉が現実に行為する人のような影響力を持つことに着目し、それが単なる修辞的な影響を超えて働くためのメカニズムに迫る。
    なぜ言葉が行為を帯びて特定の人々に影響を与えてしまうのか。それは、それが語られる文脈で繰り返されてきた慣習的な背景、歴史的な積み重なりが背後にあるからだという。「ゲイ」や「ニガー(黒んぼ)」や「女」という言葉で呼びかけられる人々が社会の中で占める位置、そう呼びかける多数派(いわゆるアングロサクソンで男性で白人、など)が抱きがちな差別的感情。そうしたものが歴史的に積み重なって言葉が暴力を持つに至ったのだという。

    本書では、3つの具体的事例を取り上げ、それがいかなる政治的文脈を帯びるのかを問いかける。
    1つ目は黒人の家の前庭で十字を燃やす行為をヘイトスピーチと見做して罰するかどうかの判決をめぐるもの。2つ目はポルノの取り締まりを国家に要求することの是非、そして3つ目はゲイの処遇をめぐる米軍の政策の意味である。

    1つ目の事例は、明らかにKKKを彷彿とさせるシチュエーションであり、したがってやられた黒人側からすれば恐怖以外の何物でもない行為であったにもかかわらず、最高裁では「表現の自由」をタテに行為者側を罰した市の条例を敗北させた。つまり、ヘイトを勝たせた格好だ。
    対して、2つ目の事例は、セクハラを訴えた女性が逆に好奇の眼で見られ、いわばセカンドレイプに遭ったような事態にさらされた事件。被害を訴えれば訴えるほど、ますますポルノ的な目で法廷の男性陣から見られるという屈辱に耐えなければならなかったのだ。ここでは、言葉が文字通りに受け取られず、マジョリティ側、すなわち男性側に都合よく曲解されがちな場面を指摘する。いわゆる「イヤよ、イヤよも好きよの内よ」に端的に表れている通り、男どもの妄想の中では、嫌がっている女性は実は性的に発情しているのだから、遠慮なく犯してしまって構わない、との文脈がある。こうした文脈の中では、被害を訴える女性はその手段としての言葉を奪われがちだという。
    3番目の事例は、米陸軍の内規では、ゲイと自らを告白すれば、それだけで「セクハラだ!」として糾弾され、軍をクビになるというもの。自分が「ゲイ」だとカミングアウトすることは、それだけで、相手方をベッドインに「誘っている」とみなされるというのだ。

    1番目の事例は、ある行為のヘイト性、著者の言葉を借りれば「行為遂行性」が認められなかった。「表現の自由」をタテに白人側に有利な結果に終わった格好だ。
    対して、2番目の事例は、セクハラ被害を訴えるその言葉が法廷の男性陣のエロティシズムをそそるという点で「行為遂行性」が見られたともいえるが、マジョリティの男性側を優位な立場に置いた格好ともいえる。
    同様に3番目の事例も、カミングアウトの言葉が他の「まっとうな」兵士を傷つけるという意味で「行為遂行性」が認められるというものだが、これまたマッチョな男性性をことさらに誇示したがる軍部の、すなわち当局側、マジョリティ側を擁護する方向に働いたものだといえる。
    このように、政治的文脈によって、立場の弱い者、マイノリティ側にとってことさらに不利に働くように、言葉の「行為遂行性」が左右されてしまう現状に対し、鋭く問題を投げかけたのが本著である。

    正直、本書はきわめて難解な用語法を展開しており、読みにくさ極まれり、ともいえた。しかも、執拗なまでに言葉や修辞や用語法のあれこれを哲学的に追及する様は粘着の極みともいえ、読んでいてたびたび辟易とさせられた。しかし、マジョリティ側、社会の大勢側からすればなんてことはない当たり前の常識に隠された言葉の危うさ、人を傷つけ、殺害にまで至らしめる言葉の力をとことんまで見つめ続ける彼女の指摘は、見落とされがちなゆえに重要であり、熟慮に値するだろうと思った。
    とりわけ、SNS上の誹謗中傷により、いかにたやすく人の命が奪われてしまうのか。そんな世の中に現に生きている我々からしてみれば、真摯にとらえ、考え直さなくてはならない事項であることは確かだと思われる。

  • メモ。
    オースティンの言語行為論の読解が中心。
    ヘイトスピーチに関する記述。
    習慣と文化政治に関する議論に接続可能。

  • 人間は物語を生きる動物である。社会は物語を必要とする。歴史は物語そのものだ。我々はルール、道徳、感情、理性、知性を物語から学ぶ。というよりは物語からしか学ぶことができない。こうして人間は「語られるべき存在」となった。続いて書字が記録という文化を生む。人間は「歴史的(時間的)存在」と化した。

    http://sessendo.blogspot.jp/2014/02/blog-post_4.html

  • 表現規制と発話行為をめぐって。賛成・反対の立場だけでは単純に回収しきれない示唆がある。
    バトラーの議論がおもしろいとおもうのは、発話をその発話者と行為遂行性の問題だけに収めないところ。言葉に「傷つけられる」とはどういうことか。発話主体に先行して存在する、言葉の効果を産み出している社会や政治的文脈に言及している。
    発話そのものを規制するのではなく、中傷性という発語媒介効果を再演せずに言葉そのもの文脈を書き換えていくべきという提案自体はなるほどと思う。

  • 2009年前期EHゼミのテクストのひとつ。ヘイトスピーチについて扱っている。法による処罰にバトラーは反対の立場。実際「放送禁止用語」みたいのが出来るだけだと、それについて話されることがなくなり、ただその単語を使わないだけで、別の言葉で差別的言説は流通し続けるわけだが。相変わらずごちゃごちゃと難しくて(^^;)困る。

  • 珍しく新刊で買った本。最近はあせって読まなきゃいけない本などないので,必要な本も古書店に登場するのを待ってから購入することがほとんど。
    そんななか,急を要して読むことになりました。今,私が2004年に書いた論文に対して,2人の若き地理学者による批判論文が投稿されています。それに反論論文を書かなくてはならないのです。そのテーマに欠かせない本だったというわけです。
    ジュディス・バトラーはフェミニズム研究の第一人者。1990年の主著『ジェンダー・トラブル』が1999年に翻訳されてから,いくつかの本が翻訳されるようになり,雑誌『現代思想』でも特集が組まれています。フェミニズムにもいろいろありますが,バトラーはスマートな正統派の哲学的議論からジェンダー・アイデンティティにアプローチしていて,社会学的でもあります。著名なフェミニズム論者を他に挙げれば,まずはガヤトリ・スピヴァックで,彼女はデリダの翻訳もしているように,非常に難解な脱構築的思考と,自らのアジア的アイデンティティの政治的立場をポスト植民地主義が特徴。もう一人はダナ・ハラウェイで生物学者。身体的な性別の複雑さから男女の問題にアプローチする。しかも,SF小説の解読でも有名で,そこから近年の,そして未来の身体がサイボーグ化していると宣言する。
    私の理解では,バトラーは19世紀ドイツの哲学者ニーチェの影響が大きいと思う。といっても,私は『善悪の彼岸』しか読んだことがないのだが,ニーチェの有名な主張に「多くの言語に共通する,主語+述語という文法のが,述語=動詞=行為に主語=主体が先行することを前提としている」というものがあります。わたしたちは行為を行うのは必ず人間主体だと考えますが,それは普遍的な真実ではなく,わたしたちが用いている言葉の文法という規則によってそう考えるように教育されている,という議論ですね。
    本書『触発する言葉』は,特に言語に議論を集中したもの。言葉は時にとても大きな力を持ちえるが,「たかが言葉」とか「口約束」とか,軽んじられることも少なくない。特に,確実な存在を示す物質的なものとか,人間が自らの身体を用いて行う行為や行動というものに比べて,あやふやで,曖昧模糊として捉えられがちだ。場合によっては,言葉というものは現実や事実を不完全に報告するに過ぎない,常に現実や事実に遅れて登場するものであると。
    そんな言語観に異議を申し立てた哲学者・言語学者がJ.L.オースティン。彼の『言語と行為(原題は「言葉によっていかに事を為すか」)』という講義録が発行されたのが1962年。それ以降,J.R.サールの『言語行為論』(1969年)をはじめとして,言語を行為の一部と見做す議論が多く見られるようになります。

    その最近版が1997年に発表された本書『触発する言葉』です。彼女によれば,言語を行為と結びつける考え方は半世紀の間に浸透し,律法にも大きく影響しているといいます。言葉というものを,それを発した主体に原因を帰すると同時に,それは単なる言葉ではなく,行為と同等の責任を有するものであるということです。例えば,実際に男性が女性の身体に触れることだけがセクシャル・ハラスメントではなく,卑猥な言葉などを発することも法に触れる行為と見做される,ということです。
    しかし,ニーチェ哲学的立場に立つバトラーにとっては,発言を行為と見做すことは部分的に正しいとしても,それは述語に主語が先行するという文法的思考からくるものであり,必ずしも哲学的な真実ではないとみなします。あくまでも特定の主体によって発せられた言葉は「繰り返し」によって,意味をなし,それによって他人を傷つけるわけです。この「繰り返し」というのが重要であって,繰り返すということはその言葉は完全にその発した人物のオリジナルではなく,過去に別の他人が発したものであるわけです。
    といっても,発言の内容はそれを発した主体に責任はない,と考えるのはあまりにも無謀です。要するに,人を傷つけるように発せられた言葉に対する責任はその発した人物一人に帰すことができるような単純な問題ではなく,その言葉が人を傷つけるというルールを作り出した社会全体の問題と理解され,それによってあるひとが傷ついたという問題は解決のためには非常に複雑な状況を明らかにする必要があるということです。

    相変わらず,あまりうまく説明できていないので,この辺でおしまいにしておきましょう。

  • 難しいです。けど「言葉」の更なる可能性を切り開くために読んでおきたい。

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著者プロフィール

カリフォルニア大学バークレー校教授。主な著書に『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの撹乱』『アンティゴネーの主張――問い直される親族関係』(以上、竹村和子訳、青土社)、『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社)、『分かれ道――ユダヤ性とシオニズム批判』(大橋洋一・岸まどか訳、青土社)、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』『自分自身を説明すること――倫理的暴力の批判』(以上、佐藤嘉幸・清水知子訳、月曜社)、『生のあやうさ――哀悼と暴力の政治学』(本橋哲也訳、以文社)、『戦争の枠組――生はいつ嘆きうるものであるのか』(清水晶子訳、筑摩書房)、『触発する言葉――言葉・権力・行為体』(竹村和子訳、岩波書店)、『欲望の主体――ヘーゲルと二〇世紀フランスにおけるポスト・ヘーゲル主義』(大河内泰樹・岡崎佑香・岡崎龍・野尻英一訳、堀之内出版)、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性――新しい対抗政治への対話』(エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェクとの共著、竹村和子・村山敏勝訳、青土社)、『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』(ガヤトリ・スピヴァクとの共著、竹村和子訳、岩波書店)などがある。

「2021年 『問題=物質となる身体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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