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Amazon.co.jp ・本 (374ページ) / ISBN・EAN: 9784000241809
作品紹介・あらすじ
一九八二年から雑誌『アニメージュ』に連載され,映画版の制作を挟み九四年に完結した,宮崎駿の長編マンガ,『風の谷のナウシカ』.この作品の可能性の種子は,時代の喘ぎのなか,いま,芽生えと育ちの季節を迎えようとしているのかもしれない――.多くの人に愛読されてきたこのマンガを,二十余年の考察のもと,一篇の思想の書として徹底的に読み解く.
感想・レビュー・書評
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表紙は第5巻のナウシカの呟きを採っている。
虚無にいわれるまでもなく
私達が
呪われた種族なのは
判っている
大地を傷つけ 奪いとり 汚し 焼き尽くすだけの
もっとも醜いいきもの
この後、虚無的になったナウシカはメーヴェに乗って王蟲のところへ行き、大海嘯の後に腐海の苗床になり大地の傷を癒そうとしている王蟲と共に、腐海の一部になろうと沈んでゆくのである。その瞬間、王蟲はナウシカを救うためにナウシカを食べる。
もはやナウシカは、青き衣をまとった救世主ではなく、滅びゆく世界の仕組みを探し求める旅人でしかない。宮崎駿が、戸惑い探りながら作り上げた神話的物語。‥‥なんのことやらわかんないですよね。基本はやはり全7巻を読んでもらうか、この本をじっくり読むしかない(絵は少ないが、台詞はかなり採用している)。
どうやら初めて本格的に現れたマンガ版「風の谷のナウシカ」論らしい。82年に連載開始、何度もの中断のあとに94年に全7巻が完結。「アニメと原作は全くの別物である」ことは、知る人ぞ知られている。私は、最終巻は特に暗く難解で、正直戸惑った。どう言葉にしていいのかわからないままに本棚の奥に仕舞われて25年が経った。
そのあと「もののけ姫」(98年)は、正にマンガ版ナウシカだと私は思ったものだが、それさえも宮崎駿は否定して行った。もちろん宮崎駿の暗い衝動は、鈴木プロデューサーの仕掛けで巧妙に隠されている。この本は、直近アニメとの関連は、ほとんど言及されていない。残された課題は、そこだろう。
赤坂憲雄は、私の比較的信頼する民俗学者である。もちろん、民俗学含む人類学のバイアスがかなり掛かっていて、もう少し別の読み方も出来る余地があると私は思っている。ただし、赤坂氏も言うように「裏読み」的な読み方(隠されたメッセージを探る→マニアックな読み方)には、私も与(くみ)しない。絵も含めた物語と直に向き合う。豊穣な物語世界が、この全7巻の中にあることを改めて確認させて貰った。
短い書評で、赤坂憲雄版「ナウシカ論」を紹介することはできない。「ナウシカ」は反黙示録である。と言っても、なんことやらさっぱりわからないでしょ?私的には、最後の巨神兵が何故あんな「変容」を遂げたのか、今回やっと言葉でなんとか説明できる気がしてきた。とっても面白かった、とだけ言っておこう。
※本の趣旨とは関係ない処で啓示を貰うのは、読書の喜びのひとつである。文字を持たないナウシカ的世界の中で、文字がいかに世界を支配して変えようとしたかを、「ナウシカ」はもしかしたら見事に描いていたかもしれない。日本の古代、弥生時代は、もしかしたら意識的に文字を拒否していた可能性がある。もう一度、埃を被った本棚から引っ張り出して読む必要があるだろう。 -
面白そうと思って、購入する前にもう一度、マンガ版『風の谷のナウシカ』を読み返した。
ナウシカを一通り読むと、考えたくなる部分が幾つも出て来る。
筆者もそんな思いに駆られて著したのだろうか。
ストーリーを丁寧に追いながら、墓所のクライマックスシーンの解釈は、自分の中に渦巻いていた分からなさに、一つの示唆を与えてくれた。
あとは個人的なナウシカ感想(笑)
王蟲とは何だったんだろう。
幼生を贄に取られた時は攻撃色を示し、粘菌に対しての大海嘯?には青いままだったのも、不思議。
人間が生み出したシステムとしての生き物だけれど、彼らは新人類と同じ体液の色を持ちながら、怒りも悲しみも持ち合わせている。
ナウシカに言わせると、だからこその慈しみと友愛なのだろうけど。
ナウシカを読んで思ったのは、墓所は未来を統べる神にはなれず、恐らく清浄な世界で満ちることもないだろうということだった。
それでも、ナウシカが墓所を壊したことで、王蟲の培養や巨神兵といった、明らかにレベルを超えた力で、一気に滅亡するエンディングからは遠のいたのではないかと思う。
対して私たちは、核を扱えると思っているのか。
そして、ナウシカのように分を超えたテクノロジーを見極める目を持っていると言えるのか。
人間が生み出した巨神兵によって、裁定されたのは皮肉にも人間自身だった。
映画では描かれなかったオーマの成長と、クシャナさんの決断が、マンガ版ではお気に入りだ。
ここについても別冊出してくれないかな。
こんな風に(笑)、『ナウシカ考』を元に各々のナウシカに想いを馳せて欲しいなと思う。 -
「宮崎駿監督=ドストエフスキー」
27年前、夏休みの読書感想文をマンガ版『風の谷のナウシカ』で書いた自分は、あながち間違ってなかった。
筆者の赤坂氏は、マンガ版ナウシカは反-黙示録の試みであったと読む。そして、登場人物の声の多様さに触れ、冒頭に記したような結論に至っている。
一神教的ファンタジーの世界に惹かれる自分と、それに欺瞞を感じる自分。
飛行機械をはじめとするテクノロジーを偏愛する自分と、大樹をはじめとする原初的な自然を愛おしむ自分。
少女や母の中に聖性を認めたい自分と、それらに幻滅しつつも幻想を抱かざるを得ない自分の心性自体に嫌悪を催す自分。
宮崎監督の中にある多様な亀裂が、このマンガに多様な声と割り切れないエンディングをもたらし、多様な読みを呼び込んでいることに、改めて感嘆する。 -
今こそマンガ版『ナウシカ』を読み直そう!と思わせてくれたその一点だけでも価値のあった本。おかげさまでこの年末年始はナウシカを読み返しながら過ごすことになり、考えてみればパンデミック下の今にふさわしい物語であるかもしれない。
さて、まさに赤坂憲雄が強調するごとく、ナウシカとは神の計画に歯向かう混沌である。この主人公を生み出した作者の宮崎駿自身もまた全能の神としての語り手の位置をとりえず、物語そのものがもつ力に引きずられていた。それゆえか、よく考えてみると最後までわからないこともこの物語には多い。
赤坂氏は本書で「文字」「卑賤民」「宗教」「文字」「名づけ」「母」「黙示録」などいくつかのテーマを立ててこの豊饒な混沌を読み解く試みを行っている。まさにいずれも重要なテーマであるのだが、腐海そのもののような物語を前に、物語の中に手を突っ込んでみては作者が投げ出していった描写を取り出して輪郭をなぞるだけに終わるような部分も多かったように感じられる。
たとえば母というテーマの中核的重要性は、このマンガを読んだ誰もが感じ取ることだろう。母に愛されることのなかった娘ナウシカは、巨神兵に「ママ」と呼びかけられてその母となることを引き受ける。この物語において「母」が生/再生産よりもむしろ死と濃密に結びついているのは赤坂の指摘の通りなのだが、それにしてもこの決定的な行為としての「母となる」ことをどう理解すべきかは容易に理解しがたい問題だ。それはナウシカが周囲の人々に繰り返し見せてきた慈母の像と似ているようでいて明らかに違う。ナウシカが「オーマに名をあたえたときから心を閉ざし」たのはなぜか、そしてオーマが名をあたえられたことにより知能を発展させ裁定者を名乗ることになるのはなぜなのか。もうすこし突っ込んだ考察が読みたかったところだ。
そしてこの点と関わり、やや意外でもあったのは、「3.11」を経ての読み直しにもかかわらず、核の問題が明示的に考察の中に据えられていないということだ。
1982年に連載が始まったこの物語において、「火の七日間」に使用され「毒の光」を放つ巨神兵はあきらかに核兵器そのものである。放射能に冒された世界を腐海が浄化するというイメージは美しいけれども、核が肉と人格を備えて人を母と呼ぶ姿は、あまりにもグロテスクというしかない。ナウシカはそのような存在に「無垢」という名をあたえて起動させ、それが最初から死神として作られなかった可能性を考える。あるいはオーマが裁定者を名乗るのは、その恐るべき力をいかに使うかによって実は人自身が裁きに付されることを意味しているのか。毒をまかれた東北をフィールドとする赤坂氏はこの核をめぐる想像を今どう読んだのだろうか。
そのような生命を弄ぶ科学技術が伝わるのが西洋的なトルメキアではなく、むしろ東洋を思わせる土鬼国であるということも興味深い。どこからともなくこの地に降臨して土着の宗教を否定し宗教支配を敷いてきた神聖皇帝も、たしかに天皇制の影が射しているように思われるが、この考察もまたそこまでで終わっている。
それだけ原作が偉大な混沌ということでもあろうが、文章にくどい繰り返しが多いこともあり、わくわくするような知的興奮をあたえてくれる分析とまでは思えなかった。
とはいえ、ここから先はまさに原作とそれぞれが格闘する領域なのかもしれない。少なくともそのための手がかりは示してくれる本である。 -
赤坂憲雄は、なぜ『ナウシカ考』を書いたのか?
それを知りたい。民俗学研究者として、本書を実に丁寧に正確に読み込んでいる。また、この本をレビューするには、あまりにも難しく、困難だ。
『風の谷のナウシカ』コミック版は1982年に始まり、7巻が完結したのは、1995年。その年は阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こった。1984年『風の谷のナウシカ』アニメが公開され、ナウシカは「エコロジーの戦士」と語られた。環境破壊で追い詰められていく世界を、自己犠牲によって救済する。宮崎駿のいう「宗教的」な境地に至っている。コミック版はそのナウシカ像をどんどん破壊して、新たなナウシカ像を作り出した。そして、25年経って『ナウシカ考』が発表された。その間には、東日本大震災と福島原発事故があった。その原発事故の考察が、民俗学者の『震災考』である。その時にもナウシカは取り上げられていた。赤坂憲雄の身体内にそれだけの発酵する時間が必要だった。また、それだけ深く掘り下げて、思想の姿の全貌を明らかにしようとしている。
赤坂憲雄は、『シュナの旅』を『風の谷のナウシカ』の前作とする。『シュナの旅』は、氷河がえぐった古い谷の底に、時から見捨てられた小さな王国の継承者であるシュナは、西に向けて金色の実のタネを探しにいく物語だ。貧しい国から豊かな国に変化させる。あくまでも農耕社会で、一番重要なのは、みのり大きい種子が必要だった。赤坂憲雄は、「単声的で、ノイズがない」という。
シュナの旅は、西に向かう。『もののけ姫』も西に向かった。それは、ヨーロッパではない。稲作の範囲内の西、照葉樹林が一つの物語の範囲とも言える。ヨーロッパ的な価値観ではない、稲作文化圏の価値観、八百万の神の価値観の中に新たなものを見出そうとする。虚無に対峙する。
物語は、大地の富を奪い、大気を汚し、生命体を意のままに造りかえる巨大産業文明は、「火の7日間」と呼ばれる戦争によって崩壊する。その後、産業文明は再建されることなく、長いたそがれの時代が続く。この時代がナウシカの時代となり、ナウシカとそれをめぐる人々、自然、王蟲、腐海、巨神兵がそれぞれの意味を持って登場する。
ナウシカの物語は、「現実が抱えている問題と、扱っているテーマが密接に絡んでいるからこそ、ナウシカのテーマが浮かび上がっていきにくい」という。
赤坂憲雄は、『風の谷のナウシカ』を大きく言って3つの特徴があり、それは『古典』と呼び、『黙示録』とし、その作品は、ミハエル・バフチンがドストエフスキーを分析するのに使った『ポリフォニー(多声様式)』であるとする。文学では、視点を目まぐるしく変えることはできないが、マンガの手法はそれを変えることができる。それをコマごとに大きく変えていく宮崎駿の手法がある。
赤坂憲雄はこの作品を、『古典』と位置付けているのは、単なる漫画の枠を超えた文学的な価値を持つ作品であり、深いテーマや哲学的な考察が含まれて、新しい世界観を提示しいる。作品には読む人によって様々な解釈が可能であり、多角的に分析され、新たな発見が時代とともに生まれることを示唆する。
「風の谷の人々の主たるなりわいは、農業である。くりかえし畑が出てくる。おそらくは小麦か雑穀が栽培され、パン状に加工 されて食されている。ほかに、果樹の栽培もおこなわれ、果実酒が造られている。木の実の採集なども見られる。山羊牛などの家畜が飼育されている。畑を耕し、種を蒔き、収穫するのは、主に青壮年期の男や女であるらしい。畑で働くことができなくなると、男は城ジイ、女は城ババとなって、城勤めに余生を送る。ナウシカは戦闘従者として城ジイばかりを連れてゆく。それは、貴重な労働力である若者たちを谷に残したことを意味している。4基の風車が回っている。人々は協同労働であり、共同体の所有のようでもある」そんな村が基礎にきちんとある。
ナウシカという名前は、ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』に登場する王女に由来する。
ナウシカは、戦士だけでなく、風の谷の城の地下に、ラボ、実験室を持っていて、森の胞子を持ってきて、キレイな水と空気で育てる観察や探究をしていて、知性を持っていることを示す。その知性が、腐海や墓所の謎を解明することになる。ナウシカは女子の理想の姿から、人間の理想の姿まで発展させる。
ナウシカは、風の谷の風使いの族長の跡を継ぎ、村の人たちを守るリーダーにもなり、巨神兵の母親にもなり、そして滅びゆく世界の謎の仕組みを解き明かすという役目を持っている。そして、自分たちは、瘴気のない世界では生きられない改造された人間であることを知る。
この物語の成り立ちの年代記は、風の谷の大ババ、諸国を遍歴してきたユパ、オアシスの隠された聖地を守る盲目の上人の歴史語りが交叉する。大ババ様は、年代記と口伝による。ユパは、「腐海文書」の存在を知る。土鬼の盲目の上人は、神聖皇帝から邪教とされている。それも口伝による歴史語りだった。その中で、封印が解かれたことが告げられ、ナウシカは王蟲の心を覗くことで、理解するのだった。
聖都シュワの墓所は、文字による専制支配が貫かれた場所。「われわれは、聖なる文書の解読と検証に全てを捧げる集団」文字が生まれ、その文字を理解する。忘れられた旧世界の古文字を読みとき、検証する。神聖皇帝も、それ以前の土鬼の王たちは、みな墓所の主とそれに仕える教団によって擁立されていた傀儡の王だった。文字による専制が生み出した偽王だった。
生命をも意のままに造りかえる巨大産業文明の核心とした生命技術がある。ユパとアスベルはその培養槽を破壊した。僧正は「生命を弄り、王蟲をもてあそぶ」僧会のやり方に反旗を翻した。神聖皇弟によって殺される。シュワの庭は、動植物の原種・農作物・音楽と詩を生きたままに伝承していくためにヒドラが千年の生命を得て、庭の主として仕えてる。生命を操る悪魔の技術が密かに残されている。
グロテスクな形をした虚無という存在。皇弟の霊に対してナウシカは「なんて惨めで、あわれな生物」という。骸骨が、ナウシカが持っているテトの死骸。骸骨は「はやく捨てなさい。死者が蘇る」と声を荒げる。骸骨も虚無だった。ナウシカは盲目の上人に対して、私たちの風の神様は生きろと言っている。私は生きるのが好きだ。私はあきらめないと叫んでいる。虚無は生への希望を喰らおうとする。
「虚無に言われるまでもなく、私たちが呪われた種族なのは判っている。大地を傷つけ、奪い取り、汚し、焼き尽くすだけの、もっとも醜いいきもの」というところまでナウシカは考える、人類の持っていた罪を全部引き受けるのだ。大海嘯の後に腐海の苗床になり大地の汚れを癒そうとする王蟲とともに、腐海の一部となろうと決断するナウシカ。王蟲はナウシカを体内の中に入れていく。それを森の人が助けることで、ナウシカの使命はさらに大きくなる。
赤坂憲雄は、作品から引用して、1000年、7日間が黙示録に関連していることを述べる。破壊された世界の中から新たな生命が芽生え、希望が生まれる可能性が黙示録的な要素と深く結びついている。さらに、赤坂憲雄は、ロレンスの『黙示録論 現代人は愛しうるか』の中で黙示録とは、「人間の不滅の権力意志とその聖化、その決定的勝利の黙示に他ならない」を引用し、ナウシカは、権力の意志を聖化することを拒んで、黙示録に死の接吻を与えた。ナウシカが進んでいく世界は、ヴ王のいう「破壊と慈悲の混沌」だった。
ナウシカはいう「お前は滅ぼす予定の者たちをあくまで欺くつもりか。お前が知と技をいくら抱えていても、世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか。私たちの身体が人工で作りかえられていても私たちの生命は私たちのものだ。生命は生命の力で生きている。その朝が来るなら私たちはその朝に向かって生きよう。生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。深いも共に生きるだろう。だがお前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから。真実を語れ、私たちはお前を必要としない。」
ナウシカは、墓所には伝えるに価しない技が残されて、死の影をなぜ吐き出しているのか?と問うが墓所の主は答えない。ナウシカは、生態系を全て変えることができる墓所を、オーマの光で破壊する。
オーマは「裁定は下っている。私は私を産み私を導き私に名を与えた小さき母のみ従う」という。
ナウシカは「世界を滅ぼした火を再び使ったのです」という。
ナウシカは、善と悪、闇と光、清と濁、そういう2元論を真っ向から否定する。全てを受け止める。闇や汚れをも抱える生命のことが愛おしい。
赤坂憲雄は、技術の不可逆性について語る。一度手にした技術をどう放棄するのか?確かに新しい技術が普及すれば、社会の構造や生活様式が大きく変わる。インターネット、スマホなどによって、情報の入手方法や意見の発表する方法も変わり、それが大きな影響を与えている。元の状態に戻すことは難しい。工業化によって、公害による人的被害も起こった。しかし、工業化をなくすわけにはいかない。
しかし、ここで言われている「火の7日間」を起こした光は、原子爆弾を思い起こさせる。核兵器という技術を習得したことで、地球が破壊できるほどの兵器を持った。しかし、それを全て廃棄するということは、本当にできないのだろうか。核兵器が抑止力になるという単純な言葉で済ませることができるだろうか。
また、このナウシカでは、生命を操る技術についてかなり踏み込んだ物語が作られている。ナウシカが発表された時以上に、生命を操る技術が開発されている。ワクチン技術、ゲノム編集ベイビーなど様々な遺伝子操作技術が進展している。それを捨てるわけにいかない中で、どうするのか?
このナウシカ考の深い洞察が、ナウシカの物語のさらに大きな広がりと波紋を寄せている。
とても、このナウシカ考をレビューするには、力が足りないことを痛切に感じた。
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本書を読み進め、今更ながら、コミック版ナウシカの物語の強度と深度におののいた。
著者は、ほとんどの場所で批評的な言説、謎解き的な言明を避けている。まるでナウシカの世界を民俗誌として、忠実に「記録」することに徹しているようだ。
しかし、様相は『黙示録』への参照から一転する。『黙示録』の排除、欺瞞を嗅ぎ取り、ナウシカは反黙示録的性格と言い切る。西欧的二元論を超える広がりを持っていた。
思想史的なインパクトをはかるには、まだ早い。まだまだ私たち人類はそこまでいたっていない。
追記:最期のバフチンのポリフォニー論は蛇足ではないか。締めの言葉が必要だったのかもしれないが、最期までナウシカとナウシカ考を読んだ読者には自明の事実だ。 -
マンガ「風の谷のナウシカ」を論じた大作。民俗学者である著者が、ひたすらにテキストとしてナウシカを読み込み、解釈した試み。かなり好き。
本書は25年間の考察を経て2019年11月に出版、マンガ「ナウシカ」の思想に真っ向から挑み、地理、世界史、民俗学、神話や文学など現実の文脈のなかにナウシカを位置付け、さまざまな角度から読み込んだ野心的な本です。
宮崎駿の思想の到達点など、丁寧にな解釈が面白い。
この本を読みながら、「ジブリ」と同時代であった幸運をつくづく感じました。
続きはブログへー!
https://hana-87.jp/2021/03/27/nausicaa_kou/ -
国家に対する共同体を基本とした部族社会
技術の非可逆性
二元論に対するアンチテーゼ
文字による支配
ナウシカを改めて読み直したい
教養と言っても過言ではないほどに現代社会を見据える多くのテーマが組み込まれている -
読んでいると、どこかの国の歴史本を読んでいるような気分になりました。でもこれは宮崎駿の創作した物語。個人的には、「浄化」は今のコロナ禍と重ね合う部分もあるのではと感じました。
難しい言葉で敢えて書かれているような印象を受けますが内容は、ナウシカファン同士であそこはこうだよね!と語り合っているような感じでしょうか。またマンガを読み返したくなりました。
後半は、引用が前半と同じ箇所が多く内容も重複している気がしたので星4つにしました。 -
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文字が権力を分泌する
ー赤坂憲雄,本書,p224
・ナウシカを文化人類学する
文化人類学者たちが南西諸島や密林の奥地に分け入り調査したように、民俗学者・赤坂憲雄氏がナウシカ世界へとダイブしてゆく、学術とエッセイの間を揺れるような批評。
その分引用も盛んで冗長な部分もあるので、ぜひ読み飛ばしつつ興味のある部分だけ読んで欲しい。頭から読まなくても、各所に思索の旅路が無数にあり、どこから読んでも十分に楽しめる一冊。
内容としては、やっぱり文化人類学といえばレヴィ=ストロースで、その足跡を頼りにナウシカ世界を進む赤坂氏のイメージが浮かぶ。
特に聖都シュワの墓地の秘密に言及する箇所。そこでレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯2』で看破したように、都市と帝国が搾取と支配を確立するために文字を必要としていることを引き合いに出し、墓所の主人の体に現れる文字が「権力を分泌している」ことを鮮やかに取り出して見せているのには舌を巻いた。
さらに話は二元論の超克としてのナウシカへと進む。トルメキアやドルクという国家に抗する、風の谷という共同体の黙示録。それを示した『風の谷のナウシカ』は、善と悪、敵と味方の二元論を解体しているということ。それはまるで腐海のような解毒の作用を持っているのかもしれないと思いを馳せる。
終章「宮崎駿の詩学へ」は、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』へのオマージュ。ドストエフスキーの作品に見られたポリフォニーという表現形式が、ナウシカという漫画、ひいては宮崎駿の思想にも見て取れるというのである。
これはまさに、主客の二元論を超克した多視点的・多元的な漫画表現へと宮崎駿が到達していたという赤坂氏からの最大限の賛辞であり、その表現形式はナウシカの核心が二元論の超克であり、ポリフォニーへと結実することの必然的な帰結なのだろう。 -
この本を読むのに約2か月もかかってしまった。感想は引用の繰り返しが多すぎて、もっと簡潔にまとめられなかったかということと、著者の個人的な考察本というならともかく、万人にも解り易く綴って欲しかったと言う事。民俗学者としてすごい経歴の方だからこそ。書いていること自体が難しすぎて、頭がパンクしそうになりながら何回も同じところを読み直し、そこに引用の繰り返しがはいりと。そして宮崎さんがここまで考えてナウシカを書いたのだろうかという疑問。ただもう一度、漫画版「風のナウシカ」を読み直そうと思ったのは確かです。頭が悪いので、宗教的な話や、哲学的な話についていけなかったのが本音で、特にこの本の批判をしているわけではありません。実際にこの本を読み終わって、「シュナの旅」を読んで見ようと思ったのと、漫画版「風のナウシカ」をじっくり読み直そうと。そういう意味では凄い本なのかなぁと思っています。
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風の谷のナウシカは大好きな作品だったけど、私はナウシカのことを何も分かっていなかった。とおもほどの深い思考がここにあった。
ナウシカは自己を投げ打ってみんなを助ける聖女のイメージだったけど、そうではなかった。限りなく、他者(それは人間以外の生命を含む)への配慮を持ちつつも、自分の考えを絶対に曲げない、強く賢い賢者だった。導かれし者であり、導く者。しかし、最後には、破壊と慈悲の混沌とまで呼ばれるに至る。そう、一歩間違えれば、とんでもない破壊者であり死神にもなり得る。
いや、当たり前なのだ。ナウシカも人間であり、人間は、みんなみだらな闇を抱えている。そのことにやけに安心するとともに、王蟲や菌類の友愛の美しさと儚さよ。喰うもの、喰われるものは、表裏一体でここには敵も味方もない。闇や穢れや虚無は人間が持つものであり、生存の避け難い条件。だからこそ、墓場の主が1000年前から構想されていたプログラムを受け入れない選択をキッパリとした。性とは不確実性を孕むもの。世界は美しく残酷だ。もう唸るポイントが多すぎてまとまらない!
記憶に残るのは
名付けをめぐる論争の中で、いかに名前が重要かと言うこと。他者への名付けは贈与であり、その人を支配し所有する方法。名前を簡単にあかしてはいけない。これは別の物語、ゲド戦記でも強く描かれたことだった。
生命を操る技術を持った人々が腐海という攻撃的にして目的を持った生態系を産み落とした。それ自体が異形だ。生命を操る技術は、使ってはいけない。
すべては闇から生まれ、闇に帰る。
いのちは闇の中のまたたく光。
最後はドストエフスキーとの比較まで出てくる展開。それだけこの物語は懐が深い。深すぎる。この物語の壮大さと先見性と、宮崎駿さんも戸惑うような、物語が勝手にうまれて生まれていく過程を、どう理解したらいいのか、まだ分からずにいる。
2022.02.03 -
オリジナルも深すぎて理解できなかったが、この解説も難しくて理解できなかった。マンガやアニメはただただ面白く楽しみたい。
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そうであって普通、当然なんですけど、宮崎駿さんや「風の谷のナウシカ」を超えることはありませんでした。
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マンガ版「風の谷のナウシカ」を様々な観点、切り口から読み解いた本。
二元論的な思想に抗し、自らの中にことがらの両面を引き受けて生きるということでしょうか。
最後に示される「ポリフォニックなマンガである」という点が、それぞれの登場人物がいきいきと語り、作者がそれについていっている風ですらある、このマンガのありようを端的に伝えているように思います。 -
気取った文章で、言いたいことがよくわからない。
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マニアだな
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宮崎駿作品の相互参照で駿作品に通底するテーマを推測すると言った色が強い。多様なモチーフへの言及があるのは考える材料になる(例えば森の人と役行者)が、考察されないまま文脈のない共通点が指摘されるのみ、という印象が強く、通読出来ずに本を置いた。序盤と、森の人、年代記あたりの章のみ読んだ。
著者プロフィール
赤坂憲雄の作品
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感想 :

ナウシカ原作読んでないんですか。
だったら、アニメについて語ってもいいけ...
ナウシカ原作読んでないんですか。
だったら、アニメについて語ってもいいけど、宮崎駿自体について語るのはよした方が良い。
「もののけ姫」似てるところ、違うところ、たくさんあるけど、到底ここでは言えるものではない。