亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言 増補版

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (446ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000613033

作品紹介・あらすじ

「国際友好の義務を果たす」という政府の方針でアフガニスタンへ送り出されたソ連の若者たち。やがて彼らは一人、また一人と、亜鉛の棺に納められ、人知れず家族のもとへ帰ってきた……。作家がみずからの目と耳で体験し書き留めた同時代の戦争の記録。作品発表後に巻き起こった裁判の顚末など大幅に増補した、最新の版に基づく新訳。

感想・レビュー・書評

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  • 表紙の写真をじっとながめる。あどけない、なんだか大きめの軍服が合わなくて、Tシャツ姿で公園あたりでサッカーでもしていそうな……どうみても少年ではないか? 

    本作品は『ボタン穴からみた戦争』、『戦争は女の顔をしていない』などの著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948~ベラルーシ 2015ノーベル賞)の告発的作品といってもいいかもしれない。底本は1991年に発表され、世界に広まったようだ。
    そしてこの年、ソ連は崩壊した。

    1979年~1989年、「国際友好の義務を果たす」という名目で、ソ連はアフガニスタンに侵攻を開始し、約10年もの戦闘が続いた。その背景事情として、ソ連が「兄弟国」とみなしていたアフガニスタン親ソ政権には、反政府ゲリラの存在があったようだ。くしくも隣国イランでは、イスラム革命によってホメイニ師をトップとするイスラム共和国が誕生。その飛び火を懸念し、ソ連はアフガニスタンの危機を救うという大義をひねり出した。だがその実態は、覇権争奪のための侵略的戦争だろう。

    そのさなか、アレクシエーヴィチは聴き取り調査をおこない、1991年に発表。
    ところが1993年、証言者たちが彼女を被告とする裁判を提起、それもあいまってこの戦争の実体が判明していく。
    1994年、アレクシエーヴィチはこの裁判を逆手にとって、新版『亜鉛の少年たち』を発表。この戦争の愚劣さやソ連完全撤退のみじめさ、その被害の甚大さが明らかになっていく。

    アフガニスタンに送り出された若者たち、高校を出たばかりの少年たちも含めて50万人余り、1万5000人以上が死亡。運よく帰国できたとしても、足や腕を失い、病み疲れ、死に魅入られ、自死や他殺、麻薬中毒、軽蔑のまなざし。旧ソ連のウズベキスタン、タジキスタン、ベラルーシなどからも多くの若者が派けんされたようだ。
    かたや戦場となったアフガニスタン住民の被害は……10倍以上と言われているようだが想像もつかない。正直、思考停止してしまう。ベトナムでも南方戦線でも沖縄でも、地上戦地はずたぼろにされるからだ。

    この本は、その帰還兵、彼らの母や妻、現地医師や看護師などの証言をもとにした作品。もちろんアレクシエーヴィチの手法――多声を、ポリフォニーのかたちを――駆使して、なるべく多様な声を、忍耐強く集め続け、戦争というものの姿を鮮明に立ち上げたもので、単なる録音反訳の証言的記録ではない。

    『歴史を体感しながら、同時にそれを書くにはどうしたらいいのだろう。あの日々のいかなる瞬間を切り取ってもいいわけではない。ありとあらゆる「汚れ」を根こそぎつかんで、本に、歴史に、引っ張り込めばいいというものではない。「時代を射抜き」、その「精神を捉え」なくては。
    「どの悲しみの実体にも無数の影がある」(シェイクスピア『リチャード三世』)』

    彼女のまなざしは、つねに「ユートピア国家」建設のために踏み台にされてきた小さき人々の苦悩や感情をとらえて放さない。その言葉は彼女という人間のなかをくぐってきた詩情にあふれている。私がいうのもおこがましいけれど、詩歌や散文、フィクションでもノンフィクションでも、どのような形式でもまったくかまわない、どれも好きだ、すばらしいものだと思う。でも結局のところ根はひとつで、すべからく魂から発する核のような、思わずそのまえにひれふしてしまうような祈りにも似た、それは言葉でも、あるいはついに言葉にはなしえなかった霧のような行間でもいい。そういったものがなければ、執拗な時間による破壊、言語の壁、さらには忘却という腐食をのり越えることはできないと思う。

    30年あまりの時を経て、この普遍的作品のかなしい性なのか、いまロシアが「兄弟国」と言ってはばからないウクライナへの侵略の本当の姿を映しだしているように思える。
    ロシア本国のみならず、周辺弱小国から大量に狩られる若者たち、彼らを駒のようにつかい、ウクライナのロシア系住民を救うという大義で侵攻。そのロシア系住民を含む市民への無差別破壊を繰り返してやまない。そしてそこは凄惨な地上戦の地になっている。

    作者の言葉は易しいうえに、訳者のことばも優しい。素晴らしい作品だ(2023.3.25)。

    ***

    『……閑散とした長距離バスの待合室に、旅行鞄を携えた士官が坐っていた。隣では兵士らしい丸刈り頭のやせた少年が、イチジクの枯れ木が植わった鉢をフォークでつついている。田舎の女たちが他愛なく横に腰かけ行き先や目的や職務をたずねる。その士官は気が狂ってしまった兵士を家へ送り届けるところだった。「カブールからずっとこうして掘っているんですよ。とにかく手にしたものならなんでも使って、シャベルでもフォークでも、棒切れでも万年筆でも」。少年は顔をあげる。「隠れなきゃ、いま塹ごうを掘るから……早く掘るのは得意なんだ。集団墓地って呼んでいたんだよ、みんなが入れるように大きいのを掘ってあげる」
     限界まで開ききった瞳孔を初めて見た』
             ――1986年6月 アレクシエーヴィチの手帳(手記)より

    ***
    「戦争は体験しない者に快い」――エラスムス

    「忘却は欺まんのひとつのかたち」――スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

  • 「戦争」という言葉は使用禁止…言論弾圧下の母国に対しロシア語圏作家が語ったこととは | 特集 | Book Bang -ブックバン-(新潮 2022年5月号 掲載)
    https://www.bookbang.jp/article/732312

    亜鉛の少年たち - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b606554.html

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    岩波書店 図書 2022年6月号
    <対談> 戦争文学で反戦を伝えるには
    逢坂冬馬、奈倉有里

    姉弟対談素晴らしかった!皆さん是非お読みください、、、

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      今週の本棚:伊藤亜紗・評 『亜鉛の少年たち』=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里・訳 | 毎日新聞(有料記事)
      https://...
      今週の本棚:伊藤亜紗・評 『亜鉛の少年たち』=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里・訳 | 毎日新聞(有料記事)
      https://mainichi.jp/articles/20220716/ddm/015/070/016000c
      2022/07/17
  • 読み終えたが、感じたことを表現するのは難しい。虚しさと、わけのわからなさ、、、
    表紙の写真の少年のあどけなさが印象的。顔つきも身体も幼さが残る。

    訳者あとがきにもあったが、「日本」という言葉の多さ(日本製のラジカセやビデオデッキ、または、よく切れるナイフや無反動砲)に気付き、どきりとさせられた。つながっているのだと。
    そして、今現在起きていることを考えると、過去のことではない。終わっていないのだと。

    “…あんた、なんのために本なんか書いてるんだ。誰のためだ。あの戦場から戻った奴らは、どっちにしろ嫌がるだけだ。ありのままを話すなんて、できると思うか?…俺たちは故郷に戻ってもみんなから余所者あつかいされる。俺に残されたのはただ、家と、妻と、もうすぐ生まれる子供と、共に現地から帰ってきたわずかな友人だけだ。ほかの奴は誰一人信用してない。この先も信用しない。”

    “…集落に寄って、なにか食べさせてほしいと頼んだ。現地では、もしお腹を空かせた人が家に来たら、温かいナンをごちそうしなきゃいけないっていう風習がある。女たちは食卓に案内し、食べものを出してくれた。でも俺たちが家を去ると、その女たちは子供もろとも村人たちに石や棒を投げつけられ、殺されてしまった。殺されるのをわかっていたのに、俺たちを追い払わなかったんだ。それなのに俺たちは自分たちの習慣を押し通して…帽子もとらずにモスクに入ったりしてた…。”

  • スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる、アフガン帰還兵やその家族(遺族)の証言録。
    『戦争は女の顔をしていない』は第二次世界大戦に参戦した女性たちの記録であった一方、本書はアフガニスタン紛争(1978年-1989年)で戦った、少年を含む人々の証言である。
    個々の兵士たちが、英雄になること、現地の人々を救うことを目指して戦ったはずのその戦争は、しかし、国際社会からは侵略戦争と断じられるに至った。
    戦争に行き、負傷して帰ってきたもの、心に傷を負ったもの。そして、帰ってくるはずのわが子を失った母。
    侵攻後、まもない時期に聞き取られた証言には生々しさが滲む。戦争はきれいごとでもなければ作り物でもない。人が人を殺し、殺さなければ自分が殺される場である。軍隊内でのいじめもある。しかし、一方でそうした場にしかない充足感を感じたものもいて、帰国後、疎外感に悩む例もある。
    侵攻の後半には、志願していないのに現地に送り込まれるものも増えていく。表向きは自分で志願したことになっているが、実際は半強制で、ほぼ断ることはできない。
    そうして送り出した兵士が命を落とした場合、亜鉛の棺に入れて送り返される。長時間を要する保存と輸送のためである。完全に密封されたそれは、家族のもとに戻っても開けることを許されず、中身を確かめることもできない。
    「亜鉛の棺」は、内情が不明だが、何か恐ろしいことが起こっているらしい、アフガン侵攻自体の象徴となった。

    帰還兵士たちは英雄としては迎えられなかった。
    母親たちは愛するわが子を失った嘆きにむせび泣いた。
    そうした彼らの証言や墓標を記す本編がすでに十分な読み応えを持つのだが、本書には、もう1つ別のものが付く。
    本書が発行されてしばらくして後、アレクシエーヴィチは、インタビューした兵士や母親から裁判で訴えられる。兵士らの証言を改ざんしたり意図的な抜粋をしたりすることで、兵士の名誉を棄損し、中傷したというのだ。
    この裁判記録を含めた形にしたのが、本書、増補版である。

    裁判の間も傍聴人席からアレクシエーヴィチに非難の野次が飛ばされる。
    インタビューの際は、戦争の非道さに憤り、ともに泣き、共感しあったはずの証言者たちがなぜ。
    アレクシエーヴィチは、証言者のプライバシーを守るため、一部、彼らの名前を変えて出版したが、それすらも「改ざん」と言われてしまう。
    そして戦争を題材に金儲けをするもの、ドルを稼ぐものと言われてしまう。
    この顛末もすごいが、裁判記録も併せて、1つの作品として発表する著者の姿勢に唸らされる。なぜなら、この記録こそが、戦争をめぐる価値観の揺らぎを如実に示しているのだから。

    アレクシエーヴィチも、訳者による巻末の解説も、証言者らの豹変の陰には、体制側の教唆がありけしかけがあるという。それはその通りなのだろうと思うのだが、一方で、兵士や母たちがただただ騙されているというわけではないように思える。
    「祖国」や「正義」のために戦い「名誉」を手に入れるはずだったのに、いったいそれはどこへ行ってしまったのか。
    彼らの中にそうした不満があり、教唆を受け入れる「素地」があったように感じられる。
    そもそも「祖国」や「正義」への思いは、戦争の陰にはいつでもあるものだろう。
    ある意味、この裁判は彼らの心を守るための戦いでもあったのではないか。
    その方向性が正しいのかどうかはさておき。
    もう1つ、「私たちは(あるいは私たちの子供は)命まで賭した。あなたはただ話を聞いただけ。何の権利があり、何をもって、私たちを代表する、私たちの代弁者だというのか」という思いが陰にはある。「しかも、あなたは私たちや子供たちのことを書いたその本で、富や、少なくとも名声を得ただろう。それは不公平ではないのか」という思いが。
    そうではない。そうではないと言いたい。帰還兵士や母たちが戦う相手は、彼らの思いを聞き取った作家であるべきではないはずだ。けれども一方で、兵士らのその思いを汲まなければ、見えてこないものがあるのではないか。

    多くの問いかけを孕む本である。

  • 「戦争は女の顔をしていない」の著者であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏の著書『亜鉛の少年たち』を読みました。

    1979年から1989年までの約9年間行われた、ソ連によるアフガニスタンへの軍事派兵。

    この本は、アフガン侵攻に派兵されて帰還した兵士や看護師、そして彼・彼女らを送り出した母親たちの証言をもとにした「ドキュメンタリー小説」でした。

    前線に送られ戦死した10代の少年たちの遺体は、密閉されて遺族も開けることが許されない「亜鉛の棺」に入れられて戻ってきたという。
    そして、帰還することができた少年たちは、戦場での生活で心が凍りついてしまい、まるで金属のようになっていることがある、という意味も題名に含まれているのだとか。

    「戦争は女の顔をしていない」と同様に、帰還兵や戦死した兵士の母親へのインタビューを淡々と並べたもの。リアルで生々しい戦場での出来事や、帰還してからの生きづらさや、息子を失った悲しみ、怒り、それらを、証言者の言葉として並べていく。

    「戦争は女の顔をしていない」(第二次世界大戦中のドイツ侵攻から祖国を守った「大祖国戦争」の記録)と違っているのは、アフガニスタンへの派兵が、のちに国際社会から「政治的過失」と呼ばれる派兵であったこと。祖国を守るのではなく、他国に侵攻するものであったこと。

    そして、もう1つの違いは、この書籍が、出版後に一部の証言者たちから訴えられ、裁判となったこと。

    私が読んだ版(原書が2013年に出版されたもの?)には、その裁判記録が追加されていました。

    アフガニスタン派兵が「国際友好の戦士」「アフガニスタンの地で道路や橋を建設し、人々から感謝されている」というふれ込み(刷り込み?)で戦地に送られ、そこでアフガンのパルチザンたちとの血生臭い戦闘を経験し、軍の中での新人いびりや差別があり、時には人道的ではない行動を強制され、戦死すれば亜鉛の棺に入れられて(遺体が入れられているとは限らないけど)、家族のもとに返される。「国際友好」とは名ばかりで、国際社会から「政治的過失」と見られる軍事行動であったことで、全てをなかったこととして処理される……。

    祖国(ソ連)に「騙される」形で国際的犯罪に加担させられてしまった末端の兵士たち。著者のアレクシエーヴィッチ氏は、信頼関係を築いたうえで証言をしてもらい、それを文章にしたはずなのに、ソ連崩壊後に独立したベラルーシにおいて、何人かの証言者から裁判が起こされた。アフガン侵攻という記録があってはならないと考えた黒幕が証言者たちを、また「騙して」裁判を起こさせたのかも…。


    兵士たち、母親たちの証言を読むのは辛いものでした。
    きっと実生活では普通の感覚を持っていた少年が、過酷な生死を分ける戦場で感覚を失っていく。普段ならしない犯罪的行為もおこなってしまう。むしろ、犯罪的行為を「みんなで」行わなければ、その集団の仲間と認められないような状況。

    これを読んでいる2022年。ロシアがウクライナに侵攻している。ロシア軍の去った後の村での惨状や、一般人や一般人に影響を与えるインフラを狙ったミサイル攻撃の報道が日々更新されている。多分、「亜鉛の少年たち」の中の少年たちのように、祖国に「騙されて」派兵され(私たちの感覚では)犯罪、と呼べる行為をしてしまう。

    「俺はごく普通のソ連の若者だった。祖国は俺たちを裏切らない、祖国が俺たちを騙すわけがない!と思っていた。」



    大義がどこにあるのか、政治的な駆け引きとして何が許されるのか、一般人の私には線引きはよくわからないけれど、「戦争」とか「侵攻」とか、そんな判断をすること自体が犯罪なのだと思う。一般の私たちは、この本を読めば、戦争、というものを起こしてはいけないんのだと気が付く。けれど、どこかの国とかどこかの国とかどこかの国とかのトップは、この本を読んでも何も感じないんだろう。

    どこかの国のトップには、見えているものが違うんだろう。

  • 今、このタイミングで読んで良かった。新訳で付け加えられた裁判の記録が、戦争の真の悲劇をさらにえぐるように訴えてくる。

  • 第二次世界大戦での苛烈な独ソ戦を経験した女性兵士たち、子供たちへのインタビューを織りなした『戦争は女の顔をしていない』と『ボタン穴から見た戦争』を世に問うたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ。本書は1948年生まれの著者がほぼ同時代の出来事として経験した別の戦争 ー アフガン紛争 - についての織物である。著者は、アフガン紛争に参加した兵士、看護師、そしてその母親たちへのインタビューを行い、地べたの目線からのアフガン紛争をあぶり出している。

    ソ連が介入したアフガン紛争は、1979年に始まり、その後10年以上継続されたのち1989年ソ連軍の完全撤退で終わった。大祖国戦争と呼ばれ、ロシアの人びとの誇りとなりまたアイデンティティのひとつにさえなった独ソ戦に対して、アフガン紛争は後にその意義が国内外で問われてしまう戦争になった。ソ連は国際的には悪役になり、国内でも大きな失政と見なされた。またその結果としてアフガン紛争はタリバン政権を生み出し、グローバルテロにつながり、米軍の介入を生み、そして今また米軍が撤退した後もタリバン政権下での不安定な政情が続いている。

    そして重要なこととして、その戦争の意義が否定されたことで、本人、そしてその家族もまたその大儀を感じることができないことだ。そのことが、帰還兵や息子を亡くした母親の言葉を、独ソ戦のそれとは異なるものとしている。兵士は自らの命を懸けたものに対して物語を必要としているが、アフガンではそれは与えられなかったのだ。

    ある帰還兵の次の言葉が典型的なものだ。
    「俺たちは大祖国戦争の兵士たちと同じ偉業を成し遂げるんだって説明されてきた。ソ連がいちばん優れていると繰り返し言い聞かされ、疑ってもみなかった。もしソ連がいちばん優れているのなら、俺個人がいちいち考えるようなことじゃないはずだ、すべては正しいはずなんだから」

    本書は冒頭、アフガンから戻った後に近所で肉切りナタで人を殺して服役することとなった帰還兵の母親の話から始まる。アフガンですっかり変わってしまった息子のことを語る母親の言葉が示す現実は眩暈がするものだ。実際に戦地にも赴いたアレクシエーヴィチは、そこで少年兵たちのほとんどが好戦的であったことに驚く。人は「死」を目の当たりにすることでなにを思うものなのだろうか。アレクシエーヴィチは次のように語る。

    「死を思う――未来を思い描くように。死を目の当たりにしながら死を思うとき、時間の感覚になにかが起こる。死の恐怖がそばにあると――死に魅入られる・・・」

    アレクシエーヴィチは、アフガン紛争を俯瞰的な視点から示すことはしない。
    「歴史を体感しながら、同時にそれを書くにはどうしたらいいのだろう。あの日々のいかなる瞬間を切りとってもいいわけではない。ありとあらゆる「汚れ」を根こそぎつかんで、本に、歴史に、引っぱり込めばいいというものではない。「時代を射抜き」、その「精神を捉え」なくては」

    そして、時代を射抜くための表現の方法が、まだ切れば血が出るような生きた声を記録することだったのだ。
    「私は同時代の、いま目の前で起きていく歴史を記録し、本を書いています。生きた声、生きた運命を。歴史となる以前のそれらはまだ誰かの痛みや悲鳴であったり、犠牲であったり犯罪であったりします」

    タイトル『亜鉛の少年たち』の「亜鉛」は、現地で死んだ兵士の遺体を運ぶための亜鉛の棺のことを指している。亜鉛で作られ溶接で密封された棺は、国境を越えて遺体を運ぶときに、死臭や体液が漏れ出ることを防ぐ。そして、届けられた遺体は亜鉛に収められたまま開けられることはない。今もまた、ウクライナで戦死したロシアの兵士たちは亜鉛の棺で故郷に運ばれ続けているのだろうか。帰還した兵士たちは、故郷においてウクライナでのことをどのように自らの中で解釈を行うことになるのだろうか。そして、ウクライナで死んだ兵士たちの母親たちは故郷でどのように思うのだろうか。

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    『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4006032951
    『ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/400603296X

  •  アフガン戦争の真実。ソ連政権の巧みなプロパガンダにより徴兵された少年たちは、亜鉛の棺に入れられて帰還した。母親たちは、その棺を開けることは許されなかった。
     アフガン帰還兵、戦没者の母親たちへの多くのインタビューから、戦場で何が起こっていて、人間はどのように破壊されていくのかが明らかにされる。

     この著書が広く世界中で読まれているのは、アフガン戦争の真実を暴いた、ということよりも、「戦争」「戦場」の持つ普遍的な悍ましさ、戦争へ駆り立てる権力者の欺瞞もまた普遍的であることを暴いたと言うことだろう。どんな戦争も、ベトナム戦争も、今起こっているウクライナでの戦争も、そしてかつての太平洋戦争も、同じであろう。

     今回増補された、この著書を巡る裁判の顛末。権力の恐ろしさを実感する。

  • 社会人になってから、近くに置いておきたい本の1つ。

    アフガンってこんなに悲惨やったんやというのと、よくもこれを出版したなというのが率直な感想。重い内容なのは間違いないのに、どんどんと引き込まれる。情景が鮮やかに浮かび情が湧きながらも、どこかでそれを冷静に落とし込みながら、アフガン帰還兵の証言と裁判に触れることができた。「戦争は女の顔をしていない」とはまた別の衝撃で、これは、本当に今のロシアがやっていることと見事に重なる。アレクシェーヴィチのようなインタビュアー・伝え手になりたい。自分の原点を思い出したような気持ちにもなって。さて、がんばるか。

  • あまりに重く辛く、読み始めたのを後悔しつつ、一気に読まないと読めないと思い、ほぼ一日で読んだ。裁判記録の途中で1日が終わり、もう少しで終わると言うのに、次がなかなか手に取れなかった。手を離すと辛くて重くて手に取れなくなる。でも間違いなく一気に読む本ではなく、誰かと語り合いながら少しずつ読みたい本であるのは「戦争は女の顔をしていない」と同様だ。
    裁判記録まであるので、二重に考えさせられる。

    今もウクライナやガザ等世界のあちこちで殺されたり殺したりの戦いが続いている。どうして人間は学ばないのか。「この本読めよ」と思う。
    戦争で殺されたり殺したりする人は、みんな普通の庶民で、戦争を起こすことを決めた人たちではない。死んだり、手足をなくしたり、心を病んだり、息子を亡くしたりするのはみんな庶民だ。何ができるのか、下々の者たちは。
    たまたま「今の日本は2年前のウクライナと同じ状況だ」と言う記事を読んだばかりで、恐ろしくなった。戦争の手前で、ずっと手前で止めなければいけない。そちらに進ませようとする政治を止めなければならない。戦争は始まる手前で止めるしかない。始まってしまえば、終わらせられないし、核兵器は絶対に使わせられない。泥沼に陥り、戦場に駆り出される庶民も、残された家族もみんな苦しむ。死ぬ。手足を失う。飢える。
    大国の犠牲になどなりたくない。戦争を起こして喜ぶ人たちの犠牲にはなりたくない。平和な国で生まれて平和な国で死んでいきたい。ウクライナやロシアやイスラエルやパレスチナの人たちも本当はそのはずなのに、そうはなれない、そうも思えない状況に置かれているようで辛い。

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