門 (岩波文庫 緑 10-8)

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003101087

感想・レビュー・書評

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  • 『三四郎』『それから』を読んでからかなり時間を置いて読んだ。『門』というタイトルからしてなんだか地味だし、「横町の奥の崖下にある暗い家で世間に背をむけてひっそりと生きる宗助と御米」なんて紹介文を読むにつけてもあまり食指が動かなかったのだ。今にして思えば、読むのを先延ばしにしていたのが実に悔やまれる。

    よかった。ひょっとしたら前二作よりもよかったかもしれない。

    思うに、漱石の作品には独特の雰囲気が漂っている。匂い立つような明治の東京の空気が。それは鮮やかな風景の描写からも、活き活きとした登場人物たちの会話からも色濃く感じられる。漱石の小説を読むたびに、私はその空気の中に浸る。筋を追うというよりもむしろ「夏目漱石的な感覚」に身を任せることを愉しむ。
    そういう観点から見ると、この『門』は大変気に入った作品だ。落ち着いていて、うつくしくって。愛というよりは慈しみと呼ぶのがふさわしいような宗助と御米の関係が淡々と描かれる。読者は彼らの背負った業の深さを知っているだけに、現在の関係性のありかたには迫ってくるものがある。

    最後の場面での宗助の言葉「うん、然し又ぢき冬になるよ」が効いているなぁ。思わず息を飲んだ。

    この作品の持つ深みを全然言い尽くせないのが歯がゆい。歳を重ねるに連れてまた違った読み方ができるのではないだろうか。いつか再読しようと心に決めた。

  • 一貫して作品を貫くトーンは暗いが、明治時代の作品とは思えぬ現代的なテーマを内包した作品である。

    主人公の宗介には感情移入出来る人は、現代でも結構いるのでは?
    私には現実逃避しがちな思考回路や、問題を先延ばしにする所、挙句は運命のせいで納得する所など、全くもって宗介的な考え方はよく分かるし、自らの中に宗介を見る。

    幸せなのは御米との仲が、小六というさざ波はあったものの仲睦まじい所でホット出来る所である。

  • 『三四郎』『それから』に続く、いわゆる三部作の締め。もっとも、前2作とは打って変わって、筋立て上ではドラマチックな展開はほとんど無い。むしろ、『それから』にも通じるような道徳上の「不義の愛」が、いつまでも宗助と御米の人生を暗くし続けている。その描写が手を変え品を変えなされる。『それから』同様に、「自然」とも「運命」とも称される、自我を超越した何らかの力が生活に働きかけているとしか思えないような出来事を、宗助も御米も体験してしまう。この繰り返しは、生活上の小康状態を得た最後のシーンでもなお予感されている。「またじきに冬になるよ」という言葉は、「自然」「運命」の力の強大さを表して余りあるものではないだろうか。

  • 面白いじゃん!
    漱石の三部作を完読。素晴らしい。この年になって今更だけど。。。^^;
    3冊読んでどれも話が完結してない。こんなふうに、でどうなるのかを想像させるのが良いとこなんだろうか?う〜ん消化不良。。。

  • 世間の潮流から隔絶されたように生きる宗助と御米は、かつて犯した罪からは決して逃げられない。先々重荷を抱え込まなければならない運命を、彼等は選択した。たとえその罪を口にしない時を長く過ごしても、贖罪はおろか、罪の忘却さえも永劫叶うことはない。何せ彼らは人間的尊厳の墻壁を貫通し、禁断の姦通の中で育まれた関係であった。彼らは街の隅っこの崖下に家を借り、屋根の下で絶望を口にしないで労苦と微笑の生活を営んでいる。彼らは他者の犠牲の元に成り立った関係であることを認識しているため、不遇な身を執拗に嘆く事をせず、代わりに苦笑や微笑を用いて内奥を隠し、皮相を飾る。そしてボロ屋の中、狭い二人だけの領域で「自分たちの生命を見出して(68頁)」いる。
    そして、二人の生活の物語は心地よい秋日和に始まる。物語の後半に差し掛かるまで、彼らの過去に何があったのかは包み隠され、暗中を暮らす二人の煮え切らない生活が描かれるが、随所に過去の惨憺が仄めかされている。序盤、平穏な雰囲気から物語は始まるが、休日に宗助が東京の街を散策していると、妻の御米に似合いそうな半袖を見つけ、しかしそれは5、6年前の事と感じてつまらなくなる。また、子供に恵まれない悲しみを幾度か吐露する。これらからも漠然と彼らの暮らしが察せられる。彼らが一緒にいる理由には愛も勿論あるだろうが、それと共に忌避できぬ思いから離れることも許されていないのであろうと私は思った。彼らに希望や自由など存在しないのである。彼らには、普遍的な社会や家庭の幸福からさえも蚊帳の外の存在であり、運命はそれに味方するように、彼らから幾度も子供を奪う。絶望を絶望と感じることさへ彼らには与えられてない権利のように感じる。やがて季節が過酷な冬になり、宗助は今まで二人会話に出さなかった安井という、彼らが裏切った者の現在を大家から聞いたことで、一時の秋のような平穏は瓦解していく。同時に、過去からは絶対に逃げられないとその時知る。
    そして、ここからが重大な岐路であり、ここでの選択の慎重さと態度が人生において大切なのではないかと私は感じた。世の中、罪を背負った人間が幸福を求め、現実の社会に生きるという事を間違っているとする認識が遍くあり、そしてこの認識が誤謬である事を気がつかないと、宗助と御米のようになってしまうのかもしれない。人は弱った時に、何かに縋りつきたくなる。御米の場合は易者であり、宗介の場合は公案であった。しかし人間のどうしようもない信仰心は、本質に近づくようで、更に本質から遠のかしてしまう。何故なら本質から遁走するために信仰を持ち出してしまうからであろう。彼らは罪は償うものであるという事を無意識のうちに忘れ、罪をどうにか切り離そうと迷走してしまった。それでいて、幸福を求めてはいけないものであると達観した自身を装った。この時、彼らには慎ましやかでいて奥底には鬱積した傲慢さを宿していたのではないか。これらの人間の狡猾さがいつまでも彼らを愚かなままに留めてしまっているようである。そして完全に自分の使命を見失ってしまっている。恐らく彼らに求められたのは、逃避を諦め、現実を受け入れ、自身の範囲の中で幸福を探求したければならないという事だったのではないか。私はこの作品を読んで、幸福を追求する義務という価値観もあるのではないかと思った。幸福とは、追求するもしないも自由であるが、追求したくなるものであるという、幸福に対する寛容的態度が当たり前と私も考えてきた。しかし、人にはこれをする「義務」があるのかもしれない。何故なら人は少なからず社会的な個人だからである。社会と個人の狭間に、現代は明確な線引きを設ける風潮がある。しかし実際それはどうなのであろうか。幸福になるかはともかく、追求するその過程を怠るということは、犯した罪を蔑ろに扱うエゴイズムという捉え方もできてしまわないか。宗助と御米の前に立つ開かずの門は、エゴイズムからの脱却と自身の境遇の改善を追求する前向きな心情との欠如が原因で開かずにいるのではないか。そしてそのエゴイズムを発揮しているこの二人の個人というのは、他者、つまりは社会の領域にも侵入し、個人と相互関係にあり、影響し合うこともあるとはいえないか。この物語でいえば他者は安井である。彼に対する罪の意識を失わないことが少なくとも美徳であり、向き合わないことは不徳である。そして美徳を選択している以上は、個人としての幸福を追及しているということになるとはいえないか。そうとすると、個人の幸福は回り回って他者の為にも求められるのではないか。故に彼らは自分らの境遇を悟り、次に季節のように浮き沈みのあるのが人生であることを理解し、畢竟時期にまた過酷な冬が訪れるとしても尚探求を強いられなくてはならないのである。するともしかしたら生きてニヒリズムとデカダンスを自身に宿すことこそが、本当の罪なのかもしれない。社会と個人の融合は、辻邦夫が漱石論を用いて最後に解説していたが、まさにその為に幸福という主題こそが人生なのではないかと私は新たな価値観を垣間見れた気がする。彼ら二人の迷走によってそれを読者に届けてくれているように私には映った。

  •  宗助の必死の、しかし逃避的な行動に自分が重なり、後半は読み進めるのが辛かった。漱石はどういう視点と言うか心持ちで本作品を書いたのだろう。自らの内に観たのか、当時の社会から抽出したのか。

  • 著者:夏目漱石(1867-1916、新宿区、小説家)

  • 夏目漱石の前期三部作の3作目。
    「三四郎」、「それから」に比較すると知名度が低く、三部作を上げたときに思い出せない作品だと個人的には思ってます。
    ストーリーも他の2作と比較すると地味で、カタルシスを感じるようなシーンなどもなく、平坦な日々を送る主人公「野中宗助」とその妻「御米」夫婦の苦悩を描いた作品となっています。
    三部作の他の2作同様、夏目漱石らしい直接的ではない表現が多々用いられており、それが返って情景描写を鮮やかにするのは変わらないのですが、本作はそもそも何が起きたのか、物語の核となるストーリーが深く語られないままとなっていて、人によってはよくわからない、面白くないと感じる可能性があります。
    文章自体は口語で読みやすく、文学に慣れ親しんだ方であれば面白く楽しめる作品だと思います。

    「それから」では、友人の妻を奪い、高等遊民から脱して職を求めたところで終わっていますが、本作の主人公は過去に友人の妻を奪ってしまい、世間から背を向けて生きる役所勤めの男「野中宗助」が主人公です。
    実直で生真面目な「三四郎」、高等遊民を気取り親の脛を齧ってのうのうと生きる「それから」の代助とはまた全然違うタイプの主人公で、野中宗助は愛する妻と共にひっそりと生きており、日常への飽満と同時に倦怠を備えた人物です。
    宗助はかつては活力に満ちた、アグレッシブな人物でしたが、友人の内縁の妻を愛してしまった事により世間から背を向けて生きることとなりました。
    宗助は役所に勤め、毎日電車で通勤をしており、経路には賑やかな街があるのですが、頭に余裕がなく、いつも素通りします。
    七日に一度の休日も贅沢をせずに散歩だけで終わってしまうような日々を送っている。
    そんな宗助と御米の夫婦に厄介な問題が降りかかる話で、作品としての雰囲気は暗いです。
    「それから」では友人の妻に思いを打ち明ける、盛り上がる展開がありましたが、本作はその結果、また、その代償のような物語が展開されます。

    私は大変楽しく読めましたが人を選ぶ作品かと思います。
    作中の人物の事情や過去について序盤に説明などなく、中頃になってようやく明かされる書き方となっているため、だからこそ先が気になるわけですが、読む人によってはそこが難しく感じてしまう可能性があります。
    ただ、本作は「それから」でなぁなぁで終わったいろいろがちゃんと書かれているので、直接の繋がりはないのですが、前期三部作のラストらしい作品でした。
    本作は「それから」の完結編のような内容だと思いました。全2作を読んだのであれば、読むべきと思います。

  • 資料ID:C0030593
    配架場所:2F文庫書架

  • p.167
    大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は何処も彼所も既に砂だらけだったのである。彼らは砂だらけになった自分たちを認めた。けれども何時吹き倒されたかを知らなかった。

    思ったより平易で読みやすかった。平和で静かで、少し気後れしがちな夫婦の家庭に落ちている陰の理由がだんだん明らかになっていく。結局核になっているものは夏目漱石の作品は同じテーマなのか、という感じはするけれど、崖の上と下等何かとつけて対比されている坂井家と描写や物語の進み方と明かし方といった手法が分かりやすく、そして意識的で良かった。

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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