- Amazon.co.jp ・本 (227ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003243558
作品紹介・あらすじ
デミアンは、夢想的でありながら現実的な意志をいだき、輝く星のような霊気と秘めた生気とをもっている謎めいた青年像である。「人間の使命はおのれにもどることだ」という命題を展開したこの小説は、第1次大戦直後の精神の危機を脱したヘッセ(1877‐1962)が、世界とおのれ自身の転換期にうちたてたみごとな記念碑ともいうべき作品である。
感想・レビュー・書評
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キリスト教やカインとアベルには詳しくなかったので深く読むことはできなかったが、どう生きればいいのか、愛について考えるいい機会になった。
思春期と呼ばれる時期特有の不安定さ、青春期真っ只中でのどうしようもない状況がよく伝わるほどに緻密に書かれた主人公・ジンクレエルの感情は共感できるものがあった。ヘッセの別の作品を読んでからもう一度再読したい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヘッセ(1877-1962)、1919年の作。第一次大戦の精神的危機の中で作家は書き、ドイツ青年層に熱狂的に読まれたと云われる。副題「エミイル・ジンクレエルの青春の物語」
作品から溢れ出てくる、私自身の諧調、社会の何処からも聴こえてくることのなかった、私自身の内なる声。それが確かに聴こえてくる。"孤独な人間同士のあいだに生じうる共同体"とは、例えば、この作品とその読者ということであろうか。
ヘッセは本作品の中で繰り返し説く。自己自身の内に深く没入せよと。そこから内発的に聴こえ出てくる声にのみ耳を傾けよ――それ以外は全て偽りであり紛い物であるところの俗物衆愚(運命を担うことから逃避した"集団")の雑音駄弁に過ぎぬ――と。そしてそれだけを生きよと。それだけが生きるべき問題なのだと。つまり、自己自身へ向かう道を行けと。自己自身へと到達せよと。
【どんな人間の生活も、自分自身へゆく道であり、道のこころみであり、・・・。かつてだれひとりとして、どこからどこまでかれ自身であった人間はない。しかもなお、だれもかれも、そうなろうと努めている・・・】
【ぼくたちはしゃべりすぎるよ】【りこうそうなおしゃべりなんて、ぜんぜん価値がない。・・・。自分というものから、はなれてゆくばかりだ。自分をはなれてしまうというのは、罪悪だよ。ぼくたちは、自分の中へかめのこみたいに、すっかりもぐりこむことができなけりゃだめだ】
【自分とほかの連中とをくらべるのは、よくないな。・・・。・・・いろんな予感がわいてきたり、たましいのなかの声が語りはじめたりしたらすぐに、そういうものに身をまかせてしまってね、はたしてそれが先生がたやお父さんや、またはどこかの神さまにも、お気にめすとか、都合がいいかなぞと、わざわざ聞かないことさ。そんなことをすれば、身をほろぼすことになる。そんなことをすれば、歩道をあるくようになって、化石になってしまうよ】
【ある人間をにくむとすると、そのときわたしたちは、自分自身のなかに巣くっている何かを、その人間の像のなかでにくんでいるのだ】
【どんな人間にとっても、真の天職はただひとつ、自分自身に到達することだ。かれが詩人としてまたは狂人として、預言者としてまたは犯罪者として、終ろうとかまわない――それは彼の本領ではない。それどころか、そんなことは結局どうでもいいのである。かれの本領は、・・・、自己独特の運命を見いだすこと、そしてそれを自分のなかで、完全に徹底的に生きつくすことだ。それ以外のいっさいは、いいかげんなものであり、のがれようとする試みであり、大衆の理想のなかへ逃げ戻ることであり、順応であり、自己の内心をおそれることである】
羊水の楽園――自己‐世界未分離の楽園――が破られて、そこから放逐される、失楽園。【多くの人は、われわれの運命である死と新生を、ただこの一度だけしか体験しない――つまり、幼年期が腐朽して、しだいにくずれおちてゆくとき、すなわち、いとしくなったすべてがわれわれを見すてようとして、われわれがとつぜん、宇宙のさびしさと、死のようなつめたさを、身のまわりに感じる、このときだけなのである。そして非常に多くの人たちは、永久にこの絶壁にぶらさがったまま、せつない気持ちで、一生のあいだ、とりかえしようもなくすぎ去ったもの、失なわれた楽園の夢・・・に、しがみついているのだ】。しかし、このような"死の世界"を通り過ぎ"再生"へ到る、という自己形成の物語(Buildung Romance)はもはや成立しない。世界軽侮と自己軽侮が必然的に到り着くところの世界否定と自己否定。否定態としての自己意識は、否定主体そのものとしての自己自身をも否定しようとするその仮借なき徹底性に於いてこそ、自己意識を自己意識たらしめる。こうして、死と再生の無際限の反復が、自己意識によって演じられる。我々に帰るところはない ―― return to nowhere ―― 人間は、いつもそこから引き剥がされる以外にない存在態だ【ふるさとへ帰るということは、決してないものなのよ】【ずっといつまでもつづく夢なぞというものは、ないのです】。我々は、常に世界に於いて何者かとして断片化されんとする以外になく、終ぞ全体的なる実存に於いて何者たりえない【ただひとつ、できないことがあった。――ほかの連中がするように、心のなかにもうろうとかくれている目標を、そとへひっぱりだして、どこでもいいから、目前にえがくということだった】。星に惚れこんでしまった男の寓話(P.200)は、自己意識の否定態という在り方に関して、実に示唆的だ。否定対象として、世界は欺瞞の空虚、縁無しの無限遠の穴、でしかない。自己は、手足を捥がれた無限小の点でしかない。実存は、即物的な仕方でしか世界の中に存在を許されない。そこに流れる時間を、日常、と呼ぶ。
しかし、沈潜した自己の内に於いて、我々が見つけるものはなんであろう、我々が聴き取る声はどんな響きであろう。無際限の否定という自己意識の機制そのもの以外に、一体何があるだろうか。沈黙だけが聴こえる。その沈黙に耳を傾けなければならない、その無に出遭わなければならない。
自己への没入は世界からの逸脱だ、それは世界の側からすれば「死」であり「無」であり「異」である。真に俗物的でしか在り得ない世界大衆へと逃避した太平楽な幸福の既製品に目眩まされてはいけない。致命的に孤独が足りないのだ。致命的に絶望が足りないのだ。我々は今こそ、実存の深い孤独と絶望の内に奥底深くまで自らを浸し尽さねばならない。
【ぼくの問題が、あらゆる人間の問題であり、すべての生命と思考の問題である・・・。ぼくの最も固有の個人的な生活と意見が、大きな理念の永遠の流れに関与しているかをみてとり、かつ突然そう感じたとき、ぼくは不安と畏敬の念におそわれた】
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【まるでそのせつなに、自分のかつておこなってきたこと、体験してきたことすべてが、返答として、実現として、自分のところへもどってでもきたように・・・】 -
勇気を貰う話。
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なりたい自分。自分はあの人のようになれたのだろうか…。デミアンは私にとって思春期の憧憬だ。
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自分の稚拙な言葉ではこのスゴさが表現できない。
もう、逆立ちして世の中をみているような、
こんな風な見方もできるのか!と。
引きよせの法則とか、潜在意識、無意識の活用とか、
そういう本が最近盛んに出版されているけど、
これはそんなことを総括してさらにもっと深いこところに届く。 -
アブラクサスとかカインとアベルとかグノーシス主とかのことはよくわからないけど、自分自身と向き合って理解しようとするとかは共感。
自分の道を激しく生きたいなあ。 -
自我の追求と、運命の認識、神の定義、青春の狂おしい葛藤、救いの対象の盲目的な崇拝、など深く考えさせるテーマの連続だった。
この物語が書かれた背景は、当時のヨーロッパの背景があると書いてあり、同時にヘッセ作の転換策となるらしい。
まだまだ深く考察を書き記すことはできないが、個人的に印象に残ったことを書く。
何よりもこの物語の特筆すべき点は、前半のクローマーとの一幕だ。何とも言えない迫力と、焦燥、場面風景がぎらぎらと頭の中に映るさまは感嘆に値した。
人物の場面描写がとても稚拙で、学校の講義中に友人であり、主人公の似姿でもあるデミアンが、彼自身の中に没入し、物思いにふけっている描写はとてもリアルで迫力があった。
オルガン奏者の人物は、主人公のまた別の世界線の生きざまのように感じた。
最後は、まるで人の人生のように転換時が訪れ、流れ去るように場面が移り変わり終幕に向かう流れは、まさに「運命」を表すかのようだった。
自我に関する考察は、冒頭でヘッセ本人が語ってくれる内容がまさに言葉に転換してくれた。分かるようで、わかり切れない、まだまだ自我の探求には先があり、明かりがあるわけでもないわけでもない、そんな印象を抱いた。
またいつか再読して、もっと深く考察を書き表せたらと思う。