- Amazon.co.jp ・本 (301ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003279014
感想・レビュー・書評
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アルゼンチン出身の作者。父親の仕事で世界を転々として過ごす。
南米作家は、家族の転勤や、自身が外交官やジャーナリストという「旅行作家」タイプが多くいて、一度離れた視線から祖国を見て、そのため却って独自の視線で祖国へのアイデンティティが表現される作品が多いです。
コルタサルの作品は、異空間に放り込まれてドアを消されたような、なんとういうか寝覚めの悪い悪夢を見たような読後です。
また、短編は難しいなりに分かるのですが長編は残念ながら私には理解不能、本人も晩年は「分からないように書けるようになった!」と喜んでいたというので困った作家だ。そんな難解さのため、「日本語には絶対翻訳不能の作品がある」と翻訳者が根をあげているような作家です。
コルタサル短編集は3冊読みましたが、それぞれで言われている言葉があります。
<自分は悪夢を見ると、とりつかれたようになってどうしても頭から振り払えなくなる、それを払いのけるために短編を書いている、つまり、ぼくにとって短編を書くというのは一種の≪悪魔祓いの儀式≫なのです。P259>
悪夢を払うのはもっと強烈な悪夢なのか。似たようなことはガルシア・マルケスやイザベル・アジェンデも言っていました。
本を読んでいると「この作品は作者に憑りついている物を祓う行為だろうな」と思うことってありますよね。
そしてコルタサルの短編小説が、ただでさえ合理的に説明の付かない悪夢の、さらに合理のつかない悪魔祓いなら、読者としては意味とか解釈とか深く考えず、「悪魔祓えたなら良かったね。私も面白かったです」と楽しめばよいのかなと思っています。
※他の短編集にも載っている話のレビューは、同じ内容を載せています。
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時が止まったように暮す兄と妹。だが屋敷に何物かが入り込む、兄妹はただ何もせず屋敷を明け渡す。
…なんかこの短編がどこかの高校の教科書の載っているらしいんですよ。どんな授業しているんでしょうか。
/「占拠された屋敷」
交通事故にあった男が、入院中の病室で夜な夜な見る悪夢。
…これは嫌だ、本当に嫌だ、絶対嫌だ。現実が異世界に侵食される短編の中でも一番嫌だ~と感じる。ネットリした空気感、ジャングルの匂い、身を潜める男の息遣いまで感じる、追いつめられる焦燥感がたまらない。
/「夜あおむけにされて」
寸前で阻止された誘惑の現場を撮った写真は、部屋に飾られた後、起こるはずだったおぞましい展開を示す。
…題名の「悪魔の涎」とは、スペイン語では空中に浮遊する蜘蛛の糸を示す言葉だそうです。同じものを日本語では雪の季節の前に漂うことから「雪迎え」といいます。「ロミオとジュリエット」の中ではフラフラ浮く恋心のたとえとして出ています。
同じものを見ても各国における捕らえ方が違うのが面白い。
天才にして薬物中毒のサックス奏者は、演奏を通して時間の観念を超えた感覚にいた。エレベーターで、地下鉄で、その感覚は蘇る。彼は追い求めた場所へ行きつくためにさらに壊滅的な生活、演奏を繰り返すがしかしその彼岸へは決してたどり着けない。
…サックス奏者チャーリー・パーカーの訃報によせて書かれた作品と言うことで、YOUTUBEで聴きながら(笑)
他の幻想的短編とは違った作風です。
/「追い求める男」
高速道路に信じがたいほどの渋滞が発生する。車で生活する彼らにコミューンが出来上がる。やがて渋滞が解消される…。
…この話はすごい。目から鱗と言うか、こんな読書体験初めてというか、とにかく異質で、短編の一つと言うより、一つのジャンルとなっているような小説です。「高速道路で渋滞に捕まってしまった」という誰でも体験していることでこんな小説書けるんだ!非日常は不便でつらいがいつの間にかそれに馴染んで、それが日常に戻るときのこの喪失感。すごいなあ。
/「南部高速道路」
現在パリのアパートと、古代ローマの闘技場。時代も場所も違う二つの場所で繰り広げられる三角関係を火は燃やし尽くす。
/「すべての火は火」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「続いている公園」
これはオチがわかった。それに短すぎるのでは。
「パリにいる若い女性に宛てた手紙」
口からウサギを吐き出すという発想にたまげた。
「占拠された屋敷」
不可思議な出来事に対する無力感を描いているという点でいえば「パリにいる若い女性に宛てた手紙」に似ている。
「夜、あおむけにされて」 -
その経歴と幻想的な作風からボルヘスとの比較は避けられないが、ボルヘスの作品では虚構が現実を侵食していくのに対して、コルタサルは現実と虚構が並列して存在し、代替可能な様に描かれているのが印象的であった。そこから生じるのは不確かさ故の不安感や寄る辺の無さであり、だからこそ「追い求める男」が求めるものは決して手に届かず、「南部高速道路」で生まれた共同体は形成された途端に瓦解する。そうした作風の原因を、南米出身でありながら半生をフランスで過ごした著者の引き裂かれたアイデンティティに求めてしまうのは蛇足だろうか。
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コルタサルの短篇では「遠い女」のように、幻想が現実を侵食していくもの、いつの間にか視点が移り変わっていくものなど、ちょっとぞわっとさせられるところが好き。
本短篇集では、「夜、あおむけにされて」「悪魔の涎」「正午の島」あたりが好み。
「続いている公園」
どこかで似たような話を読んだなと思ったら、エリック・マコーマックの「フーガ」(『隠し部屋を査察して』)だった。コルタサルのこちらが本家。
「パリにいる若い女性に宛てた手紙」
読んでいるこちらの喉までムズムズしてきそう。
「悪魔の涎」
傍観者として、街角で見かけたドラマチックな光景を写真に収めた男。
壁に飾ったその写真、一瞬を切り取ったはずの写真が独自の時間を刻みだす。写真が窓のよう。観る者から見られるものへ。
「南部高速道路」
とてつもなくヘンな話なのに、最後に味わう寂しさったら。
「正午の島」
一瞬の間に見た幸福な幻影、なのだと思う。 -
南部高速道路
人間同士の関係性は、所詮環境によって形作られ、環境の変化によってあっけなく崩れていく儚いものであることが、よく分かる。
しかしプジョー404の運転手である「技師」の一人称が「技師」であったり、「404」であったりと、ややこしいのは何とかならなかったのか。
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池澤夏樹の世界文学短篇コレクションで読んだコルタサルの「南部高速道路」が好きで好きで、収録されている短編集を購入。
読書という体験は基本的に登場人物の生活に侵入する行為というか、無断で覗き見をしているようなものなのかも、と一瞬我に帰るような作品が多い印象。気付けば自分の背後に人が居たり、見ていると思っていたら見られていたり…。視点がグルグル回る、エッシャーの絵画に入ったらこんな感覚なんだろうか。「続いている公園」「夜、あおむけにされて」「悪魔の涎」「正午の島」「ジョン・ハウエルの指示」「すべての火は火」辺りがそれに当てはまる。「追い求める男」も信頼足り得るべき現実が足元から崩れていく感覚が共通しているかも。薄々勘付いてはいたけれども、終盤に突きつけられる事実の恐ろしさたらないな。
ただ、「追い求める男」はより登場人物の痛みが感じられて好きだった。何かを切実に欲する人の話にどうしても心揺さぶられる。だから恋人の家の不可侵性に耐えられず、白い子兎を吐き続ける男の末路を描いた「パリにいる若い女性に宛てた手紙」も強烈に印象に残っている。しかし何より「南部高速道路」が一番好き。幾日も続く渋滞に巻き込まれた赤の他人同士が、いつの間にか作り上げていた共同体が、渋滞が解消されるのと同じくらい唐突に、一瞬で解けていく…。はあ…人生だ…。 -
「南部高速道路」はカッコイイな。どの短編もキュッと切なくなる瞬間があって息が苦しくなる。それが癖になる。「すべての火は火」はカッコよすぎてしみじみする隙がないくらいアクロバティック。
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知らないうちに「向こう側」に行ってしまう話がいろいろ。あちら側との接続のしかたが多彩で面白い。
かわいくてだめだめな兎ストーリーの「パリにいる若い女性に宛てた手紙」、保身に懸命な評論家の視線で至高をつかもうとする芸術家を描いた「追い求める男」、交換条件がひど過ぎる「正午の島」の三篇が特に良かった。
大人気の「南部高速道路」はそれほどでも。期待し過ぎたし、仕事でずっとじりじりしているからか、渋滞の話にぐっとこなかった。
全体的におしゃれな雰囲気だったのは想定外だった。そういえばコルタサルって欧州住まいが長いんだものね。