現代社会の理論: 情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書 新赤版 465)
- 岩波書店 (1996年10月21日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (188ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004304654
感想・レビュー・書評
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大学時代のバイブルです。最近読み返したら、鉛筆で線がいっぱい引いてあって、無い頭を捻りにひねって考えながら読んだことを思い出しました。
・・・どうやら「構造」というものがあるらしい。それによって世界はまわっていて、「南」の貧困、あるいは「北」のなかの貧困を固定しつつ、様々なリスクを生み出しながら、危ういバランスのうえで、ぼくたちは大学やバイトに行ったり、日々を生きている。
「途上国の8人家族が飢えに苦しみ・・・」というニュースを聞くと、何でそんなに子どもつくるんだよ自業自得!
「コーヒー豆がスタバに買い叩かれるんだ!」と荒ぶる農民をみて、じゃあ別の仕事しろよ依存してるだけやっぱり自業自得!
と辛口評論していた当時のぼくは、見田先生にあえなく論破されたのでした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
予言の書みたいだ。20年以上前にこの本が書かれていることに驚愕する。
資本主義がこれまでぶつかってきた限界と課題
① 需要の限界 → 不況と戦争
・モノが人々の手に行き渡り、「必要」を根底とする需要が無くなる。市場が飽和するという限界。
・モノが売れなくなることで不況が発生し、不況を乗り越える(需要を創出する)ために、戦争が発生するという課題
★ 需要の限界は、需要創出を「戦争」以外の方法で乗り越えること、で克服された。
・ケインズ:政府によって、有効需要を作り出す(公共事業とか)
・情報(デザイン・広告・モード):
フォードとGMの例で説明する。
- フォートは、「便利な」車を、単一モデルで、生産ラインを徹底的に合理化・効率化することで、低価格で販売し、市場を席巻した(=市場を飽和させる)
- 一方GMは、車を「デザイン」で売った。「魅力的」なデザインの車を売り、そして定期的な「モデルチェンジ」を行い「新しい」車を売っていった。デザインには、「正解」がないため、需要には、理論上限界がない(ブランド車を複数所有する金持ちとかをイメージするとわかりやすいかと。便利さだけなら一台で良い。「魅力性」を王ならば、理論上需要/欲望は底なしとなる)。そして定期的な「モデルチェンジ」を行うことで、既存の車はどんどん古いものとなり、新たな「新しい」車への需要を創出する。デザインとモデルチェンジを人々に広めるために、需要を喚起するために、広告が活用される。
モードに関してはMEMO
モードのリズムは以下の二つによって構成される
・消耗のリズム(u)
・購買のリズム(a)
モードは、a/u。購買が消耗を上回っている時、モードが存在する。
購買のリズムが消耗のリズムを超えていればいるほど、モードの力が強い。
モデルチェンジと<モードの理論>が消費社会を駆動するメカニズム。
モードは、広告を通じて、自己否定することで、回転を早くしていく。
② 資源と環境の限界 → 資源の枯渇と環境の破壊と格差
・「情報」によって、需要が無限になったことで、大量生産→大量消費のサイクルが回る。
・「大量採取→(大量生産→大量消費)→大量廃棄」という限界づけられたシステムであり、地球の「資源」と「環境」という外部的な制約にぶつかる。
「資源」:エネルギー、鉱物、一次産品、労働力など
「環境」:地球環境
★ 資源の枯渇と環境の破壊と格差は、大量採取・大量廃棄しない、システムを構築することで、克服される。
・本書では、<消費>すなわち「存在それ自体の幸福」的な話になっている。
▶︎ 個人的には、情報(エンタメ)を消費する社会になると考えている。今後は、基本的に「必要」がテクノロジーによって満たされ始めるので、本書に即していうならば、情報(エンタメ)商品としての「消費」する社会になるかと。
<消費>とエンタメ「消費」がメインとなる社会になると思う。
Youtuber、「好きなことして生きる」、生き様コンテンツ、信用経済、諸々これに関連している。見田さん的に言えば、これらは「ソフト」な側面に属するのかと。
最高に面白い本。 -
高2の夏休みに課題図書として読まされたときは何が何だかサッパリだった。大学で専門の勉強をした今、再読してみると面白いぐらい引き込まれる。素晴らしい本を紹介してくれた、国語の教科担当の先生に感謝。
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資本主義の登場→初期の資本主義は限界性を内包:供給過多となり、需要と吊り合わないbyマルクス→消費化/情報化社会の登場→消費をモード化する&張り巡らされた情報網→人の無限の欲望を刺激→終わることのない消費→資本主義の限界を克服→外部性、資源の限界→克服可能か??
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第一章:情報化社会、消費化社会の展開とその必然性、卓越性
第二章、三章:現在の形態の情報化社会、消費化社会が生む限界問題
第四章:情報化社会、消費化社会の転換による問題の克服の探究
とてもわかりやすかったし、自分にとってあまりにも有意な内容であった。現代の市場のシステムをベースとした資本主義社会の展開やその問題性を掴むとともに、当たり前のはずだが、この社会に生きていると忘れ去られてしまっているような前提に気付かされた。
第四章は少し自分には難解であったが、やはり社会全体の理論として結論を求めると、どうしても抽象的で机上の空論に見えてしまうものに終始してしまうと言う印象を改めて受けた。
総じてものすごく興味深い内容だった。
今後何回も読み返すことになるだろうと思う。 -
情報化/消費化社会の限界(資源の有限性、廃棄の有限性)の克服について。計画経済への転向では無く、自由主義を維持しつつ、限界を可視化(=情報化の上手い運用)により、マインドを変える。
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冷戦終結後に書かれた「情報/消費社会」についての本。
「情報/消費社会」を肯定的に捉えつつ、そのままでは資源、環境、貧困などの「限界問題」が解決されないことから、その「転回」を主張している。
その主張は現代のSDGsに極めて近いことは、以下の引用から分かる。
"転義としての「消費社会」についてはどうか? 転義としての消費社会(商品の大衆的な消費の社会)もまた、それが現在あるような形ではなく、その可能性について考えられるなら、「限界問題」をのりこえることがあるだろうという見とおしを、私はもっている。けれども、このためには「消費社会」が、原義としての<消費>というコンセプトを軸足として、転回されることが必要だろう。<消費>をその原義において豊かなものとしてゆくための、方法としての市場システムを、破綻なく活性化しつづけるための形式として、「方法としての消費社会」というべきものを、構想しなければならないだろう。このことは「消費社会」が、資源/環境の臨界問題、域外/域内の貧困問題を不可避の影として帰結する現在地の構造からの、解き放たれた展開を獲得するために、基底的に必要な条件であるように思われる。" -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/38274 -
2004/04/20読了
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当たり前のことを当たり前に描写していくこと、それを読んで吸収することが読書の一義的な意味なのだろう。だが、それは消費に過ぎない。創作(いかなる分野の研究も創作のひとつ、私にとって。)を消費してやり過ごすことに疑問を感じる私にとって、当たり前がその記述の中で、「なぜそうなのか」を組み立てられる点にこそ、読書に自分の時間、限られた時間を割く価値があるものと考える。
本書は、冷戦の雲が晴れた1990年代における「現代社会」を情報化・消費化社会という切り口で描き、社会問題の視点を述べたものである。すでに25年、四半世紀を経過し、ここで述べられる社会問題の視点は「当たり前」となっている。当たり前、というのは、今にもつながる、そして近未来から遠い未来に至るまで普遍的に残り続けるであろう課題の根底になるという意味である。
本書は、そんな当たり前を述べているという点では評価できるし、深読みすべきだ。だが、残念ながら、「当たり前」を「当たり前」と感じられる内容の経緯や理論としては論述が浅い。新書という媒体の限界なのかもわからない。特に、著者は情緒的な著作から社会を抉り出すとともに、統計的なデータから必然的に表れる現象解釈で追い打ちをかける論理展開が秀逸である、という先入観があったので結論と根拠・例示が淡々としすぎていた。参考文献、その後の著作を読んでみようかと思う(すでに10年後・2006年の著作を読み終えたうえで根幹にさかのぼったつもりだったのだが…)。