- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022731722
作品紹介・あらすじ
読書とは、脳を使った、運動だ!バカにならないためには、読書で、脳を揺さぶれ!養老読書術の神髄がここに登場。後半は、博覧強記の三粋人が、初めて、自らの愛読書と書の接し方を、明かした。この本で、あなたの読書術が、ひっくり返る。
感想・レビュー・書評
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本に関する内容ではありますが、タイトルと内容にギャップがあります。
前半は養老孟司による読書の効用や読み方について。
後半は三人の著者がそれぞれのお気に入りの本や著者について、ジャンル別に鼎談しています。
話がおもしろい方達なので、雑談だけでも楽しめます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
第1部は「「養老流」本の読み方」というタイトルで、養老孟司が読書について語ったエッセイになっています。
本屋に本がたくさん並んでいるのを見て、精神家の待合室みたいだという感想を持つという言葉にはびっくりしますが、自分の理解を超えたものとのコミュニケーションとして読書を捉えるという見方には、教えられるものがあります。
第2部は、養老孟司、池田清彦、吉岡忍の3人が、お薦めの本を紹介する鼎談です。
養老孟司がミステリについて深い造詣があるのは知っていましたが、池田清彦が詩に深い思い入れのあることは本書を読むまで知りませんでした。しかし3人とも、専門外の本をこれほど幅広く読んでいることに驚かされます。 -
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二宮金次郎の伝記では、薪を背負いながら「本を読んだ」、つまり寸暇を惜しし たことを偉いと言っている。 そうではありません。大事なのは「薪を背負いながら」の方なんです。家が貧しく、幼い ころから手伝いをさせられた。どうすれば薪を効率的に運べるか、少しでも肩が痛くならな い背負い方はないか、近道はないか、幼いなりに考えたでしょう。そうしながら本を読んだ。 だからこそ、本をよりよく理解できた。「知育」「徳育」「体育」が子どものころから循環し ていたわけです。 もし、ずっと家の中にいて本ばかり読んでいたら、「尊徳」にはなれなかったと思います。
ノーベル文学賞を受賞したイギリスの元首相チャーチルなんかも、たぶん、そう 若いとき本なんて読まなかったはずです。兵隊でボーア戦争なんかに行っ よう。彼が勉強を始めたのは成人になったころからです。突然学問に目覚めるんです。 それまでは悪童でどうしようもなかった。だから、人によっていつから本を読み始めても 別にいいわけです。
私はくだらない本もいっぱい読みます。いまもアメリカのファンタジーを持っています。どうしてファンタジーを読むかというと、アメリカの常識はこうなんだな、というのがわかるからです。
つまり、中身を読むよりは形を読む。一般的には、読書をするというのは、本の内容を理解することでしょうが、それがすべてではない、そういう読み方ができるようになると、本が別の意味でおもしろくなってくる。「世につまらない本がない」というのは、そこなのです。
本を選ぶのに工夫はありません。とりあえず、おもしろそうだなと思うものを手にする。 ベストセラーは必ずしも読むわけではない。そして、自分が考えもしなかったことを書いて ある本が、一番楽しい。 自分の専門に近いのはダメです。小説でも医療を扱ったものは読みません。
テレビに相当する物がまったくないので、子どもたちはヒマでした。やっていることとい ったら、カニ捕り、魚捕り、トンボ捕り、セミ捕り。冬場なんかは特にやることがないから、 みんなで集まって遊ぶ以外にない。それでもまだ友達が集まらない時間があるわけで、しょうがないから本を読む。 今の時代はそういうのはない。逆です。 その結果、言葉に対する飢餓状態が欠けてしまいました。特に若い人はそうです。 その根本は何かというと、「人間は同じだ」ということを暗黙のうちに前提にしてしまっていることです。 人間は一人ひとり違うという前提から入ると、本を一生懸命読むんです。人間は同じだと いう前提から入ると、違っているのが気にいらないわけです。たとえば、喫煙追放運動が、 どうしてあっという間にこんなに全体主義的になるのか、それに似ているでしょう。 要するに、気に入らないものを消してすべてを同じにしたがる。そうじゃなくて、人間ってこんなに違っていて話が通じないものなんだなと感じてる人ほど人を尊重できる。
読書って、それだけで成り立つ行為ではないのです。たきぎ この点でも二宮尊徳っていうのは極めて象徴的です。「薪を背負いながら」読む。あれが 正しい読み方なのです。 その像が八重洲ブックセンターの前に建ててあるのは、つまり、意味があるのです。 その心理を私の場合で説明すると、家の中で座って読もうと思うと落ち着かない。そもそ もどこで読もうかと思う。机の上にはパソコンが置いてある。後ろを向くと大きな机がある けれど、そこは書類が載っている。秘書がいる。読めないでしょう。食卓で読むかと考える と、これはまた何か食べながらにしようとか思うし、ソファーだったら本をどこに置いてい いかわからない。じゃあ本でも読一番落ち着きがいいのは、電車に乗って「やることない。しょうがない。 もうか」と。目的は別にあるわけです。どこかへ行くわけですから。
私は東京大学の教員時代、鎌倉の自宅から横須賀線の快速で通勤していました。この通勤の片道で、文庫本が一冊読めました。時間にして一時間です。 速く読めるのは、飛ばし読みするからです。どこを飛ばすか。さっと目を滑らしていて、 そこに違和感のある文字が飛び込んでこない限りは、飛ばすのです。つまり、引っかかると ころだけを読むのです。 それは読んでいて、「おっ」と思うところです。自分の頭で追えないようなことが出てく れば気がつくから、そこは読むわけです。「ああ、そういうことか」と思ってまた次に進む。 だって、引っかからないところは自分がわかっているところだから。だから飛ばしていい わけです。
本がその人にとってブレークスルーになるような時代は過ぎてしまったのではないかと思 いますが、私の場合、自分の人生を振り返ると、本のおかげだったという気がします。 大学院に入るとき、ちょうど試験を受けるころでしたが、デカルトの『方法序説』を初め てちゃんと読みました。非常に影響を受けました。物事を明晰に語る、クリアに語る、しか も論理的に語っているからです。 やはりデカルトというのは優れている。ドイツにも哲学者は大勢いますが、まず、みんな 文章が長すぎる。デカルトはフランス人ですが、科学者になるための基本的なところをあれ ほど短い文章で、見事にとらえて書いたものはありません。
文学賞の選考でなぜ村上春樹が落ちるかというと、作家たちが評価していないからです。 評価しない根本の理由は、ある人に言わせると、土俗性がないということだそうです。 だから売れる。村上春樹は世間を少し外部から見ている。けれど完全に外部になってしま ったら私たちの世界とは関係がなくなるので、「お前なんか、どこかに行っちまえ」という 話になる。実際は微妙な距離感を保っている。だから、どこの国の小説かわからない、とい われてしまう。具体性がないとか、心に訴えないとかという評価になってくる。あるいは軽 いとか。文学ってそういうもんじゃないだろう、もう少し神風特別攻撃隊みたいなものだろ うと、彼を評価しない側はいうわけです。 -
微妙だった。
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面白かった。でも『読書術』ではないような?
気になる本が多数あった。 -
色んな人、色んなものと出会いたいなあ
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メモ
デカルト -
蔵書育成のため。
入力、演算、出力。
入力は本を読み、
演算は思考し、
出力は身体を動かしてためす。
裸足で野山を駆け回りたい。 -
この本どういう経緯で発行されることになったんだろう。後ろの対談を本にまとめたくて養老さんが前半の文章をちょろっと書き加えた形?
タイトルも好きじゃないけど、この本自体のコンセプトが破綻している。「私は若い頃はたくさん読書していたものの今はまともに読まないし、大学の教授も本を読むなと教えていたけど、私のオススメの本はコレだよ」って流れになってるもの。何がしたかったのかよく分からない。 -
バカだけどね、バカなりに頑張ろうと思って。再読。