- Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041030080
作品紹介・あらすじ
重い腎臓病を抱えつつ将棋界に入門、名人を目指し最高峰リーグ「A級」で奮闘のさなか生涯を終えた天才棋士、村山聖。名人への夢に手をかけ、果たせず倒れた“怪童”の生涯を描く。第13回新潮学芸賞受賞。
感想・レビュー・書評
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私個人は将棋を指さず、また将棋ファンでもありません。ただ、時々ノンフィクションを読み、小説とは違う、未知で実在した(する)人の生き様を知り、感銘を受ける機会も大切にしたいと考えています。
短い生涯を彗星の如く駆け抜けた天才棋士・村山聖(さとし)にまつわる本書は、出版から20年になるのですね。沢山の新しい感動をいただきました。そう言えば、松山ケンイチさん主演で映画化されました。
天才等の称号をもつ有名棋士の自伝は数多あるでしょうが、本書は『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』(瀬川晶司 著)と対極をなすのでは? と個人的に思いました。一人の人間が見せる多面的な側面を炙り出す素晴らしい内容でした。
藤井聡太五冠(R4.5現在)の活躍で空前の将棋ブームのようですが、将棋だけでなく病気や年齢とも壮絶な闘いを繰り広げた棋士がいた・いる事実を、また陽の目を見ずに道を閉ざされた多くの棋士・奨励会員がいることをしっかりと胸に刻みたいと思います。
29年の生涯は、一般的尺度からすると短いのでしょうが、その中身は人の何倍も濃密で、生きること・将棋をし名人を目指すことの意味を問い続けた泥臭くも純粋な生涯は、決して色褪せることはないでしょう。
『聖の青春』という直接的で分かりやすいタイトルが、もっと多くの若い読者の獲得につながることを願います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者、大崎善生さんの作品、ブクログ登録は2冊目。
大崎善生さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。
大崎 善生(おおさき よしお、1957年(昭和32年)12月11日 - )は、日本の作家、元雑誌編集者、CS日本番組審議会。
で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです)
重い腎臓病を抱えつつ将棋界に入門、名人を目指し最高峰リーグ「A級」で奮闘のさなか生涯を終えた天才棋士、村山聖。名人への夢に手をかけ、果たせず倒れた“怪童”の生涯を描く。第13回新潮学芸賞受賞。
誰でも、歳を重ねるにつれて、若い頃の純粋さは失われていくものと思う。
それ故に、本作の主人公の純粋さには、心が洗われる。
最後に、本作の主人公、村山聖(むらやまさとし)さん、どのような方かを、ウィキペディアで確認しておきます。
村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段(追贈)。森信雄七段門下。棋士番号は180。いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。
広島県安芸郡府中町出身。血液型はAB型。 -
一切の予備知識もなく手に取った本なので、この本がまさかノンフィクション作品であったとは知りませんでした。
また恥ずかしくも、私は将棋の世界についてほとんど知識もなく、駒の動かし方くらいしか将棋については分かりません。なので、当時騒がれていた、棋士の羽生善治という名前だけは聞いて知っている程度の貧弱な将棋知識です。
棋士、羽生善治が頭角を現してきたその同時期、もうひとりの棋士、村山聖という人間がいたことを初めて知りました。
その彼が、どのような人物でどのような生涯を送ったのかをこの本によって知ることができたことは、とても価値がありました。 -
将棋でプロ棋士になり、A級に在籍する。それだけでも十分ドラマティックなのに、村山聖さんの人生、本当にノンフィクションなのか?と信じられない思いです。生前のご活躍、テレビで見てみたかったです。
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幼くして腎ネフローゼという難病にかかり、入退院を繰り返す中で将棋に出会い、その魅力に魅了され棋士になる。将棋をさす事が自分の命を削っているようで痛々しい描写も。
難病と闘いながら、将棋でも戦う姿は、涙なしでは読めない。村山聖という棋士がいた事を忘れてはいけないと思う。 -
29歳でこの世を去った棋士、村山聖の生涯を描いたノンフィクション。そのまっすぐな生き方に感銘を受ける。腎臓病や膀胱癌、肝転移との闘病記も壮絶で、このようなハンデを抱えながらも果敢に夢への挑戦を繰り返す。森先生やライバルたちとの交流にも、彼の人柄が出ていて心地よい。生きる意味を考えさせられる一冊。
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島田潤一郎さんの本で知って、早く読みたかったこの本。読了直後に泣きながら書いた感想をそのまま投下します。↓
寂しい、初めて村山さんのことを知ったのに、寂しくてたまらない、虫が良すぎるけど
村山さんの将棋を生で見てみたかった。
運命が残酷、もう読む前の私には戻れない読んだ後も涙が止まらない。これからの私の人生で村山さんを忘れることは絶対にないし、29歳の誕生日、私は村山さんのことを思い出すと思う。名人、とってほしかった。
悲しくて寂しくて辛い。どれほどの辛さ、痛さ、無常感だったんやろう。想像を絶する。そしてどれほどの、名人への渇望だったんやろう。死が常に隣にあり、命あるものは髪も爪も切れない、でも将棋も自分が生き延びるか相手を殺すかだという葛藤。思い通りに動かない体、暗闇と水滴の音だけの中で過ぎゆくのを待つ無力さと恐怖。。現実の自分の体といつか必ず来る死、それに打ち勝つには将棋しかなかった。将棋と、名人になるまで全員を倒す、勝利しかなかった。自分だけが知る自分の体の予感、コントロールして付き合ってきたからこそ最期の時や悪い進展もわかる、その恐さはどれほどやったやろう。。それでも諦めず、自暴自棄にならず、名人への切望を死ぬまで忘れなかった。ひたむきとか懸命とか純粋とか、この世にある言葉では表せない気がする。
大傑作やった。2024年序盤も序盤やけど、今年良かった本ランキング間違いなく一位。本の好きなジャンル関係なく、是非読んでほしいと思った。 -
久々の再読。何度読んでも胸が熱くなるが、今回はとりわけしみた。昨日、ずいぶん前から一度行きたいと思い続けていた前田アパート(村山九段が長く住んだ古アパート)を思い切って訪ねたところ、ありがたいことに部屋の中まで見せてもらえたのだ。村山青年が将棋と、また自分の運命と格闘した場所。言葉にしようがない感慨で胸がいっぱいになった。
村山九段が亡くなってから、すでに四半世紀。その部屋が以前のまま残され、好意で見せてもらうこともできることは、いくつか読んだもので知ってはいた。大阪在住なのだから、行こうと思えばすぐ行けるわけだが、そういうのに限ってなかなか行かない、というありがちな話。昨日は、将棋会館に立ち寄ったついでに、ふと訪ねてみる気になった。近くから見るだけでもいいや、将棋会館からアパートまでの道をたどってみようと、「聖の青春」に出てくるシンフォニーホール前の公園などを眺めつつ歩く(この師弟の場面は絶品)。女子校横の公園の向かい側に「三谷工業」の看板。ここだここだ。二階の一部屋の窓に映画の小さなポスターが見える。間違いない、あそこが村山青年の部屋だ。
しばらく立ち止まって眺めたり写真を撮ったりしていたら、三谷工業から人が出てきた。あれは!「聖の青春」で、歩けないほど弱った村山青年を、何度も車で将棋会館まで送ってくれたと書かれている「電気工事屋のおじさん」その人ではないの?思わず走って道を渡り、「迷惑かも」とひるむ心を叱咤して「三谷工業の方ですか?ここは村山九段が住まれていたアパートですよね」と声をかけると、その方は「そうですよ。中を見る?」と言ってくださったのだった。ああ嬉しい。
かなり急な階段を上がった先に、扉の開いた村山青年の四畳半があった。「これはこないだ森先生が来てくれた時の写真。ここにノートとかあるから。別にいつまでいてくれてもいいよ」と言葉少なにおじさんは階下に降りて行かれた。そのぶっきらぼうな感じがすごくあたたかかった。うまく言えないけど。思うにこの方は、道の向こうをウロウロしてるオバサン(私)を見つけて、声をかけやすいように外に出てきてくださったんだろう。帰りにお礼を言おうとしたら、忙しそうにお電話中だった。本当にありがとうございました。
部屋は古く、実に狭かった。ここに本やマンガを足の踏み場もないほど積みあげていたのか。流しもあった。少しゆるめた蛇口からポタポタ落ちる水の音で自分が生きていることを確かめた、あの流しだ。下半分が磨りガラスになった窓から公園が見える。きれいな黄色になった銀杏の葉がたくさん散っていた。
帰ってすぐ、「聖の青春」を読み返した。今の時代にはまずありえないような、尋常ならざる師弟の物語である。スマートさからは程遠い、泥臭さに満ちた人間群像に惹きつけられてやまない。村山青年を直接知ることのなかった多くの人が、「聖の青春」を通してその熱量の高い生き方にふれ、忘れがたく心にとどめる。思えば不思議なことだ。
余計なことを付け加えれば、映画版は原作とは全然別物だと思う。森先生と村山青年という唯一無二の師弟関係が原作の背骨なのに、映画は羽生さんとの物語に変えられている。わかりやすくはなるだろうし、観客も呼べるだろうけど、私はがっかりした。森先生をリリー・フランキーがやってたのに、まるで脇役でほんとうにもったいなかったです。 -
村山聖氏のこと、彼が28歳で亡くなったこと、あの羽生善治九段のライバルであったことはもちろん知らず、そもそも将棋についても全く知識のカケラも持ち合わせていませんでしたが、すっかり村山さんの生き方に引き込まれました。
幼い頃から入院生活を繰り返し、成人してからも自分の病気と付き合って行くことを強いられながら、棋士として名人を目指していく。本書に書かれていること意外にも相当な苦労と困難があったのではと思います。遊びたい盛りに、同世代と同じように遊ぶことも出来ない。後期、ひたすらに友人や他の棋士たちと夜な夜な酒を飲みその度に病院へ担ぎ込まれるのはそれまでの不自由さへのせめてもの抵抗だったのではないでしょうか。
彼のように一途に、強く逞しく自分に嘘をつかない真っ直ぐな生き方ができる人間には自分は程遠いなあと、こんな風に無意識に他人の心を動かせるような人間になれるだろうかと、読んだ後はそんなふうに自分自身を省みずには居られなくなりました。