美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041212080

作品紹介・あらすじ

学生・社会運動の嵐が吹き荒れる一九六九年五月十三日、超満員の東大教養学部で開催された三島由紀夫と全共闘の討論会。両者が互いの存在理由をめぐって、激しく、真摯に議論を闘わせた貴重なドキュメント。

感想・レビュー・書評

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  • 以前、一度読んで、三島由紀夫のパートは拾い読みしたが、東大全共闘のパートは観念的すぎて読む気が失せると放ってしまった。今回、映画「三島由紀夫vs東大全共闘」を観て、その熱が覚めぬうちに文庫版を手に取った。/映画で、実際に熱く語り言葉をぶつけあい、時に笑い、時に赤ん坊を抱き、殴らせろと壇上にかけあがり、タバコの火を融通し合う。そんな血湧き肉躍る論戦のあとに読むと、今回は東大全共闘のパートも、すっと入ってくるとはいかないが、ある程度興味を持って追うことができた。/当初のイメージは、極左であるところの全共闘が、反動の極地とも思える三島を招いて、論破し、つるしあげ、粉砕し、晒そうという意図で、それを返り討ちにしようと三島が乗り込んでくるような構図かと思っていた。ただ蓋をあければ、おたがいに目指す方向は近くて、暴力を全否定しないところから通ずるものがあるのでは、という発端から、三島は、言葉の力を信じ、言葉の有効性を信じ、どんな質問にも、たとえ了解不能な質問と思えるものにも、真摯に、言葉で持って立ち向かおうとしているようにみえた。全共闘の側からは、他者との関係、人間対自然、歴史と時間、天皇の問題などさまざまな問題提起がなされたが、惜しむらくは、同じ言葉なのに、三島と全共闘ではその中身がぜんぜん異なっていることだ。たとえば歴史。たとえば時間。たとえば天皇。もっと丁々発止で実りある論戦を行なうのならば、とりあげたい議題をざっくりとでも決め、そこに用いられる言葉の内容をすりあわせておけばよかったのでは、というないものねだり。フリースタイルの思いついた順にしゃべりだし、論を戦わせ、語るというのも、それはまた違った熱量を生み出したのかもしれないけれど。/両者は結局この討論に何を目論んでいたのか。三島は、安田講堂に立てこもった諸君がひとこと「天皇」と言ってくれてたなら喜んで一緒に立てこもったのに、と言い、最後は論理的には負かされながらも、意地となって共闘を拒否、全共闘側も立て看などに観られたように、最初は揶揄しあざ笑おう、なんなら殴りつけてやろうという気概もあったように思うが、討論を通して、通じ得ない部分も多分にあるが、一緒にやれるところもあると思ってきたのではないか。映画を観て、この本に触れて、そう思った。映画は、50年後の真実、と銘打っていたが、明かされたのは、全共闘Aこと木村修がお礼の電話をした際に、きみ、楯の会に入らないか、と三島が勧誘したところぐらいでは、と思ったが。ただ歴史にifはないし、それほどおおきなうねりとはならなかったかもしれないけど、三島vs東大全共闘が、三島&東大全共闘となった世界線も垣間見て見たかった気もする。/全共闘A木村修、全共闘C芥正彦、全共闘H小阪修平の論は特に興味深く。芥氏については、もっと文章にふれたいと思った。映画では負けず嫌いでクセのものすごくつよいダンディといった感じだったが。

  • 三島由紀夫対東大全共闘1000人の伝説的討論を、文章で記録した書。

    先日、この討論のドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観たので、ついでに読んでみたしだい。

    本書は映画に出てこない部分も含めた全記録であり、内容は映画よりもさらにグダグダである。
    映画は不要な部分を削ぎ落とし、「映える」部分をピックアップしているのだから、当然だ。

    全体に、三島は年長者らしく余裕のある言動をし、全共闘の面々は観念的で青臭い。まあ、東大生とはいえ20歳前後の若者たちなのだから、青臭いのは仕方ない。

    本書の後半には、三島と全共闘側がそれぞれ文章を寄せている。
    《討論会の印象、反省、言い尽くせなかった点、確認しておかねばならぬ差違、その他補足説明等》を、400字詰め原稿用紙30~40枚の範囲でまとめたものだという。

    三島はともかく、全共闘の代表3人(無記名)の文章は、何が言いたいのかさっぱりわからない。
    一箇所引いてみよう。

    《一見逆立するかに見える個体的な幻想からの超越である表現と共同的な幻想領域である文化は三島の懸想を媒介として、なだらかに転位する。懸想は共同的な幻想を対象として持つところに三島の幻想の秘密があるからだ》

    全編こんな調子なのである。

    〝観念の暴走〟のごとき言葉遣いと思考の青年たちとの討論は、さぞ骨が折れたであろう。

  • 三、四度目の再読。
    結論から書くと「難しい」。
    読む回数を重ねて漸く概念についての詳細と、事物についての詳細が理解できてきた。
    まだまだ分からない箇所は山のようにあり、何よりも情報量が膨大で途中調べたり考えたりして足止めを食らうというのを毎回繰り返している位に半端な量で苦戦した。
    左翼学生の今では殆ど見かけないエネルギーの強さとパッションを随分前に書籍化してくれた事により何度も体感できるので、とても有り難い一冊。
    敵対した者同士、相慣れない中で次々と展開される問題提起とその思想や哲学にかなり脳味噌を使う。
    何とか三島を負かしたい!と息巻く学生たちの熱情は唯一確かなものだと思う。
    最後の「討論を終えて」の芥正彦氏の思想が凶暴的で怖かった。
    学生運動に命を賭ける若者たちの覚悟も偽物ではないと思うし、映画化されてこれもまた数回観ただけでは通常の人間では理解が及ばないとも思うので、だからこそ書籍化は救いになる。
    何度も読み返したい本だし、まだまだその必要性があると感じている。

  • かじり読み。三島由紀夫との討論の映画を見たあたと、理解のための一冊。

    両者ともにロジカルに観念的な議論をしているが、学生たちがスーパー概念的でまっすぐにあるべき論を語るのに対し、三島は自分の経験、自分の感覚、自分の信念を含めて語る。

    学生たちの言葉は上滑りするが、三島の言葉は私たちの中に染み入る。なぜなら、三島が全身全霊で自分の言葉で語っているから。

    価値観のゆらぎ、迷いが魅力的。

    わたしは三島由紀夫好き!

  • 学生運動たけなわの1969年、東大教養学部の講堂で、三島由紀夫と東大全共闘が討論会を行った。
    その議事録と三島・東大全共闘双方からの補足説明文を収録。

    まず、読んでも読んでもなにを言っているのかわからない。

    ”彼は決して政治的にアンガージュマンしているのではない。滑稽なのは三島の政治的エピゴーネンであり、三島が政治的エピゴーネンの群れを引き連れようともくろむ時彼はデマゴコスの地位を獲得する。”

    わからないのは、私の知識不足のせいかもしれない。
    でも、基本的に言葉というのは、相手に伝わって(周囲に伝わって)なんぼのものじゃないの?
    難しい事柄を分かりやすい言葉で語ることでこそ、相互理解が進むのではないの?
    どうしても、難しい言葉をこねくりまわしているだけの、言葉遊びをしているだけのように思えたのだけど、自分たちでもそう理解していたようです。

    ”知識人とは永遠に肉体を持たぬ言葉のさすらいびとなのだ。”

    なるほどね。
    で、体制に反発して学生運動をやっていたのだとしたら、卒業後はすっかり体制側の人間になってモーレツ社員になったことなどは、どういう理由付けをしているのかと思えば

    ”大学とは具体的な教授や講義ではなく、地位へのパスポートにあるいは生産関係の中に私達が呑み込まれていくための形式に過ぎないのだ。”

    やっぱ、学校という名前の人生の夏休みに、好き勝手なことをしていただけじゃないのかな。

    ブルジョアを目の敵にしていたようだけど、何一つ生産することなく、好き勝手なことをほざいて、暴力で物事を解決しようとして、それをする権利が自分にはあるのだと思い込むのは、ブルジョアと何が変わらないのだろう。
    しかし、では、生産しない者を悪として、額に汗して働く労働者を絶対の善とするのなら、それは毛沢東の行った文化大革命と変わらないのではないかと、私自身の思考にも混乱が生じてくる。

    ”今日私達が暴力学生と呼ばれるのは暴力に陶酔するとか人間性の復活とかではなく、暴力によってしか自己が完結しない冷厳な時代の事実があるからだ。”

    何が嫌いって、東大全共闘の人たちに他者に対する敬意が感じられないところ。
    目の前に三島由紀夫本人がいるのに「三島は…」と呼び捨てにするところや、自分と意見の違う人に対する徹底的な排除。
    なのに徒党を組みたがるところ。
    自分の目的を達するためならば手段を問わないところ。特に暴力に訴えたがるところ。
    維新の時の長州勢を彷彿とさせて、大嫌い。

    ”二・二六の青年将校達―磯部大尉の楽天主義と呪詛は、共同体が地上的権力として現象する構造を見ずして観念に懸想した者の悲しき運命(さだめ)である。”

    これについてのみ、同感。
    磯部元大尉だけどね。蜂起した時は軍属じゃなかったから。

    今まで三島由紀夫の言動って、ちょっと極端じゃないの?って思っていたけれど、これを読む限りでは常識人だったね。
    極論をお持ちとは言え。
    逆に東大の方々は、頭でっかちのお子ちゃまと感じました。
    三島由紀夫は正体を現して発言しているのに対して、東大全共闘は匿名で暴言吐き放題というのも下品だなあと思います。

  • 『つまり、これは』

    まあ、下らないと切り捨てられる人は、とても正常で健全な魂の持ち主であるだろう。この、討論にシンパシーのようなものを抱いてしまった僕は、東大教授によるとどうやら気違いらしい。ふむ。この本の価値は冒頭16ページで見極められる。ただ全共闘の人となりが低俗過ぎて萎えてしまった。

    人と話す時、情熱に託けて冷静でいられない人は頭が良くても、心の使い方を理解してない馬鹿だと僕は思う。買って後悔はしていません。

  • 「美と共同体と東大闘争」三島由紀夫・東大全共闘著、角川文庫、2000.07.25
    174p ¥420 C0195 (2021.06.10読了)(2006.06.23購入)

    【目次】
    討論・三島由紀夫VS.東大全共闘―<美と共同体と東大闘争>
    ・目の中の不安
    ・自我と肉体
    ・他者の存在とは?
    ・自然対人間
    ・階級闘争と<自然>に帰る闘い
    ・ゲームあるいは遊戯における時間と空間
    ・持続と関係づけの論理
    ・天皇と民衆をつなぐメンタリティ
    ・<過去・現在・未来>の考え方
    ・観念と現実における<美>
     ほか
    討論を終えて
    ・砂漠の住民への論理的弔辞  三島由紀夫
    ・三島由紀夫と我々の立場―禁忌との訣別―  全共闘H
    ・あるデマゴコスの敗北  全共闘C
    ・時間持続と空間創出  全共闘A

    ☆関連図書(既読)
    「東大―大学紛争の原点」生越忠著、三一新書、1968..
    「東大落城」佐々淳行著、文春文庫、1996.01.10
    「仮面の告白」三島由紀夫著、新潮文庫、1950.06.25
    「愛の渇き」三島由紀夫著、新潮文庫、1952.03.31
    「潮騒」三島由紀夫著、新潮文庫、1955.12.25
    「金閣寺」三島由紀夫著、新潮文庫、1960.09.15
    「午後の曳航」三島由紀夫著、新潮文庫、1968.07.15
    「青の時代」三島由紀夫著、新潮文庫、1971.07.15
    「癩王のテラス」三島由紀夫著、中公文庫、1975.08.10
    「春の雪 豊饒の海(一)」三島由紀夫著、新潮文庫、1977.07.30
    「奔馬 豊饒の海(二)」三島由紀夫著、新潮文庫、1977.08.30
    「暁の寺 豊饒の海(三)」三島由紀夫著、新潮文庫、1977.10.30
    「天人五衰 豊饒の海(四)」三島由紀夫著、新潮文庫、1977.11.30
    「三島由紀夫「以後」」宮崎正弘著、並木書房、1999.10.01
    (「BOOK」データベースより)amazon
    学生・社会運動の嵐が吹き荒れた1969年の5月13日、超満員となった東大教養学部で、三島由紀夫と全共闘の討論会が開催された!自我と肉体、暴力の是非、時間の連続と非連続、政治と文学、観念と現実における美…。互いの存在理由を巡って、激しく、真摯に議論を闘わせる両者。討論後に緊急出版されるやたちまちベストセラーとなり、いまだ“伝説の討論”として語り継がれる貴重なドキュメント、三十余年ぶりの復活。

  • 反逆のエリート集団 VS 文豪 三島由紀夫
    その時、何と何が衝突したのか❕ 

    今、このような討論が出来る人は非常に少ないように思います。とにかく熱量がすごいです❗
    めちゃくちゃ面白いので、ぜひぜひ、一度読んでみてください。

  • 三島由紀夫vs東大全共闘との歴史的な討論。

    歴史的とは「歴史的価値を持つ」という意味だが、ネガティブに捉えれば「歴史的価値しか持たない」ということでもある。

    三島由紀夫の言説はさすがと言うより他にない。日本人が自らの政治思想を組み立て上げる際に避けて通れないのは天皇の問題であり、そこへ向かってどのようにアプローチしていけばよいのか、そこを諄々と説いている。これはまさにポジティブな意味で歴史的価値を持つ。

    だが、全共闘側の理屈は……これは何だ?
    借り物の言葉を縦横無尽に使っているだけで、響いてくるものがなにもない。要するに、当時の知的ファッションを着込んで仲間内にだけ通じる言葉で語っているだけ。詰る所、彼らの言説そのものが共同幻想の枠組みから一歩も出ていない。
    ネガティブな意味で歴史的価値しか持たぬ議事録であって、これをありがたがるのは「あの頃は青年たちは……」云々の懐古趣味でしかない。

    この感想は、巻末に置かれた全共闘の振り返りを読んで更に強いものとなる。
    今の表現を用いるならば、「中二病」。

    つくづく学生運動は何も生み出さなかったのだ。

  • 当時二十代の学生たちがこれだけ観念的な議論をしていたのは素直に凄いと思った。
    そしてその一見荒唐無稽とも思える話を真正面から受け止め、自分の思想的立場を堂々と主張する三島由紀夫の凄まじさ。
    討論後に両者が寄せた文章でも明らかに三島の方が説得力がある。三島文学が論理的と言われる理由がよく分かる。全共闘側の文章は今でいう「邪気眼」のようだ。

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著者プロフィール

本名平岡公威。東京四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。以後、『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』『豊饒の海』など、次々話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。ちくま文庫に『三島由紀夫レター教室』『命売ります』『肉体の学校』『反貞女大学』『恋の都』『私の遍歴時代』『文化防衛論』『三島由紀夫の美学講座』などがある。

「1998年 『命売ります』 で使われていた紹介文から引用しています。」

三島由紀夫の作品

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