- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061497498
感想・レビュー・書評
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自由とは本来手段であるのに、目的化されてしまったために不都合が生じている
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[2013-01-26]
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趣旨は、近代的自由観への問題提起。
近代的自由とは、国家に先立ってまず自由な個人が存在している、とするものであり、ホッブズにより提唱された見解。
あらゆるものに先だってまず個人の自由がある、と考えるホッブズの見解を突き詰めれば、個人の自由を制約するものとしてこれと対立する規範や道徳は行動指針とはなりえなくなり、結局そちらを選んだほうが得だから、という功利主義的な指針に従って行動せざるをえない、とする。
これに対し、著者は、個人の自由もその国家により実現される側面があることを忘れてはならないとする。
「集団の持つ強制力から逃れていること、ここに近代の『私的自由』が成立した。」(p90) -
サンデル、正義の話と主張が重なって見える。理論、論説の語り口も同じように見えるので、サンデル教授に軍配を上げる。3段階の論理はこびがスムーズ。例が良く分かり、複数上げられていた。
最後に収束するところ、サンデルは倫理、徳であったが、本書は義である。
日本と西洋の違いか?宗教の違いだろう。
キリスト教vs東洋儒教
自由を語るときには、対になる何かを明確に規定がありそうだ。
イラクの人質事件と「自己責任論」、自己責任とは、あいまいなことばである。自由があっての責任と捉えられているが、本当にそうか? -
佐伯先生の講義である。
様々な社会に対して、鋭く闊達な議論を投げかける筆者が、真っ向から「自由」を論じた本書。過去から現在にわたる「自由」に対する定義と議論をまとめた、哲学・思想の解説。
新書にしておくのはもったいない品格のある講義だ。 -
読みやすく、明快な文章だったが、同著で引用されている哲学者の著書を読むことで、より理解が進むと思われる。
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リベラリズムではない形で「自由」を論じるにはどう論じたらいいか。
人は、自分が十分な敬意を払われていないと感じるとき、また、そうした集団に属していると感じるとき、真の意味で自由ではない、と感じる。確かに、より高い価値のために自分を犠牲にするという態度は、特定な価値の絶対化に繋がる。だが、それでも、ある種の自己犠牲は多くの人の心をとらえて離さなかった。それを「義」と呼ぶとすれば、「義」というものは、決してあらかじめ決められているものではなく、その社会のある特定の状況の中で具体的な形をとる。 -
「自由」という曖昧な言葉でカテゴライズしてしまいがちな概念を、きちんと整理するために必要な本です。~からの自由と~する自由の峻別は非常に重要な概念整理だと思います。
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アリストテレスから、カント、ロールズ、ミル、バーリン、ベンサム、ウィトゲンシュタイン、ニーチェ、サンデルまで古今の哲学者を引き合いにだし自由とはどのように考えられてきたのか述べている。サンデルの『正義とは何か』を自由という視点から考えていると言っても良いかも知れない。
自分の理解の及ぶ範囲で要約してみる。
現代では「何故人を殺してはしけないか」「何故援交をしてはいけないか」といった問いに明確に答えられなくなっている。個人の選択の自由と言ってしまえばそれまでだからだ。
その価値観の基礎にあるのは個人主義、主観主義、相対主義を前提とするリベラリズム(自由主義)である。何を善いと思うかは個人の主観であり、それらに優劣を決めることは出来ない。ならば個人の自由な選択を保証し、平等な権利として認めることがリベラリズムの基本である。
しかし、著者はこうした「個人の選択の自由」を普遍的な権利として推し進めるリベラリズムの風潮(アメリカの掲げる正義は主にこれに由来する)に懐疑する。
自由とは本来何かを行うための手段であるからだ。しかしすべての価値が相対的となり、共通の目的を持ち得ない現代では手段である自由それ自体が目的化してしまう。それはニヒリズムの最悪の形態である。
個人は生まれ出た共同体とは独立に存在する普遍的な存在(負荷なき自己)ではなく、ある共同体に埋め込まれ時代、国家、家、性、人種などの属性を持つ「状況づけられた自己」である。
古代ギリシャではポリスにおいて徳を発揮しポリスに貢献し評価されることが善く生きることでもあった。
また著者は人が時として生命よりも優先させるものとして「義」を挙げた。赤穂浪士の討ち入りやソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』などは共同体や時代を超えた義によって動かされていたのだと言う。(主人への忠誠、家族への愛以外にも様々な形の義があり明確に定義できるものではないとも述べている)
著者の結論は自由は多層的に論じるべきでありそれは①個人の選択の自由だけでなく、②共同体を想定した「社会の是認、他者からの評価」③義に叶うという3つの次元であるという。
そして価値相対主義によってニヒリズムに陥るのではなく、多様な義を認め多元性を容認する方向へ向かうことが重要だとしている。 -
▼私たちが求めている「自由」とは何か。いざ考えてみると内容もハッキリとしない。
▼それは「正義」とも関わりの深い概念なのかもしれない。だが、正しさは個々人の価値観からは自由になれない。そしてそれは相対的で、つまり、「悪」との境界線は限りなくあやふやである(そして、誰もが、その自覚の有無に関わらず「悪」を内包しているのだろう)。
▼相対的に全てが「正しく」自由だとすると、つまり、絶対的な「善」が登場してしまう。それこそ、ウェーバーの言う「神々の闘い」の状態であり、ハンチントンの「文明の衝突」さえ具現化されてしまいかねないだろう。
▼「自由」であること――そこから生じる「責任」とは、死者への「責任」である。私たちは偶然性の中で生きているのだ。自らの「死」までの時間をいかに生きるべきかを考える「自由」、そこには、偶然生まれた社会共同体のため、考え、中庸を選び取り続ける「責任」があるのかもしれない。