1973年のピンボール (講談社文庫 む 6-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061831001

感想・レビュー・書評

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  • 大学生時代の思い出。再読。

  • 青春3部作のうちの2作目。1作目に比べるとずいぶんとしっかりした文章になっていると思った。「僕」と「鼠」のその後については次作を読まねばならないが。「僕」の翻訳の仕事の描写が面白い。詳細→http://takeshi3017.chu.jp/file8/naiyou19605.html

  • 再読。
    この文庫の奥付は1989年2月10日第20刷発行。消費税3%が導入される前に印刷されたこの本は価格が講談社文庫のマークシールで隠され「定価はカバーに表示してあります」となっている。
    そんなに前??
    双子と一緒に配電盤を捨るシーンで終わると思っていたら、配電盤を捨てに行くのは物語の中ほど。
    再読の今、双子の存在はかわいいけれど、鼠の孤独もピンボールもちんぷんかんぷんです。

    井戸に象徴される深層心理、猫の手が万力か何かで潰されていた不必要な暴力。それですよね。

    若い頃はジュークボックスもピンボールも音楽もぜんぜん気せず、ストーリーだけを追ったのですが、今、ピンボールなんて実際に見たことあるか?と考え込んでしまった。

    印象的な文章のあるページの角を折り曲げる習慣があるのですが、ふたつ折り曲げられていました。
    「欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。わかるかい?」だと思う。もう一つは・・特に印象的な文章を見つけられなかった。
    それにしても、25歳の男性はこんなに自立してて、お金があって、自由なんだろうか。苦しんでいると思しき登場人物たちは自分の25才よりもずっと大人でお金があって、自由に見える。車なんて持ってなくたって。
    もうひとつ。村上氏の小説の中で、草叢で行為に及ぶシーンがあるのですが、そんなことしたら虫に刺されて大変!といつも心配になります。そういうことを描写してしまうあたりが都会モンだな、って思う。

  • 決別の物語。
    どこかで区切りをつけなくてはいけない、ということが、人生にはある。
    「僕」も鼠も、その境目に立って、対岸を見ている。
    対岸は何も見えない。
    でも、終えてきた「時」は確かに後ろに感じるし、脱ぎすてなくてはいけない殻は心に重い。
    そんな、若い頃の煩悶を感じる作品だった。
    ここで抜けて行かなくては次に進めない、という確信と暗中模索の苦しみが、私にも確かにあった。
    そんな記憶を思い出させる作品だ。
    ・・・・なんて、歳をとったなあ、と、思う。




    2014.6.29
    過ぎ去り、二度と戻ってこないものたち。
    その切なさと、閉塞感と、それでも先に流されてしまう無常観であふれていた。

    鼠の混乱と、一見たんたんと日常を繰り返しているかに見える僕とは、とても似ている。
    交わっていないはずの二つの生活。
    でも、その二つは、同じ何かを軸にして、螺旋を描きながら、同じ方向に向かって進んでいるかのように感じる。

    人は、いろんなところに、いろんなカタチで、いろんなものを置き去りにし、埋葬して、一人歩いていかなくてはいかない。
    いつ読んでも、切ない諦めを感じる。

    2006.7.1
    双子が出て行ったときの喪失感が身に染みる。鼠の行き詰った状態もよく理解できる。でも、どれも、今の私には過去だ。もう通り過ぎてしまったものたち。歳をとったものだ。僕と鼠との生活は、接点がないのによく似ている。

    2000.9.11
    村上春樹の作品を読んで、こんなに切なく寂しい気持ちになったのは初めてだ。前回この本を読んだ時は、とりとめのない作品のように感じたが、今は違う。すごく寂しい。それは、おそらく、私がどうしても手放したくないものと出会ってしまったからだと思う。失うのが恐いと思うほど、大切なものを見つけてしまったから。だから、僕やネズミの「本当の言葉」が痛い。

  • 風の歌から引き続き。
    現実感を感じるのに非現実。空気感が素晴らしい。なぜ引き込まれてしまうんだろう。

  • 井戸の話、犬の話、直子という女性を愛したがすでに死んでしまい、捉えどころのない双子女と3人暮らし。僕と鼠とピンボール、1973年9月始まる。

  • 3部作を後ろから読んでしまっているが、これが一番わけがわからなかった。どれが私で、どれが鼠か。そこが狙いでもあるかもしれないが。しかし、確かにこのあとかなり整理された羊男に進むのは納得感あり。混沌と単純の波間で物語が転換するのか?

  • 喪失、達観、憧憬。
    まあ、あいかわらずの。

    なくしたものを探す旅路。何かが自分を呼んでいる。なくしてしまった、何か。例えば、ピンボール。そして、そのピンボールそのものも、ただ繰り返すモノ。但しそれは、拡散ではなく総括へと、ある存在の軸へと向かう、永劫回帰への憧憬もある。

    世界と自分とのつながりを求める僕。世界から離れて自分と向き合おうとする鼠。鏡を見るような、僕と、鼠。この「つながり(外)」と「自分(内)」とのシーソーゲームも、ある種の永劫回帰。どこに答えがあるわけでもない。

    反復の象徴としてのピンボール。ただ没頭していた自分、失われた時間。見分けのつかない双子、事務的で現実的で、行き場を失う女の事務員、説明にうんざりする鼠。もう説明しなくてすむ、と胸を撫で下ろす鼠。「そしてこう思った。もう何も欲しがるまいってね。」三年ばかり前→ピンボールにはまり込んだタイミング。「終わったのよ、何もかも。」と彼女。「何一つ終わっちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ」と、僕。

    現実をくるくる回す僕。ただ、それだけで生きて行けるわけではない。ふりかかるものたち。誠実=自立=孤立に対してふりかかる災難。

    そして、繰り返される死と性(セックス)。

  • 沁みた。すごくよかった。

    「気分は?」
    「悪くないよ。」
    「仕事の具合は?」
    「上々さ。」
    空はまだどんよりと曇っていた。

    ここ、なんか好きだ。

  • 20111110
    一見気まぐれに移り変わってゆくかに見える話題に最初は戸惑ったけど、それらの総和で話が出来上がっている感じ。
    ピンボールマシンとの再会、そして別れ……何かを捨て、失い、そして一つの時代を自分の手で終わらせてゆくということ。
    何度も読み返したいなと思った。

  • 技術を高めてくゲームをやりこんでるので、それらから離れて何年かしたらこんな感じになるのかなーと思った。ゲーマーは読んだら面白いと思う。
    いつかは離れる時がくるし、ずっと後で再会したときの感覚として共感できた。

  • 青春です。

  • 喪失感というよりも、自らやや前向きに捨てているという印象を、私は持ちましたがどうかな。
    村上春樹だけは、こういう本だというイメージが出来上がっておらず、読むたびにあれ?という違和感を持っていましたが、なんとなく今回はエッセイやら対談やらもあわせ読んだためか、今後の読み方の指針ができたような気がします。

  • 『風の歌を聴け』にひきつづき、
    ますます謎が深まる春樹作品。

    久々に読んだら何か分かるかと思いましたが、
    何も分かりませんでした(笑)

    でも、今はその分からなさを素直に受け入れられる。
    分かりやすさを求めていた若い頃とは違うのさ。

    またいつか読み返そう。
    もしかしたら何か分かるかもしれないから。

  • 雨の日に、貯水池で、双子の女の子と配電盤のお葬式をやるシーンが好きだなあ。

  • 読始:2009,2,9
    読了:2009,2,14


    「風の唄を聴け」に続く二作品目
    いわゆる鼠三部作の二作目でもある。
    それぞれ単独の小説としてみるならば「風の歌を聴け」の方がまとまっている。「1973年のピンボール」は内容が把握しずらい気がした。
    もちろん単独の作品として読めないことはないが、一作目を読んだのちに読むことに意味がある気がする。

    村上春樹の作品で思うのが、誰でも初読でさらっとよめ、確かにそれで作品のよさの一部はわかる。だが、後年何度も読み返すことで真の味がわかりそうな気がするのが村上春樹作品な気がする

    ピンボールもまた読み返したとき、今は気付かなかったよさに気付ける確信がある。今で終わりでなくまた未来にも期待できるというかww

    こん作品ではぼくと鼠の話がパラレルに進む
    両者交わらないし、一作目を呼んでいないとジェイと鼠とぼくの関係もわからない
    ただ全く内容の違う話がふたつあるのでなく本質的に描かれているものは一緒であり、その表出が違うといえようか
    またぼくが同居している双子の女の子の存在意義など考えると面白いテーマがもりだくさん

    私が読んでて感じたのはもっともっと読みたい。何度でも読み返して、細部まで村上春樹が言いたかったことを理解したいと思わせる作品であったということ
    この作品だけの評価だと★3といいたいが、これだけ再読したいと思わせるところを評価して★4。さらにこれを読むことで一作目風の歌をきけも★3→★4になったww


    一作一作が決め手にかけるような気もするが、それでいてもっともっと読みたいと思わせる作品を書くのが村上春樹だと思った

    最後に作中で気になった部分を抜粋してレビューとしたい。


    P.76
    そしてガラス窓に映った僕の顔をじっと眺めてみた。熱のために目がいくらかくぼんでいる。まぁいい。午後五時半の髭がうす暗くしている。これもまあよかろう。でもそれは全く僕の顔には見えなかった。通勤電車の向かいの席にたまたま座った二十四歳の男の顔だった。僕の顔も僕の心も、誰にとっても意味のない亡骸にすぎなかった。僕の心と誰かのこころがすれ違う。やあ、と僕は言う。やあ、と向こうも答える。それだけだ。誰も手をあげない。誰も二度と振り返らない。


    P.93
    あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんな
    月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。


    P.105
    「幸せだった?」
    「遠くから見れば、」と僕は海老を飲み込みながら言った。「大抵のものは綺麗に見える」


    P.137
    「それでも人は変わり続ける。変わることにどんな意味があるのか俺にはずっとわからなかった。」鼠は唇を噛み、テーブルを眺めながら考え込んだ。「そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?」
    「違わないだろう」


    P.165
    「でも過ぎてしまえば夢みたいだ」
    「そうかもしれない。でもね、俺が本当にそう思えるようになるまでにはずいぶん時間がかかりそうな気がする」


    P.173
    テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。

  • 村上春樹の世界観はすごく好きだ。でも、読み返す作品はほとんどない。読み返さなくても作品の印象が強烈でずっと尾を引いてるから。それでも、この作品は、ぼ〜っとしながら何度も読み返してる。ぼ〜っとしたい時に読むと染み渡る作品。

  • 何故来たの?
    君が呼んだんだ。
    呼んだ?

    そうね、そうかもしれない。呼んだのかもしれないわ。

  • 春樹の青春三部作と言われるものの第二弾。
    鼠も主人公も「風の歌をきけ」よりすこし大人になってすこしネガティブになって
    どこにもいけないしいろいろあるしでもやっぱりなにもないし・・
    ストーリーが一転二転とするわけでもないが青春のうちに見つけたいものに焦ったりあきらめなきゃいけないものがあったり深く考えれば自分も同じような状況であるのだろう。


    「いつかなくなるものに価値はない」

    とは誰か偉人のことばらしいが
    価値がなくてもそのとき、できれば一生たいせつにしたいものもある。

    けっこうおもしろい。 けいた

    さとこ

    けいたがへんなところにコメントをかく

  • 1つの区切りがここにある。
    終わらせる勇気。

著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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