日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫 かB 1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061960183

感想・レビュー・書評

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  • 基本じゃね。カラコーのさー
    これと探求?しか読んでないわけだが。

  • 「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に、(中略)、社会的に文学は如何なる必要あって存在し、隆興し、衰滅するかを極めんと考えり」(夏目漱石)

    「モナリザは、(絵画における)風景から疎外された最初の人物である。彼女の背景にある風景は、風景であるが故に風景として描かれた、最初の風景である。それは純粋な風景であって、人間の行為のたんなる背景ではない。それは中世の人間たちが知らなかったような自然、それ自身のなかに自足してある外的自然である」(ファン・デル・ベルク)

    「風景が画家に提供する興味は、かくのごとく、だんだんに変遷してきたのである。すなわち、初めは画の主題の補助物として、主題に従属せしめられていたものが、次に、妖精でも住んでいそうな、幻想的な新天地を表現することとなり、最後に来たのが印象の勝利であって、素材或は光が、すべてを支配するようになった」
    「私が絵画について述べたことは、全く驚くべき的確さを以て文学にも当嵌まるのである。すなわち文学の、描写というものによる侵略」(ポール・ヴァレリー)

    「この新しい時代(近代)は、すべての実在をそれぞれ”内的経験”と”外的世界”、主観と客観、個人的実在と公共的真理とに二分する強力で革命的な創造的観念を、手中に入れた」(S.K.ランガー)

    「風景がいったん成立すると、その起源は忘れ去られる。それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物(オブジェクト)なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。主観あるいは自己(セルフ)もまた同様である。主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、「風景」において成立したのである。つまりはじめからあるのではなく、「風景」のなかで派生してきたのだ」
    「山水画家が松林を描くとき、まさに松林という概念(意味されるもの)を描くのであって、実在の松林ではない。実在の松林が対象として見えてくるためには、この超越論的な「場」が転倒されなければならない。遠近法がそこにあらわれる。厳密にいえば、遠近法とはすでに遠近法的転倒として出現したのである」
    「たとえば、シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。(中略)リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ」
    「つまり内的なセルフ(自己)の優位のなかではじめて写実(リアリズム)が写実として可能だということである。」
    「そうだとすれば、ロマン派とリアリズムを機能的に対立させることは無意味である」(柄谷行人)

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  • 「意味」にまみれた言葉やモチーフから、如何にしてその「意味」を剥ぎ取っていくか。創作とは、全てそこから始まる気がする。

  • 風景…実際にそれが日本近代文学の起源かどうかはともかく、自明だと思っている事が自明ではない、その事を提示する道筋はかなりスリリング。

  • あんまタイトルは関係ないと思う。文学史を批判して文学史について書いてるわけではないから。「起源」に向けて、自明の事柄をどんどんひっくりかえしていく。たまに何言ってんのかわからないが、それを除けば非常に読みやすい。

  • いくら漱石が写実主義と浪漫主義の両者の内在性を、漱石以後の画期的な文学理論、それも西側の理論『ロシア・フォルマリズム』的に見破っていた、と言及したとして、漱石のテクストが更新されたわけではない。漱石のテクストを読み替えることができるのは実に野蛮だ。曲解も誤解も恐れずに、読む。バルドは作者の死と呼んだが、既成のテクストを読み替える野蛮な理論は常になにかの胎動をもたらす。たとえ、自爆に値する代物だとしても。

  • 「近代」、「文学」、「起源」といったコンセプトの孕む問題も含め、日本近代文学の起源を丹念にかつ明快に検討している。文学を学ぶ際の大きな助けになるであろう一冊。

  • これを読んだときはまだまだな2回生だったため目からウロコでした☆
    なので、文学をやってない人が読んだら、もしかしてモノの見方がかわるかもしれません。
    病のところがすきです。

  • 再読。何度目の再読か。しかしどうにも面白いんだからしょうがない。繊細で暴力的。柄谷行人の書いた本の中で、最もセクシーな本ではないか。とにかく大ひっくり返し大会である。主題は近代日本文学なんだけど、そもそも「思考」の基底を洗い直していくその手付きを追っていくと、美術だろうが演劇だろうが、あらゆる領域が新鮮に見えて来る。そして同時に、この書物の安易な援用はできないこともわかる。「方法」なんてない。たった一回きりの踏破があるだけだ。そういう意味では、椹木野依の「日本・現代・美術」は、この本の唯一最良のフォロワーなんだろうな。ってそんな事思うのは僕だけ?

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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