深い河 (講談社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (374ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062632577

感想・レビュー・書評

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  • 遠藤周作さんの最終章って言われてる理由がわかった気がした。最後大津が死んでしまうところも、多分自分の考え、宗教を押し付けたくなかった遠藤さんの配慮なんだろうと思ったら、この人の宗教多元主義的な考え方を信頼できて共感もできてすごく心打たれた

  • 僧侶の方から宗教との対話や多元主義との絡みで紹介され、十数年ぶりに再読。お坊さんに勧められたせいか、妙に仏教的な印象を受けた。納得したり、首を傾げたり。
    自分の記憶の中のラストシーンはさらに先まで続いていた。きっと当時の私は読後、彼らはこの後こうなるだろうと想像し、それがそのまま記憶になったのだろう。
    広い河ではなく、深い河。宗教の底知れなさを感じた。

  • バーラーナスィという場所はどんなところなんだろうか、と最近見た映画で感じたことが、まさにこの中に書いてあったと思いました。諸説遠藤周作の本作には別の舞台設定があると書かれているレビューもいつくかサラッと拝見しましたが、概念として、インド人やイスラムの人々にとってどれだけこの場所が大事な場所なのかを知ることができた作品でした。

    人には人それぞれの生きざまがあって、それを誰かが全て完璧に理解出来る訳じゃない。恋愛はその部分にフィルターがかかって、愛する人を丸ごと全部理解出来ている気になるけれど、それはただの妄想。一緒に暮らす夫婦や、対愛犬や愛猫についても完全に分かり合うことは本当に難しいんだと思えた時に、それでも誰かを理解したい気持ちはどうしようか。

    そのために河という象徴が、言葉もなくただ流れているだけで、自分の経験値の範囲の中にある最大限の言葉を持って、その気持ちを優しく包み込んでくれんじゃないか、と思った。

    表現することが難しい内容を、時間をかけてゆっくり、ゆっくりと身体に馴染ませられたような気持ちになりました。ずっと積み本だった一冊。読めて良かった。

  • 三葛館一般 913.6||EN

    和医大図書館ではココ → http://opac.wakayama-med.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=68208

  • 信仰を広める立場がオリジナル要素の強い解釈を広めることを止められるのは、まぁそうだろうなと思わずにはいられないです。遠藤周作はインドに何を感じていたんですかね。インドのカオスな要素を、日本人のキリスト教徒である自分に重ねていたのでしょうか。

  • 1709 そのときの時代を感じさせる作品。それぞれの人生と神との関わり。理解するには歳も経験も少し早かったかな。。。

  • 紙幅の量に対して込めたい伝えたいメッセージが多すぎるのか、やや説得力の欠ける展開が散見される。様々な登場人物が出て来るが、大津しか印象に残らない。が、大津はとにかくよく描けている。これほど魅力的なキャラクターもそうそういるまい。

  • マイベスト小説かもしれない。
    遠藤周作先生の作品は、他の作品含めて「欧米的なキリスト教の考え方」に対して、神道的な考えが根付いた日本で育ったキリスト教信者としての、先生自身の苦悩が反映されている。
    私自身、信者ではないが幼い頃から近くにキリスト教があり、良いところ、疑問に思うところなど抱えていながら悶々としていたので、遠藤先生の作品を読むと激しく感情移入してしまうのだ。

    中でもこの作品は特別だった。
    神も愛も信じない女は効率的に生き、社会的な地位を手に入れた。
    男は痛々しく、嘲笑れながらも神と愛を信じ、インドで慈悲に生きた。
    朴訥でありながら、信念を貫き、生きる男の姿に考えさせられた。
    想像を越える、格差社会のインド、いつか行ってみたい

  • 久々にガツンと、グツンと、グラッときた。

  • 悪の中にも善があり、善の中にも悪がある、悪(罪)をそのまま善と転じてくれる。大津の出会った神はそういう神だった。だが当然ながら、正統カトリックではそのような神像は異端とされてしまう。大津の神は、ヨーロッパにおける善悪を厳しく峻別する理性的な神ではなく、生も死も、善も悪もすべてをそのまま包み込む、太母のような神である。日本人としてはなじみ深い、阿弥陀如来の姿に通じると思う。木口がインドで友のために唱える経が「阿弥陀経」であることも、それを表しているか。
    その神の姿は、悠久のインドを流れるガンジス川となって顕れる。

    キリスト教とは縁遠い日本、そしてインド。それらの地にも、いたるところにキリストの姿は見られる。異教の女神像にも、九官鳥の中にも、神羅万象の中にさえも。例えば人々の苦しみを背負いながらなお乳(=命)を与えんとする女神・死に瀕したものの身代わりとなって死ぬ九官鳥・三角形を形作って飛び去る鳥・等々…これらはキリストを意味しているのである。しかしこの感覚こそが、カトリックが異端として退ける汎神論なのだ。
    遠藤はあえて(キリスト教から見た)異教の地日本とインドを舞台に選び、そこに息づく汎神論的キリストの姿を提示して見せる。

    沼田が密林の中で九官鳥を放す場面は、一つの命を自然界(神)へと返す行為という意味でカトリックのミサに通じ、一つの命がそのまま自然界(宇宙)そのものの命であるとの暗示において普遍的な意味を獲得する。

    磯辺が亡き妻の言葉に突き動かされて、思いもしなかったインドへの旅に駆り立てられたことは、すでに世を去って久しいキリストの言葉に生かされ、また従おうとする大津の行動に通じる。転生(復活)とは、そういうことだ、キリストはあまねく誰の心にも、転生しうる…

    個人的には美津子にだけは感情移入ができなかった。だが、大津を失った後、美津子の中にキリストが転生する時が来るのだろう。生涯を最後までキリストに倣うことに努めた大津の意味を、美津子が悟る時。いや、多分もうすでに、美津子の中にもキリストは転生しているのだ。…

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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