- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065260975
作品紹介・あらすじ
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ぜんぶ、言っちゃうね。
このままでは日本の歴史学は崩壊する!?
歴史を愛する人気学者の半生記にして反省の記――。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
歴史学は奥も闇も深い
●「物語の歴史」と「科学の歴史」の大きな違い
●時代が変われば歴史も変わる怖さ
●実証と単純実証は断じて違う
●皇国史観VS.実証主義の死闘
●教育者の一流≠研究者の一流
●修業時代とブラック寺院
●私は認められたかった
●「博士号」の激しすぎるインフレ
●「古代+京都」至上主義の嫌な感じ
●「生徒が考える」歴史教科書はNGだった
●歴史学衰退の主犯は大学受験
●私を批判する若い研究者たちへ
●唯物史観を超えるヒント
●網野史学にも検証が必要だ
●民衆からユートピアは生まれるか
●「日本史のIT化」は学問なのか
●次なる目標はヒストリカル・コミュニケーター
本書のテーマは「歴史学者」、つまり歴史を研究するということの意味について考えること――だ。(中略)聞きようによっては、同僚や他の研究者の批判に聞こえてしまうようなところもあるかもしれないが、もちろん個人攻撃や人格攻撃などの意図はまったくない。あくまで学問的な批判だと考えていただければよい。ここまで心中を正直に吐露したのは本書が初めてであろう。
幼年時代の私は、偉人伝などをはじめとする「物語」としての歴史にハマった。だが、本格的な歴史研究者を志すために大学に入ると、そこには「物語」などではない、「科学」という、まったく新しい様相の歴史が待ち構えていた。
学生時代の私は、史料をひたすら読み込む「実証」という帰納的な歴史に魅了された。その一方で、いくつかの史実をつなげて仮説を組み立てようとする演繹的な歴史のもつ面白さにハマった時期もあった。だが、実証を好む人々からは「仮説」というものは徹底して異端視され、しばしば私も批判されることになった。
さらに学びを深めるうちに、歴史学、歴史というものは決して悠久でも万古不易でもなく、それどころか、むしろその時代のもつ雰囲気や世論、世界の流れなどによって、簡単に姿を変えてしまう、ある意味恐ろしいものなのだという現実も知った。また、受験科目としての安直きわまりない「歴史」が、数多くの歴史嫌いを大量生産し、結果的に歴史という学問の著しい衰退を招いてしまっている事実にも言及したい。
こうした機微な話は歴史の授業や歴史学の講義ではなかなか話題にならない。(「はじめに」を一部改稿)
感想・レビュー・書評
-
遠藤誠という白髪混じりの豊かな黒髪を無造作に撫でつけた文士然とした弁護士がいた。帝銀事件の弁護団長や『ゆきゆきて、進軍』の奥崎謙三の弁護人、山口組の顧問弁護士を務めた。その遠藤氏が〈右翼と左翼の違い〉について語った記事を、確か『噂の真相』で読んだ記憶がある。
〈右翼は先の戦争を聖戦と見なし、左翼は侵略戦争とみなす〉。明快な見解を述べるご本人はバリバリのマルクス主義者。またイデオロギーの対極にあるヤクザや右翼団体の弁護も請負った。その理由は『同じ反体制だから…』。渾沌と信念が同居してるような方だった。
…そんなことを、ページを繰りながら古い記憶が蘇った。自国の歴史についての見解についてもしかり。学者の立ち位置によって異なる。日本史教科書の近現代史の記述なんて、その最たるもの。必ず自虐史観か否かが議論され、そもそもニュートラルがどこにあるかさえ定めきれずの状態で、どちらかに偏るのは致し方ないにもかかわらず、右派は口角泡飛ばし、しばらく不毛な議論が展開される。
私見を述べるなら、近現代史においては右派と左派の教科書を見比べながら学ぶのがいいんでは。どう判断するかは学ぶ側が決める。
まぁ、現代史は大学受験にほとんど出題されないし、相変わらず卑弥呼から順番に辿り、タイムオーバーは必至。こと〈受験の日本史〉であれば山川の教科書1冊で事足りる。
〈教養としての日本史〉教育に重きを置くのなら見解の相違をありのままに提示し、歴史学の複雑さを知る上でもプラスだと思う。
さて、本書。
学者というのは、研究する分野において膨大な資料を渉漁し、フィールドワークや実験を行い、その一連の行為を通して浮かび上がった事実を繋ぎ合わせ、ある仮説を立てる…というのが理系文系問わず共通する姿と思っていた。
しかしながら、本書で語られる『歴史学者』は、必ずしもそうとは限らないんですな。
このことが、本書の主題『歴史学者という病』に繋がる。現在では〈歴史学は科学〉と認識され、資料をひたすら読み込み、事実のみを拾い出す『実証』がメインストリーム。
ただ、そこに至るまで日本の歴史学は時代の波に翻弄され続けてきた。戦前は皇国史観オンリー、敗戦後は唯物史観(マルクス主義史観)がニューウェーブ。そんな変遷を経て実証史学主観に至る。
それだけあちこちにうつろう史観に学者たちも浮沈の憂き目に遭う。国史って実体がありそうでいて、 その実、かなり相対的で振り幅の大きい不安定な学問であることを知り、驚く。
著者は実証史学に対し疑問を目を向ける。資料資料と言うが、そもそも恣意的に作られたものが多く、そこに解釈に様々な考えが入り交じる現実から、著者は事実から仮説を導く演繹的解析を行う手法を採用。
また実証主義学者は『司馬遼太郎はバカだ!』と宣う。理由は司馬遼太郎は資料に基づいておらず実証がまったくわかっていないから。
確かに司馬史観については意見は分かれるが、司馬遼太郎は執筆となれば、神保町の古書店からある特定分野の書物が払底すると言われるぐらい資料収集は徹底。
作家は集めた材料を発酵熟成させ、歴史小説に仕立て上げるのが仕事…と、学者は見なさず偏狭な意見を垂れる。このあたり『象牙の塔』と揶揄される所以ですな。司馬遼太郎や山岡荘八らの数多の作品は冒険活劇の匂いを放つものもあるが、それが歴史好きを産んだのは紛れない事実。
著者も偉人たちに通底する歴史ロマンを愛し、偉人伝に心を揺さぶられてきたひとりであるが、東大で国史を専攻するうちに、自身が信奉してきた『物語の歴史』と訣別しなければならず、科学としての実証史学を突きつけられ、葛藤と懊悩の結果、『正統な歴史学のメソッドを体得する!』という方向に大きく舵を切る。
具体的には、こつこつと『史実』を復元し、復元された史実をいくつも並べ、俯瞰する『史像』を導き集積した史像からの『史観』という歴史の見方を生み出していく。史実という土台が堅固であれば、史像や史観ならば、それは実証史学の範疇であると。
著者は3年後に東大資料編纂所教授の定年を迎える。現在の心境は、歴史学は今やダサい学問になり下り、依然として、受験の日本史が数多くの歴史嫌いを大量生産していると嘆き、憂う。
はたして、自分に出来ることは?
その命題に対し歴史学という学問の魅力をわかりやすく伝える、『ヒストリカル・コミュニケーター』になろうと誓い、次々と歴史解説本を上梓し、テレビに出演し、すでに活動を開始。
本書は私家版『私の履歴書』である。大好きな歴史学に身を置いたものの、現実との乖離を思い知らされ、自意識をかなぐり捨て、正統な歴史学のメソッドを体得するまでの長い旅路を描く。
半生記でありながら反省記でもあり、軋轢・衝突・失態を通して得た成長物語としても読める好著。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「半生記にして反省の記」という帯のノリにどれくらい乗っかって良いものか・・・
前半はご自分の生い立ちや学生時代などをユーモアを交えて書かれているが、終盤に近づくにつれてマジになり、専門的な話になり、私の頭脳では消化できなくなってくる。
(まあ、頭脳は消化器官ではないわけだが)
本郷先生は、時々テレビにも出演されているから顔と名前が一致する学者さんで、とても面白い方だということも分かっている。
「東京大学資料編纂室」という肩書きも知っていたが、そこが何をするところなのか知らなかった。
たとえば誰もが知っている「日本書紀」みたいな歴史書を編纂しているのだという。
驚いた。
そして、そこでの上司が奥様であり、本郷先生がどれだけ奥様を尊敬していらっしゃるのかも分かった。
歴史は、理系のように答えがはっきり出るものではなく、時代や研究者によって考え方が違ってしまうのだという。
例えば、戦前までの「皇国史観」
印象的だったのは、皇国史観ゴリゴリのとある先生が、農民一揆をテーマに卒論を書きたいと言って来た教え子に「豚に歴史はありますか」と言い放ったということ。
歴史はエリートのものだというのだ。
逆に、歴史は名もなき人々のものだという考えの先生もいる。
なかなか難しい。
いろんな先生たちのことを書きすぎている気がするが大丈夫なのか(笑)
資料があって、それを研究して、「考える」ということが必要なのに、試験で良い点を取るためには「暗記さえすればいい」と言われ、つまらない科目だと思われているのが悔しいという。
歴史学はどんどん研究予算も削られている。
テレビに出たりするのは、歴史学の魅力をもっと広く知らしめたい、という動機らしい。
私たち市井の歴史好きは、十分楽しませていただいているけれど、もっと上つ方にアピールできないと、予算にはつながらないんでしょうねえ・・・ -
自伝的エッセイ。終活モードは続く。
-
ブタに歴史はありますか? なんたるパワーワード!
平泉澄、ヤベェな。
それはさて置き、本筋は以下。
まるで熱血実証史学者群雄伝だね。
戦前の皇国史観との抗争と敗北から始まり、戦後の唯物史観の隆盛と崩壊、そして今も続く訓詁学的実証史学原理主義者との内ゲバ的な闘争が、魅力的な史学者達のキャラクターとともに物語られる。
私達の愛読する歴史小説や歴史本の参考文献に列記されてる、名前だけはお馴染みの、あの学術書群の著者達の、歴史です。
歴史好きのキミ!面白いから読んどきな♪
今までと違う角度で読書が進むこと間違いないから。
そして、何者でも無かった私達と同じような歴ヲタ少年が、いかにして実証史学のプロフェッショナル(プロフェッサーともいふ)を志し、惑い躓き、それでも歩み続け、ついに己の天命(←ヒストリカルコミュニケーター)を知るに至ったか。
そんな素敵なビルドゥングスロマンにもなってる。
一粒で2度美味しくコスパ最高ね。
あの石井進教授との愛憎半ばする師弟関係なんて、雑魚からすると『あんな先生、いなかったなぁ』と羨ましい限り。
ところで、本書の著者の本郷和人教授は 逃げ上手の若君(松井優征:暗殺教室) や 新九郎奔る(ゆうきまさみ:究極超人あ~る) や 雪花の虎(東村アキコ:海月姫) の監修をされてる事を今さっき知りまして、もちろん雑魚も愛読してまして、もしや昨今のメジャー誌界隈での歴史漫画のプチブームの仕掛け人は本郷教授であったかと思い至った訳で。
史学復興計画、順調みたいですね♪ -
個人的には大変面白い。
誰もが面白いと感じられるかは疑問符がつく。
興味を持って面白いと思う人は以下のような方であろうか。
・歴史に興味があり、これから歴史学を志す人
・大学で歴史をかじった人
・過去、歴史学を履修したことがある人
・蛸壺のような学会政治に興味がある人
まず、歴史学と歴史は全く別物と認識する必要がある。
歴史学科に入った時の違和感は以下に代表される。
三国志、戦国時代、幕末が好きなのに自分の好きな○○は研究対象にならないと
いうことである。
歴史は物語であり、歴史学は実証を元に構造化するということである。
とはいえ、歴史学も物語主義と実証主義かという2つの軸のバランスで学会は成り立っている。
学会は古文書などを元にした実証主義が大勢をしめ、実証主義もただ資料を現代語訳するだけ
となっているという実勢に批判が入っている。
現代までの歴史学の流れは以下になっているという。
、
1皇国史観の歴史学 (主な学者 平泉澄)
2マルクス主義、唯物史観の歴史学 (主な学者 石母田正)
3社会学史的アプローチの歴史学(主な学者 網野善彦 佐藤進 勝俣鎮夫 笠松宏至)
90年代の歴史学は唯物史観は影を潜め、網野史学を代表とするアナール学派が評判となっていた。
歴史学は抽象化、構造化が苦手な性質をもっており、社会学のフレームワークを持ってきて結論ありき
実証は後回しの状況には危惧をしていた。
網野史学への違和感は民衆は平和や自由を追い求めるという面をクローズアップするあまり、
結論に実証を紐づけるきらいがあった。
(極端な話 学会の趨勢がマルクス主義が社会学史に置き換わったような印象もあった)
歴史学は資料をもとにした実証的すぎる立場(物語性なし)、ある立場にしたがった物語的歴史学(実証少なめ)
どちらかに偏っていたように思う。
筆者は以下の手順を取って歴史学を論じるべきといっているように思う。
資料を元にした事実の確認→事実を元にした他の資料との整合性の確認→抽象化・帰納化→解釈
上記のような考えであれば統一理論的な解決はできないと思われる。
ボトムアップ的な考えで、「この条件であればこうという」「この考えは全体の一部」という
歯切れの悪い結論となると思われる。
しかし、ビジネス界隈では当然用いられる手法であり、歴史学でも取り入れられてしかるべきである。 -
今回は歴史の話もあったけど、学者としての裏話というか業界に入った経緯も含めた1冊で、それなりに面白かった。この手の道を選択しなくてよかった。真理の追求は「面白い」だけではやっていけない。
-
『感想』
〇素人が楽しむ歴史と研究対象としての歴史学は別物である。ロマンを求めて歴史学の道に入ってはいけないんだね。
〇歴史学は科学ということで、やっぱ理科的思考も必要なんだな。
〇楽しむ歴史と受験のための歴史も違う。最近はちょっとは近くなったかもしれないが。
〇私は小さいころマンガ日本の歴史を読み、ゲーム信長の野望をプレイし、歴史に興味を持つようになった。時代の流れを掴んだうえでその時々の事柄を捉えたから、歴史はただの暗記科目ではない、点と点を繋いでいく学問でありそれが今の生活にもつながっているんだと思っていた。教養としての知識も受験対策としての知識も楽しく学んだ。今だって歴史を学ぶのは楽しい。
〇現実は厳しいか。趣味を仕事にしてはいけないというやつだな。もちろん日々研究を重ねてくださっている人々のおかげで新しい発見や解釈が生まれていて、それを知ってまたロマンを感じてはいるのだが。 -
著者の自伝として読みながら、歴史を扱うとはどういう事かを知ることができる。
時代が変われば歴史も変わるという話は、イギリスの産業革命の有無がイギリスの景気で変わるという話と近い物があって面白い。
歴史において真実の情報だけを集めること、そこからつなげて叙述を作り出すこと。このせめぎ合いがとても難しいバランスで安易に新しい発見や面白い解釈を信じてしまう自分としては気をつけねばと思った。 -
図書館で借りた。
東京大学の本郷先生の自伝であり、歴史学とは・歴史学者の仕事とは、というものを教えてくれる本でもあり、歴史学会の流派・流儀を知れる本でもあり、戦前から現在にかけて「教育」の変遷を知れる本でもある。
ちょうど難しめの歴史学の本を読もうとしていたので、その前に軽く読む新書として満足できた。
自分の近い分野に数学科があり、よく「数学が好き・得意だからといって軽い気持ちで数学科に行ってはいけない。別物だからだ」なんて聞くが、歴史学もその面では似ているな、と思った。
また、歴史学者がどんなことをしているのかを垣間見ることができた。本郷先生の人間味がちょいちょい顔を出すのもこの本のスパイス的に楽しかった点。 -
すごく面白い。
いつのまにか学問は、「研究」ではなく「仕事」になっている。実証にこだわるあまり、考えなくなっている。あらゆるところで、アレントが言う「行為」の空間は削られているのだ!
そこに危機感を持って、素朴に社会へ発信しようとする著者の公共精神にしびれる。現代の知識人とは、大学の研究者のことではない。著者のような「社会のために」をしっかりと考えてきた知の担い手のことである。
東京・亀有の大家族に生まれたという生い立ちの振り返りからして面白い。戦後歴史学のおよその流れとして、第〇世代「皇国史観の歴史学」、第一世代「マルクス主義史観の歴史学」、第二世代「社会史「四人組の時代」」、第四世代「現在」というまとめも、実に分かりやすい。著者の歩んだ研究者人生と、戦後歴史学とがクロスして、実感として頭に入ってくる。
ある程度やり遂げた40代。仲間作りを始めるといったくだり。実によく分かる。業界のマウント取りが、ばからしくなるころだ。気づくと周りは、その特定の業界や組織の論理を反復するだけで、考えなくなっている。くだらない。著者の怒りはよく分かる。京都定点観測の歴史像、エリートの押し付ける歴史への批判(p183)なんかも、実に共感できる。
著者が体験した教科書づくり。「暗記」の脱却を目指す試みは見事に挫折。結局は先例にならったものができあがる。なぜか? ことはそう簡単ではないからだ。教科書は高校の先生が扱う。高校の先生には生徒を合格させるというミッションがある。そして大学受験は「暗記」でできている。そう、戦う相手は日本の教育システム全体だったのだ!
実証をめぐる著者の思い。ただ上から下へ自動的に落ちるような作業を「牛のよだれ」(p196)と痛烈に批判するが、結局、研究という知的行為も、いつのまにか自動的な「労働」に成り下がっている!!調べるだけで「考える」がないのだ(p202)
といって網野史観への指摘もバランスがいい(p210)。神聖視するのも間違っているが、民衆を持ち上げすぎるのもどうか、と。
最後。「あなたが居座ろうと思っている今の歴史学界隈はこのまま存続できると思ってますか?」)(p220)この指摘は重い。
いつのまにか、居座っている人たちが多い。その人たちはいつまでも更新しない。外とつながろうとしない。だからこそ、著者のような存在が際立つ。研究者や、あるいは、ある程度年を重ねた社会人は、本書を読んで、自らの行為がここでいう「研究」ではなく「仕事」に置き換わっていないか、自問すべきだろう。名著。